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2004/08/30

隣席の人との会話

 能登への3日間の旅の帰途、能登空港から羽田へのフライトが欠航となった。天候のせいではなく、東京から飛んできて折り返すはずの旅客機が、故障のため飛んでこなかったせいである。地方空港の悲哀だ。小松空港まで航空会社の手配したバスで移動することとなった。急場で170人ほどの乗客を運ぶバスを集めるのも大変だったろう。なんとか間に合わせた大小様々のバスに満席に詰め込まれて、3時間を超えるバス移動が始まった。

 「ここいいですか」と、私たち団体が占めていた一角に一つだけ明いていた私の隣席に座った人と、何気なく始めた話が次第に弾み、時間のたつのを忘れて話し込んだ。その時彼が語ったことを、私の脳裏だけにしまい込んおくのはもったいない。ここに書いて、みなさんに読んでいただきたい。ご本人のプライバシーには気をつけよう。大学紛争の渦中から、紆余曲折を経て、50才を越えてから医者になった人の物語である。

 「予定が狂って、お仕事の人は大変ですね。私らは遊び人ですから、多少の遅れは平気ですが」と私が話しかけたのが、きっかけだった。こちらはTシャツ姿。あちらはビシッとスーツを着こなしている。会社の出張なのかな、と思ったのだ。「いや、私も遊びみたいなものですが、今日みたいにたまに仕事で出かける時に限って、こんなことに遭遇するんですよ」と笑って応じてくれた。どう見てもまだ50代だろう。私らみたいに退職者であるはずがない。「遊びみたいなもの」というのは、この人の人生観に由来する言い回しだったというのは、やがて分かる。しばらく話すうちに、能登半島にある病院のお医者さんだということが分かってきた。何かの用事で東京への出張に出かけるらしい。

 「じつは私は、50才すぎてから医者になったのです」と、語り始めたこの人の人生は、異色のものだった。東京の進学校から東大へ入った。数学を専攻するつもりで教養学部に在籍中、大学紛争が勃発し、否応なしに巻き込まれた。いわゆるノンポリであった。全共闘に共感を感じたが、警官隊と対決したときに、大きな石を至近距離から機動隊に向かって投げる全共闘の人たちを見て、自分はそれはできないと、ノンポリにとどまることにした。「警察官だって、同じ世代の人間ですよね。それも大学に行かず、警官になっている。彼らは心の中では怒っているでしょうね。大学に行かせてもらって、勉強もせずに、石投げて、何しているんだ、と」。彼の性格を現わしている言葉だ。毎日、本郷三丁目あたりで、全共闘対機動隊、あるいは全共闘・反日共系セクト対日共系全学連の対立の成り行きを見守っていた。全共闘の集会には出ていった。議長の山本義隆氏とも話し合ったことがあるという。人物といい能力といい、すごい人だとの印象を受けたという。学園紛争が彼の抑えの効かない方向へ暴走しはじめたときに、「思想闘争として始まったものを、学問と大学の根元を問う思想闘争にとどめたかったが、政治闘争になってしまった」と嘆く彼の言葉を覚えているという。私も『知性の叛乱』などに収められている山本義隆の書いたものに刺激を受けたのを思い出す。あれはある種の原理主義運動だった。原理主義はしばしば過激な行動をともなってひたむきに走り出してしまう。難しいところだ。

 やがて学園紛争が収まるに従い、大学で学問を続けることに疑問を覚えた。普通に勉学を続け、好きだった数学の専門家になっていくという、かつて希望していたコースに戻る気がしなくなっていた。自分の気持ちに誠実でありたいと、家族の反対や落胆にも関わらず、大学を退学した。あの大学紛争は、人を根源から震い動かし、自分のあり方を問い、それでいいのかと自問するものだった。彼は自分の内なる声に忠実だった。大学をとうに卒業し、社会にあった私にまで、同種の問いは波及してきたのだった。私なりの自問自答の中から、キリスト教会を離脱したことを、私は彼に話した。世代や場所は違っていたが、何か共通するものに突き動かされたのだなと、共感し合えた。

