2012/08/03

「エネルギー選択肢」パブコメ、私の投稿

 政府のエネルギー・環境会議が決めた「エネルギー・環境に関する選択肢」 に対するパブリックコメントを募集している。 私もコメントを投稿した。以下の通りである。長く書かない方が良かろうと,要点だけを書いた。ブログ掲載時に一部補筆した。

【概要・100字以内】
原発ゼロとする。地震と津波が想定を超え同様の事故が起きないと断定できない。さりとて即全廃はエネルギー需給上困難。代替エネルギー開発に注力し可及的速やかに原発から撤退すべき。

【意見詳細】
福島原発事故により原発への国民の信頼は崩壊した。回復不可能と考える。原子力は長期的視点で新規まき直しを図るしかあるまい。原子力そのものに手をつけたことが人類として間違っていたとは,私は考えないが、現行の大出力高出力密度の軽水炉型は地震国には向かない。

原発を全部即時停止せよとの国民世論が高まっていることは、福島事故の影響が甚大・広汎だっただけに理解できる。しかし全原発をこのまま停止すれば、エネルギー受給が制約を受け、経済への悪影響は必至であろう。それにより全国民が被害を蒙ることを考えねばなるまい。また東電の場合原発を停めた経営環境で莫大な賠償金を支払い続けることが出来るか。出来ないとなれば,結局税金でみんなが負担しなければならないことになる。そこまで覚悟した上で全原発即停止を主張できるか。原発停止による「安心」を選ぶか、国民経済への悪影響を避ける道をとるか。難しい選択だが,私は後者を選ぶ。

一部原発の稼働を認めることになるが、その際十分な見極めが必要となる。稼働を認める原発についての厳格な基準を設け、特に過酷事故対策と訓練を義務づけ、それらを第三者機関(規制委員会)で審査するなど。これにより事故を起こす可能性が比較的低い原発を選別し再稼働を認め、他方リスクの高い老朽化した原発は再稼働しないとする、分別作業を進め、残存寿命の短いものから次第に停めていくことで、脱原発を段階的に進めるべきであろう。(なおこのプロセスを経ずして大飯原発の再稼働を認めたことは拙劣な政治判断だった。再稼働反対の国民運動が起きているのは当然であろう。規制委員会発足後、新基準による再審査、場合によっては停止命令を発することも当然であろう)なお2030年に原発ゼロの目標を掲げることは、この作業を具体的に進めるための大前提となろう。

今後の原子力について付言すると、受動安全性を備え、いかなる地震・津波その他想定外の災害に対して放射性物質閉じ込め、崩壊熱除去が保証できる原子力発電方式の開発へ長期的視点で取り組むべきと考える。稼働することになる炉の安全性向上、事故炉及び停止炉の廃炉、そして将来炉の研究開発の三者をこれからの原子力研究開発課題として注力すべきである。将来炉としては高速増殖炉を除外し、「もんじゅ」開発をここで停止することは勿論である。

ゼロシナリオの当然の前提/帰結であるが、核燃料サイクルは断念することになる。使用済み燃料は再処理に回さず,使用済み燃料プールで冷却後、乾式貯蔵キャスクにより長期管理をしたらいい。遠い未来に技術開発が進むことで活用できる資源になること、あるいは革新的なバックエンド技術開発によって現在より受忍度の高い処分が可能になることをを期待して。

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2011/02/06

76歳、現状報告

 76歳になった。いい歳だ。自分がこんな年齢になったとは信じられない。まだまだ若いつもりでいる。週に4、5回、それぞれ1〜1.5時間程度、プールで泳ぐ。ほかにスポーツジムのエクササイズ(ピラティスなど)にも参加する。元気にこなしている。おかげで健康状態はすこぶる良い。スリムな体型を保ち、身体に何の問題もない(じつは昨年原因不明の下血があり、5日間ほど入院したが、その後順調である)。

 知的活動も衰えたとはいえ、多方面にわたってモティベーションを維持している。読書、インターネット(ブログやツイッターの読み書き)、パソコンやその他電子機器(MacとiPhoneを組み合わせたデジタル生活)、デジタル写真(撮影、画像処理、それらの先端の追っかけ)そして旅行(海外旅行はこのところ、年1,2回程度、ほかに国内旅行も)など、持てる時間で追いつかないほどの知的興味を持続している。

