小6女児殺人事件
小学校6年生の女の子が、仲良しの同級生をカッターナイフで殺すという、一昨日佐世保で起きた事件は、衝撃的だった。さまざまなことが報道され、識者が見解を述べている。教育関係者にとっては、特にショックは大きいだろう。すぐに今の教育は、というような方向へ問題が展開され、だから教育基本法の改正が必要なのだ、というような言論が出てくるだろう。
私の目には触れていないが、某新聞などは、きっとそんなことを書いているだろう。また、事件の発端が、インターネットに関係がある、ということで、電脳社会論の面でも、いろいろといわれることだろう。
しかし、私は、いつもこういう事件のときに思うのだが、非常に例外的に起きたことを、あまり一般化して、ああだ、こうだ、といわない方がいい。少年Aのときもそう思ったし、どこかにも書いたのだが、子供の成長段階、特に性的な成長の過程で、こういうバランスを失った行動に走ることも、ごくごくまれに起きることもあるのだろう。たくさんの同世代の子供たちがいる。その子たちの性向の分布曲線のごくはずれたところに、一人ぐらい、変にはずれた子がいて、考えられないような行動をとる。そんなこともあるのだろう。そのはずれた子の行動をもって、大多数の子がいる分布の山が、大きく偏っていると判断するのは間違いだ。識者が、教育の現状のこれが悪い、こう改善すべきだといい、文部科学省や、教育関係者があたふたとする。そんな必要はさらさらない。先生方は、私たちは、人間を大事にする教育をしています、と胸を張っていっていい。ただ、親は、自分の子をもっとよく見てほしいと思う。
新聞の報道を見ると、この事件を「殺人事件」とはいわない。「死亡事件」だそうだ。これなんかは、今の甘っちょろい社会とその鏡としてのジャーナリズムのあらわれなのだろうか。児童は人を殺しても、殺人とはならない。被害者の親は怒っていい。
| 固定リンク


コメント
初めまして。
トラックバックさせていただきました。
明らかに「殺人事件」であるにもかかわらず、「死亡事件」として報じられている点、私は見落としておりました。勉強になりました。
投稿: へのへの419 | 2004/06/03 18:08