 彼にとって、人生を考え直すきっかけは、学園紛争だけではなかったらしい。東大で学ぶ中で、大学付属高出身という恵まれて育ったエリート集団に自分がいることを自覚するようになった。優秀で、知的レベルが高く、高尚な話題やエレガントな問題解決のスタイルを尊ぶ仲間だったが、地方出の雑草的ともいう仲間を知るようになり、自分の属するエリートたちのあり方に疑問を感じてきた。この彼の見方は、私にとっては、ちょうど裏返しだった。雑草的というほどゴリゴリではなかったが、大学に入ってみて、都会育ちの知的貴族ともいうべき連中にずいぶんコンプレックスを感じたものだ。大学で学んでいくことも,その先にあるものも、さらには広く世の中のこともしっかり見通していて、その中での自分の位置も正確に測りながら、勉学を楽しんでいる風な秀才たちに、目の前しか見えていない自分をひがんだものだった。そんなお互いの感想を、そうだな、そう感じ合っていたのだな、と交換したのだった。

 大学を中途退学した彼は、中学・高校生の進学指導をする私塾を始める。それは生きるすべではあったが、それ以上のものでもあった。私塾ゆえに、塾生の勉強面だけでなく、一人一人の生き方まで全面的に引き受けることになった。子供から大人へと、もっとも変貌を遂げる数年に親しくつきあうのだ。中高の教師よりも、場合によっては両親よりも、彼らにとって身近な立場に否応なしに立たされた。教育とひと言でいうが、一番生な人間教育の現場にいた。この仕事は始めた頃思ったよりずっとやり甲斐のあるものだったという。

 大学紛争に巻き込まれ、深く関わった学生は、紛争終結後、二つの道に分かれた。もとのコースに戻り、もと通りのいい子になって、成績を上げ卒業し、東大卒に約束されたキャリアを歩むもの。もとに戻ることを拒否して、別の自分発見の人生を選んだもの。彼は自分の同輩を見ると、戻らなかった人々のほうが、いい人生を選んだという。「いい人生」をなにと考えるか次第だ。コースから外れたのだから、人並み以上の苦労はしている。しかし、それぞれなりに何とか自分の道を見いだし、苦労を乗り越えてきた。自分の選択に満足している人が多いという。東大という最良のエスカレーターに乗り、そのままいけば、それなりの成功者になり、楽な人生を送れていただろうが、それからはずれることによって、はじめて人と社会との深い問題に気づき、現実にもまれ、自分の力で乗り切るという経験を重ねることで、順調にいった人には見えない、生きることの深みに触れえたという。

 30才を超えた頃、彼はスペインへ行き、3年間滞在した。それも尋常ではない。グラナダの南、シェラ・ネバダ山地、標高2000メートルにある寒村に隠遁し、ひたすら本を読み続けるという生活を送った。最初は、1930年代のスペインの内戦が、スペインの地方に住む人々にとってどうだったのか、その実態を聞き取り調査したい、という目的を持っていた。しかし、村人同士が、両陣営に分かれて殺し合ったという、おし隠されていた話しをぽつりぽつりと聞き出すにつれ、生半可な考えではとてもこの問題に取り組めないと、この件は中断した。

 それからあとは、日本から送ってあった哲学と経済学の本を読み、村人たちとの生活を楽しみ、風土を慈しむ毎日だったという。もともと学問をしたいとの望みは絶ちがたくあった。しかし理系の学問では、能力を最高に発揮できる若い時代を過ぎてしまっていた。何ができるか。そこで考えたのが、哲学と経済だったという。全人口が40人の寒村の空き家を借りて住んだ。毎朝、放牧に出かける村民たちを見送り、夜ともなると、全員が文盲の村人たちに、手紙や本を読んでやる、という生活だった。彼はスペイン語ができたわけではない。行った現地で覚えればいいとスペイン語を全然知らずに出かけ、現地の人との会話のなかで覚えていったという。かれは文字を読むことができる。スペイン語の文書を読んでくれと彼のところへ村人が訪ねてくる。文盲の村人たちは、彼の朗読を聞いて、ああだ、こうだと反応する。だが朗読している本人は、音読をするだけで、意味が分からないことがほとんどだった。そのことを村人たちは不思議がった。

 3年の隠遁をどういう事情で打ち切ったのか、そこで得たものが、その後にどうつながったかは聞きそびれた。ともかく彼は日本に戻り、再び私塾を続けた。若い人たちを育てることはじつにやりがいがあった。