 もちろん年齢相応の衰えを感じている。このブログに、誕生日を迎えたのを機会に、何度か所感(例えばここ)を書いている。また年賀状代わりの家庭新聞(ここ)で、毎年近況報告をしている。それを読み直してみると、老いへの言及が多くなっているのに気づく。また同じことの繰り返しになりかねない。そこで今回はもう少し掘り下げて、現状と心境を書いておこう。


 総じていえば、これでいいのかという自己反省、現状への物足りなさ、過去への失意などが半分、片方では、これでいい、このまま行こうという自己受容が半分、というアンビバレントな気持を抱えてやっている、というのが正直なところだ。

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2010/12/12

When you are getting on in years

 When you are getting on in years (but not ill, of course), you get very sleepy at times, and the hours seem to pass like lazy cattle moving across a landscape. 〈年をとってくると、(もちろん病気ではなくて)、どうにも眠くてうつらうつらすることがある。そんなときには、まるで田園風景の中に動く牛の群でも見るように、時のたつのがものうく思われるものだ。〉
 妻は寝入りばなに本を読む。そのまま枕元のスタンドを消さず、本、雑誌、新聞などを手に持ったまま寝入ることが多い(注)。昨夜もそうだった。新聞がまるで3角屋根のテントのように、すやすや寝ている彼女の上に立っていた。そのことを今朝になって言うと、出てきたのが、これである。James Hilton "Good-bye, Mr. Chips"(J. ヒルトン「チップス先生さようなら」1934年出版) の書き出しの一節だ。

 妻と私は、昭和28年、大学一年生の時、この小説を英語教科のテキストとして習った。別々の大学で、たまたま同じ教師から全く同じ時期に教わった。どの大学でも、教養課程の外国語教育を専任教師だけでまかなえるほど教授陣を揃えていなかったのだろう、非常勤講師があちこちの大学を掛け持ちするのは普通だった。今でもその事情は変わっていないのではないか。それにしても同じ先生から同じテキストで習ったとは、かなり偶然の賜物だろう。幼なじみ同士であったとはいえ、当時はそんなことは知るよしもなかった。結婚後何かのきっかけでそのことが分かったのだった。

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2010/12/06

金沢に住んだ頃(後編)

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    【記憶のある犀川大橋を見に行った】

小学校入学 昭和16年(1941)小学校に入学した。新竪町小学校である。住居からはかなり遠かった。広坂通りを兼六園のある広坂交差点まで行くと、そこから南へ犀川へ向かう大きな通りがある。本多通りである。その道を1キロ弱、犀川大通りとの交差点、鱗町を超えたところにこの小学校がある。明治3年に創立され、明治19年以降ずっと現在地にあるという金沢では歴史の古い小学校である。平成12年に創立130年を迎えている。学校のホームページには、この校区ゆかりの有名人として三宅雪嶺、鈴木大拙、室生犀星、藤岡東圃の名をあげている。この小学校出身かどうかは明記されていないが、この地区の出身である。実際、金沢を訪れたとき、本多屋敷跡から坂(大乗寺坂)を下り、本多町を横切って、新竪町小学校へ向かったとき、鈴木大拙生誕の地に出くわした。禅と日本文化を外国に紹介した仏教学者として知られる。

小学校、じつは国民学校 私の入学した年に学制改革があって、小学校(正確には尋常小学校)は国民学校初等科と名を改められた。教科書も変わった。「ヨミカタ」という名の国語の教科書の一年生のものは、その最初のページが「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」と始まる。それまでは「サイタ サイタ サクラガサイタ」だった。新教科書はその数ページあとに「ヘイタイサン ススメ ススメ  チテ チテ タトタ テテ タテ タ」などとあって、戦時色が出てきている。そのあたりに学制改革の意図がにじみ出ている。国民学校は、戦後の学制改革(新制中学、新制高校など)まで続いた。昭和22年3月までちょうど私が在学した6年間が丸ごと国民学校時代だったのである。

