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2004/07/25

生命倫理法、たしかに必要だが、さて

 ヒトクローン胚研究の解禁について、塩谷喜雄は「包括的な生命倫理法の制定」こそが先行すべき問題だと指摘している。同感だが、日本人の一般的な意識がそこまで行くか。悲観的にもなってしまう。ごく最近報じられた中絶胎児、「一般ごみ」で廃棄というおぞましい事件、凍結精子認知訴訟:法なき中での司法判断 判決に賛否両論(毎日新聞・大阪版04/7/17)(夫の死後凍結保存してあった精子により生まれた子を親子と認知した)などの出来事を考え合わせると、生命をどう考えるか、倫理面と法的な面で抜本的な対応が求められているとつくづく思う。時代の変化が早く、議論とコンセンサス作りが追いつかない。個別の法律はカバーしきれず、学会ごとののルール、あるいは医者・研究者の良心などに頼っているのが現状だ。

 塩谷喜雄(日経新聞論説委員)が日経サイエンス04/9号の「いまどき科学世評」に「クロン胚解禁に見る勘違い」と題して書いている。総合科学技術会議の生命倫理専門調査会では、議論が収束しないまま多数決で採択されたが、特に人文・社会科学系の専門委員が全員反対し、それを自然科学系の多数で押し切ったことに注目している。このことは、

 研究の科学的意義と実用的な価値を道徳や倫理など社会的・文化的に位置づけるに至らなかった
ことを意味するとしている。科学と倫理との間の調整ができないままだった、わけである。そして包括的な生命倫理法の必要を力説している。
 クローン胚など個別の研究テーマを法律でいちいち規制することには違和惑がある。人間存在の尊厳にかかわる包括的な生命倫理法を定め,個別の研究は研究者の良心と学界の自律的なルールの下で進めるのが理想だろう。英独仏はそうした法体系を持ち,その原則の下で個別の問題に対応している。
 ところが,先の専門調査会ではそうした包括的生命倫理法、胚保護法は日本では社会になじまないとして、法制化しないという案が提示されている。
 精子や卵子、生殖細胞は次の世代の原基であり、受精卵、胚は生命の萌芽である。生命倫理法の基本は、この原基と萌芽をどう扱うかである。生殖医療もクローン胚もすべての根源はここにある。
生殖細胞や胚を採取したり,操作したり,人為的につくり出すことに,一定の歯止めをかけておく必要がある。

 一般論としては大賛成である。しかし、生命倫理の基礎をどこにおいたらいいか。欧米のようにキリスト教という背骨のない日本ではむつかしい。生命への畏敬、人のいのちの尊厳といった一般的な心情しかないのだろうか。西欧人は、生命を神の創造物として、それに手をつけることに、戒律的ともいうべき厳しさを感じているようだ。それに比べると日本人は、仏教的な無常観のためだろうか、あるいは、アジア的な風土のゆえなのだろうか、曖昧な生命倫理しか持ち合わせていない。生命倫理法の制定への道は遠いのではないか。

 ヒトクローン胚や生命倫理の問題に強いEPさんのブログ「誰か良い倫理の本知りませんか?」と書いておられるのも、倫理問題を避けて通れないとのお考えのあらわれだろう。

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コメント

アクさん、ご無沙汰しています。

仏教は「いのち」をとても大切にする教えです。
人間は神の創ったものというキリストと違って、生きとし生けるもの全ての「いのち」を蔑ろにしないというスタンスにあります。

キリスト教では、牛や豚などの食用は、人間が食するために神が創った・・・とも、なるわけですよね。
仏教では、人間はそういうもの(動物も魚も穀類も)を食べて、そういうものの「いのち」をいただいて、人間は生かしていただいている、と解釈します。(多くの命を犠牲にして人間は生きているということですよね)

生命の発生についても、胎内で命が芽生えた時が生まれた時、と解釈しますから、生きた年数というのは、「数え年」として、実際の生年月日からより、一年多く数えます。
享年と言いますが、これは命を受けた、授かった年のことで、それはお腹に在った時の時間も入っているのです。
お腹で芽生えたときは、もう人間なのです。

ですから、人文系が生命体を軽んじているとは、とうてい考えられないのですが・・・。どのようなことなのでしょう?