 やがて40代の後半にかかるころ、彼は転身を決意した。このまま一生を終えたくないと考えたのだろう。医学をやろう。それも、心の医者になろうと。親に頼まれて面倒を見た子の中に、登校拒否や引きこもりの子がいた。彼らの病にもっと専門的に対応できる精神医になろう。その方が世の中に役に立つことができるだろう、と思った。

 長年私塾をやってきたので、教え子がいっぱいいる。大学入学を無事に果たしたら、彼らは去っていくかというと、ずっと先生として慕って訪ねてくる。その子らが先生の決断に大賛成をして、応援してくれたらしい。計画的に生徒の引き受けを控え、私塾経営の仲間の方へと振り分けていった。突然やめるというような無責任なことをせずにすんだ。

 高校生の進学指導を長年やって来たので、受験はお手のものだった。難関として知られるどの医学部でも合格する自信があった。問題は40代後半の人を受け入れてくれる医学部があるか、であった。いくつかトライしたが、年齢で落とされた。医者一人育てるのに、医学部は約1億円をかけるのだという。医者になるチャンスを将来ある若い人に譲ってくれと面接でいわれ、納得したという。ある国立大医学部が彼を受け入れてくれた。社会経験を積んだ彼のような人が医者になるのもいいだろう、ということと、若い学生のいい相談相手になってくれるだろう、というのが、受け入れを決めてくれた大学側の判断だったという。

 かくして、大学の教科を、もう一度1年生からやり直した。若い同級生が、30才近く年の違う彼を、分け隔てなく付き合いや遊びに連れ出してくれた。年取っての学生生活は予想外に楽しかったと、懐かしげにその時代のことを思い出しているようだった。

 やがて50才を越して彼は医師になった。学問もやりたかったが、臨床医になった。医学部の系列病院として派遣された能登の地が気に入り、ここに住むことにしたらしい。現代社会は精神を病む人を多く生み出している。専門医として、その人たちを理解してあげ、問題を解決してあげる。この仕事に今ついていることに満足している。ずっと回り道をしてきて、やっとたどり着いた仕事だが、その回り道を少しも後悔していないという。自分の生涯が、あの大学紛争のせいで、このような道を辿ったのだが、それでよかったと思っている。

 彼の遍歴物語を聞いて感じたのは、この人は実に自分に誠実であることだ。そして誠実であるために妥協しないで、人生の選択をしてきたことである。もう一つ、人に優しい気持ちを持ち続けている。私塾の教師をしたことも、医者になったことも、生活のためというより、人助けをしたいという動機からだと感じられた。この人の細面の知的な顔は、とても優しい。優しい人柄が表情に出ている。この人に救われた人が、きっと多いことだろう。

 私がキリスト教を離れたことを話題にしたときに、彼は、自分の両親がクリスチャンであること、家庭に自然とあったキリスト教的なものが、自分の人に対する接し方に影響していることを自覚するといっていた。私もキリスト教からは離れたが、キリスト教なものに人格陶冶されたことを認めざるを得ない。私の母は、そのことを「腐っても鯛」の例だと笑っていたことを思い出した。

 別のこととして、脳のことが共通の話題であった。相手は精神科の医師だから、脳の専門家である。こちらはこのところ専門の物理系の学問より、脳科学の進歩に興味を持っている。自分が統合した意識を持っているという不思議な事実が、脳の仕組みとして、どこまで解明できるかを問うてみた。私たちが生きている間には無理だろう、という点では意見が一致した。彼は、何かのブレークスルーが、そのうちにあるだろう。複雑だといわれている脳が意外に単純なものだと分かるかもしれないという。ジキルとハイドのような多重人格(意識の座が二つ以上あって、入れ替わる現象)を持つ人が、百何十人に一人の割で出現するのだという。脳の構造に先天的な障害があるに違いない。どこがおかしいかが分かれば、意識なるものの構造上の基礎が分かるかもしれないという。やはり専門家に聞いてみると、さすがはという見通しを持っている。感心した。

 そんなこんなを話し合っているうちに、小松空港に着いた。お互いいい退屈しのぎになっただけでなく、とても楽しい語らいであったこと、稀ともいえるほど気心の通じる相手だったことを認め合って、別れた。よほど名前を伺おうと思ったのだが、このような一期一会もいいではないか、それ以上に踏み込むのはやめにした。彼はJALへ振りかえとなり、私らの団体は、30分遅い出発のANAで小松を発った。予定より4時間遅れた帰京だったが、この出会いのおかげで気分は晴れ晴れとしていた。

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