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2010/12/02

深町純の死

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 純が亡くなった。突然の死だった。心臓の動脈解離(動脈の層構造が剥がれてしまう)が原因とされる心嚢血腫(心臓を包む袋の中に出血)で、22日夜、寝ているうちに突然死してしまった。葬儀で会った純の妹、エリによると、一週ほど前に、視界が真っ暗になるという予兆があったらしい。その時に診察を受けていれば、死を避けることができたかもしれない。彼の死で失ったものが大きいだけに惜しまれる。病院嫌いは親譲りなのだろう。彼の父も病院嫌い、医者嫌いを通し、何か訳の分からないままに自宅での死を迎えた。私の叔父に当たるこの父親の死についてはここに書いた。純とこの父親についても話題にしている。

 彼は稀代の反逆児だったから、自分の葬儀などまっぴらごめんというところだらう。しかし、遺族や周辺の音楽関係者にはそうはいかず、この葬儀となったようだ。弔辞の中で友人が語っていたことによると、彼はこのところ「カドが取れて」丸くなったというから、それでいいよと言っているかもしれない。日本基督教団の目白教会で葬儀が行われた。その場所は、純にとっても無縁ではない。幼児の頃、その教会の近くに住んだ。母親の通った教会であり、自分も教会付属幼稚園に通った。日曜学校にも出たことがあっただろう。その教会に、多くの音楽関係者や彼のファンが集まり、彼の死を悼んだ。彼の棺に花を手向け、彼との最後の別れを惜しむ人々の列は、1時間以上に及んだ。親族ゆえ最初に献花をすませ、そのまま会場の外に出てしまったあと、久しぶりに顔を合わせた姉弟たちと四方山話するために寄った近くの喫茶店の窓外を、ひっきりなしに弔問を終えた喪服の人たちが通り過ぎるのを見た。

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2010/11/20

金沢に住んだ頃(前篇)

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 金沢のホテルの部屋に入り、すぐに窓から外をのぞき見た。眼下にといっていいほどの方角に、かつて住んだ場所が見えた。地図であらかじめ見当をつけておいたから、そこだと即座に分かった。香林坊の交差点から兼六園へ向かう広坂通りの南沿い、最初のブロックの角地だ。今は白い大きなビルになっている。地図によると香林坊第一ビル。かつては広い敷地に十分な前庭を置いて平屋の教会が建っていた。今は敷地いっぱいの箱形9階建てのビルになっている。すっかり変わってしまったな。無理もない。70年も前のことだ。

 金沢に旅行したのは、11月の第2週。3泊4日。旅の目的は、昔住んだ懐かしい街を訪ねることにあった。その頃住んだ場所の至近距離にホテルをとった。金沢エクセルホテル東急。香林坊の表通りに面した高層のホテルだ。チェックインして指定された14階の部屋は、たまたま広坂通りを望める好位置だった。

 昭和15年4月から昭和17年2月まで、私が5才から7才までの、二年たらずの時期をそこで過ごした。短い期間であったが、小学校への入学、父の出征、太平洋戦争開戦など、思い出深い出来事を経験した場所であった。時を経て、物理の研究者をやっていた頃、金沢大学で開催された物理学会の折、この街を訪れる機会はあったものの、用事のみを済ませて帰る出張だった。今回ようやく思い出の地をじっくり再訪することができた。結婚50年余をともに過ごした妻に、私が幼時を過ごした地をはじめて見せる機会ともなった(私は彼女が幼時から小5年までを過ごしたソウルを訪れたことがない)。そんなことで、70年も昔のことだが、いろいろと思い出した。そのことを書いておこう。自分史の一齣のようなメモであるが、こんな時代もあったのだと読んでいただけるとありがたい。

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2010/09/23

深町純ピアノコンサート

 右の欄の「最近のコメント」にみどりさんという方が、深町純のピアノコンサートの予告を書いてくださった。本エントリにタイトル付きで掲載しておこう。

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はじめまして、突然ですが私のプロデュースで深町純クラシックピアノソロコンサートをご案内します。

鎌倉「きよこ」
10月16日15時スタート
10月17日14時スタート

両日ともに限定40名様チャージ5000円
ショパンを中心にシューマン、バッハを弾きます。
芸大受験の時よりも真面目にお稽古しています。
いつものライブより緊張しています。
「きよこ」は江の島と沈む夕日の見れるとても素敵な場所です。
たくさんの方に初めてのクラシックコンサート応援していただきたくご案内差し上げます。
お問い合わせはメールアドレスまでお願いします。
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2010/08/25

