2008/07/15

生ごみゼロをめざして

080715disposer

 生ごみ排出ゼロを心がけている。コンポストを使ってきたが、いっぱいになると、その始末にてこずる。まだ土に戻すには早い。もう一つコンポストを置くには、庭のスペースが足りない。そんなところに「生ごみ処理機」のことを耳にした。市から補助金が出ているという。4〜6万円の処理機を導入すると、2万円の補助が出る。早速購入し、市役所に行って補助金の申請をした。このような処理機があることも、補助制度があることも知らなかった。数年前にはじまったことらしい。案外知られておらず、普及もしていないのではないか。どんなものか、使いはじめて約1ヶ月の経験を紹介しよう。

【画像説明】奥右が、生ごみ処理機の蓋を開けたところ、蓋の裏にヒーターとファンが取り付けられている。右手前が、刻んで乾燥中の野菜かすなど。左奥は乾燥中のコーヒーかす。左手前が、処理後の生ごみ。画面をクリック→拡大。

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2008/07/12

『東京の凸凹地図』は面白い

Yotsuya

 東京街歩きは、私の趣味の最たるものの一つである。東京街歩きの関心の持ち方は人によりさまざまだ。谷中などの有名街歩きスポットに関心を持つ、歴史的建造物や新しい建築を見にいく、新しく開発されたタウン・センターに出かける、江戸絵地図との対比に興味を持つ、明治から現代までの変遷に興味を持つ、などなど。私もあれこれの関心でやっているが、その一つは、山の手、とくに新宿区あたりの地形である。その関心にズバリ答えてくれる地形図があるのを今ごろになって知った。東京地図研究社著『東京の凸凹地図』(2006/1、技術評論社)である。「地べたで再発見」と見出しがついている。

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2008/07/08

プルトニウム2キロ、補論

 ひとつ前のエントリ「プルトニウム2キロが、予想を下回る?」で、

簡単な物理的考察で、臨界量は密度の自乗に逆比例することが分かる(これについては専門的になるので、先に言及した別サイトに書くつもりだ。)

と予告した。それを別サイト「爆縮による密度上昇と臨界量」とのタイトルで書いた。専門的なことであるが、このことを日本語で書いた文献がないので、参照していただきたい。

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2008/07/01

プルトニウム2キロが、予想を下回る ?

 北朝鮮の核計画申告で06年10月に行われた核実験に使用されたプルトニウムの量が2キロと書かれていたことが、予想外に少ないと、驚きをもって報じられている(「北朝鮮、核実験プルトニウム『2キロ』申告 予想下回る〈朝日新聞、08/6/28〉)。日本の科学記者の核兵器に関する知識がその程度だということと、専門家がだれひとりそのことを論評していないことに、私はむしろ驚く。私はかつて、核兵器技術について、研究しないまでも、十分な知識を持ち合わせることは、安全保障上、日本にとって重要なことではないかと、何度か書いたことがある(こことかここ、なお別サイトもある)。その主張に沿って、プルトニウム原爆に必要なプルトニウム量についてしばしば言及される数値が大間違いであることを指摘しておきたい。プルトニウム原爆を実現するときに重要な「爆縮」(implosion、「内爆」とも訳す)によって、プルトニウムは圧縮され、密度が増加する。密度が増えた状態では、必要とされる臨界量が、著しく減るのである。このことが、日本の原子力関係の人にも、あまり知られていないようだ。このことは軍事秘密でもなんでもない。ネット上のサイト、普通の書籍などに公開されていることである。そのことに注意を喚起しておこう。

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2008/06/29

3度目の「岩波『哲学』講座」を手にして

 岩波書店が、また『哲学』講座を出すという。いまさら、こんなものを読むか、と自問自答して、しばらく躊躇した。しかし、第1回配本の「心/脳の哲学」のいくつかの論考に惹かれて購入することにしてしまった。書棚のたんなる置物となることは分かっているし、蔵書として持っていたところで、今後活用する機会もあまりないだろう。なにしろ年なのだから(後期高齢者、目前である)。それだのに手を出してしまうところに、自称「教養人、書斎人」、哲学ディレッタントの弱みがあるのだろう。