投稿: 沙羅 | 2004/07/26 17:43

 沙羅さん、コメントありがとうございます。仏教については、私は弱いです。ただ、ほんとうの仏教の考えと、日本人が仏教に影響されて持っている生命観とは、たぶんずれていると感じています。ヒトクローン胚と密接に関係があるのが中絶問題ですが、欧米ではカトリック、あるいはファンダメンタル・キリスト教は、中絶は生命を殺すものとして根強く反対しています。常に重要な政治問題でありつづけ、中絶反対運動は激しいです。日本やアジアの国々で、中絶反対という声があがったことがありません。この違いは宗教から来ているのかな、と感じています。ヒトもほかの生きとし生けるものも,大地も、すべてを穏やかに、運命的にとらえる思考の中で、自分の判断で生命(とおもわれるもの)を裁量していいのかという厳しい判断に立つことなく、大きなものの中で曖昧なままが許されているようなのが平均的日本人の精神的風土ではないでしょうか。
 調査会の賛否の中で、人文系の人たちは、生命倫理を思想問題としてよく詰めてから結論を出すべきだと、時期尚早ゆえに反対に回ったのでした。

投稿: アク | 2004/07/26 20:27

アクさんのおっしゃる仏教の無常観や曖昧さによって、倫理感が問われるところの中絶が行われてきている、そのようなことだから、ヒトクローン胚の問題においてもしかりということでしょうか?

カトリック、あるいはファンダメンタル・キリスト教にあるひとは、いのちを愛しんで何よりも大切にして、小さき命を絶つようなことは決してしない、もとより殺人は決してしてこなかったといえますでしょうか?

何故中絶を厳しく戒めたか、という理由は他にも何かあるように思うのですが。これは勝手な想像です。

このようなことを言うと、変なグループに放り込まれてしまうかもしれませんが、中絶によって救われた人、救われたことがあったかもしれません。どちらを救うかということは、難しい。

話が飛びますが、江戸時代は罪を犯すと極刑が科せられ、それに準じる者は、島流しです。
あの長い時代の人口が、増えもせず減りもしなかった、そして、犯罪件数が少なかったといいます。
今は、命を大切に、のもと、もともとそういった問題に関わり改善されない人間が、社会に普通にいてまた子どもを作ります。とても怖いですよ。

どんどん、話がずれてしまい、アクさんがおっしゃっていることから外れました。
仏教の無常観のことについて、ちょっと引っかかったので、質問をしたかったというだけです。

投稿: 沙羅 | 2004/07/26 23:28

 沙羅さん、大事なことを言い忘れていました。私は一部のアメリカ人のキリスト教に根ざすという中絶反対運動をよしとしているのではありません。むしろそれは非常に偏った見方だと思っています。女性の権利を抑圧する面があるのを無視して、この問題についてだけ声高に命を大切にと主張しています。そしてそのように主張する人々が、イラクで、イスラム人なんかやっつけてしまえと、武力優先のブッシュ政策を熱烈に応援しているのです。
 私が書いたのは、ヒトクローン胚のような命の始まりと微妙に関わる問題をどうするかを考えるときに、西欧と日本では精神風土が違う、という感想です。どちらがいいとも悪いともいえません。ただ、この大事な問題に日本人は無関心のようだ、その根っこのところは考えてみたいです。

投稿: アク | 2004/07/27 09:08

アクさん こんにちは。
枝葉をとって、ああだこうだと書きましたことに解説して下さいましたことを、有り難く思います。

先の「法なき中での判決」では、不妊治療継続中に夫が亡くなったが、夫に受精の強い希望があったこと、妻の悲願を受け入れた、とする中でそれをよしとしない国側との争点には、ありとあらゆる細かな問題点が挙げられていますね。
今後、100組あれば、異なる100のケースの審理を行わねばならないということになるのでしょうか。
ヒトクローン胚の研究を進めようという科学と、それに戸惑う倫理、そして野放しになった場合に悪用されるかもしれないことを防がねばならない法制が、共に作動するような事態は到底、望めそうにないということでしょうね。

「えっ! 亡くなっってしまった人の子どもが生める?」とか、「今はなんだって出来るんだ、すごいなぁ」などと、脳天気な思いしかなかったわたくしには、随分良い収穫でした。
そして、もうひとつは、日経サイエンスを学割で注文することにしました。年間、すこ~しお安いです(笑)。

投稿: 沙羅 | 2004/07/27 11:36

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