海外旅行へ

 2週間ほどの海外旅行に出かける。旅先での便りを別のブログ、『アクエリアン雑記帳』に書くつもりだ。ご興味のある方はそちらをごらんいただきたい。私なりの旅のテーマは、ふくらませていえば、「ヨーロッパを海から」である。ヨーロッパは何度か訪れているが、ぐるりと一回り、海の側からヨーロッパを眺めてみて、何か新しく感じ取るものがあるのだろうか、そんな問題意識を持って、旅に出かけてみる。

 ブログに書くといっても、iPhoneと、iPadを持っていって、無線LANが使えるならば、ブログ通信を送信してみようという程度の、頼りない予告である。機器のつながる通信環境が得られるか。落ち着いて書いて送れるのは船の上ということで、いささか心許ない。何もエントリーがない場合には、そのあたりがダメであったということで、お許し願いたい。

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2010/08/12

岡井敏『原爆は日本人に使っていいな』への疑問

 タイトルとした本が出版されたので読んでみた。原爆が日本人に対する人種差別意識のもと広島・長崎に投下されたことを示す『覚書』があること、その事実に基づき原爆を犯罪として糾弾するべきであること、それを起点に核廃絶運動を再出発すべきことを訴えている。

 一読してその主張の正当性に疑問を抱いた。原爆開発の進捗状況と戦況の推移とを両にらみしながら原爆投下がどのようなプロセスで決定されたか。その全体像についての客観的理解なしに一文書だけを取り上げ、さらにそれをかなり曲げて解釈して問題だ、問題だと騒ぎ立てているように思える。

 その覚書の中に 〈when a "bomb" is finally available, it might perhaps, after mature consideration, be used against the Japanese" 〉との一節がある。「日本に対して」ではなく「日本人に対して」という表現が使われているところに人種差別意識が顕れているというのが著者の主張だ。しかし、英語の表現としてそれほどの差があるだろうか。これが疑問の一点。

 岡井はさらに、原爆開発を始める動機となった「ドイツに先を越されるな」からすれば、当然予想される「ドイツに対して」でなく、なぜ「日本に対して」なのかを問題にし、人種差別が根底にあるとしている。しかし覚書が書かれた頃の戦況からすれば、ドイツ戦の終息が見えてきており、原爆は日本に使うことになろうとしたのは当事者からすれば自然な推移と思われる。これが岡井の主張に対する疑問点の2。

 この『覚書』(ハイドバーク覚書と呼ばれている。ローズヴェルト大統領の私邸のあるニューヨーク州ハイドパークで会談が行われた)は1944年9月(原爆投下の11ヶ月前)、ローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相との会談での合意事項をまとめたもので、ある種の密約文書である。ところが米側ではローズヴェルト大統領によって握りつぶされ(外交文書として公的に扱われることなく、私邸の書庫に眠っていた)、大統領以外の誰ひとりその密約を知らぬ間に大統領は45年4月に亡くなってしまった。あとを継いだトルーマン大統領のもとでの原爆投下決定過程に、この覚書は全く影響を及ぼさなかった。この事実を著者はご存じないらしい。これが疑問の第3点。

 以下では、これらの疑問点を中心に過不足ない程度に書いてみるつもりだ。かなり長文になる。適当に拾い読みしていただきたい。

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2010/06/27

次男の結婚(2)

 (1)で、主として結婚式当日のことを書いた。今回は,それ以前のことを書いてみる。個人的なことなので、まあ、ご興味のある方はお読みいただきたい。テーマは、次男が、仕事(そして、アメフト)に打ち込みすぎて結婚が遅れたのか、それとも理想の伴侶を求めて妥協しなかったゆえに遅れたのか、そのあたりの事情。そして恵子さんとのこと、である。

 あらためて書くと、とうに諦めていた次男の結婚が、私が75歳、次男が46歳にもなって、ひょっこり実現するとは、思いも寄らない嬉しい出来事であった。入籍による結婚は年初に済ませていたが、去る6月12日(土)に結婚式を挙げ、披露宴を終えたことで、ようやく彼が嫁を迎え、所帯を持ったのだと実感するに至った。彼ら(次男とその嫁,恵子)が、それぞれ独身時代の居処から、ともに住む新居へと移ったのは,結婚式の直前であったから、彼らも挙式を終えて、ほんとうに夫婦になった気持だろう。

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