 これまでさまざまな哲学書を囓ってきたなかで、哲学が自分に何の最終解答を与えてくれない、その意味では無用なものであると、とうに結論を出している。これは私の独りよがりではない。哲学者自身もそのようにいっている。ニーチェが哲学の終焉を宣言し、ローティは体系としての哲学の役割は終わった、ありうるのは文芸批評と同じ役目、思想の解釈学だけだという。デリダは、(読んでいないが)哲学の脱構築を唱えた。自分としても、そのような文脈の中に哲学を位置づけているのに、なぜ今さら全15巻の「哲学講座」なんだ。何でそんなものに手を出してしまったのか。ほんと、自嘲気味である。

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2008/06/22

ジャガ豚と「ほげる」

 「そんなにくっつけて蒸しちゃあ、皮がほげちゃうよ」。思わず飛び出した「ほげちゃう」は、連れ合いも理解できる大分弁である。いや、大分弁とも意識せず、自然に口から出た言葉だった。それが相手に通じ、「それ大分弁よ」と返されてしまった。そうか、そういえば久しく使ったことがなかった。でも、その表現が、ジャガ豚の皮が破れた様子にはぴったりで、それ以外適切な言葉がないくらいだった。

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2008/06/17

麻布十番撮り歩き

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 おととい日曜日(06/6/15)、写真仲間十人で、麻布十番からその裏手の元麻布のあたりを撮り歩いた。その次第と、その折に撮った画像をアルバムにしたことを紹介したい。じつはこの会の案内役をつとめるため、事前にひとまわり歩いてみた。アルバムにした画像の中には、そのときに撮ったものが結構多い。当日は案内役に徹し、あまり撮ることに集中できなかったからだ。アルバムは以下にある。
「アクエリアンのフォトギャラリー」の最新更新「麻布十番撮り歩き」である。

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2008/06/12

明暗差の大きなシーンを撮る試み

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 今日は趣向を変えて、最近興味を持っているデジタル画像処理について、試してみていることと、理解していることを書いてみよう。

 上の写真(クリック→拡大)、一見、何でもないように見えるだろうがずいぶん変なのである。こんな写真を撮れるだろうか。晴れた空に昼の日光を浴びてマンションが空高くそびえている。手前の神社の屋根はともかく、朱塗りの柱や内部の壁や格子戸などはかなり薄暗い。それが同じ程度の明るさで写っている。明暗差が大きく違う部分が大差なく見えるように補正して作った画像なのである。最近のハイ・ダイナミック・レンジ(HDR)イメージ技術を使ってコンピューター処理した画像である。

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2008/06/03

中性子研究の進展を喜ぶ

 今朝の新聞に、「中性子放出に成功」との、小さな記事が載っていた(プレス発表はここにある)。茨城県東海村にある J-PARC という加速器施設で、プロトン(陽子)を加速して、水銀ターゲットから中性子をはじめて発生させた、というニュースである。ずっと以前私が関わったことがやっと実現したということで、私にとっても感慨深い。この計画のごくごく萌芽の段階で、大学と原研(私のいた原子力研究機関)の数人の関係者で非公式に話し合いをはじめた。私はそのメンバーのひとりだった。その段階から、計画が具体化し、機関間の調整をし、予算が認められ、技術開発が進み、施設建設に着手、そしてやっとビームが出るというところまで、20年近くかかっている。その間、さまざまな人たちの努力で、科学研究のための新しい道具がついに実現した。実際に研究が行われ、成果が出るまでにはさらに時間がかかるだろうが、今後を期待したい。

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2008/05/23

生活レベルを下げていく時代へ?

 車をどうするか、連れ合いから問われている。年金生活世帯だというのに、2台の車をもっている。一つは比較的大きな乗用車。遠出のためである。一つは軽乗用車。近場の用を足すためである。大きい方はめったに使わない。遠距離ドライブはせいぜい年一度か2度。あとは海外旅行に行くさい、荷物ごと成田に行き、駐車するためである。水戸という場所柄、それがいちばん便利だ。軽一つにすることを連れ合いは主張するが、遠出のドライブでの快適さ、安全性を考えると、大きな車を手放しかねている。しかし、5万円を超す自動車税の請求書を手にして、年金生活者としては考えてしまう。

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