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2004/08/09

信濃追分の朝、泉洞寺に野の仏を訪ねる

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 信濃追分で朝を迎えると、街道沿いに昔からあったお寺、泉洞寺とその裏手にある墓地あたりを散歩したくなる。今回もいつものように出かけてみた。泉洞寺に早朝にしては珍しく人がぞろぞろと入っていく。早朝座禅会が8月のはじめの数日催されているようだ。年寄りはもちろん、若い人も小学生までも参加し、殊勝に座禅を組んでいる。この寺は、追分宿の中心にある寺として歴史は古い。江戸時代、ここが中仙道、北国街道の合流点の宿として栄えた頃をしのばせる。裏手にある広い墓地には、古い名家の墓にまじって飯盛り女(食売女とも書く)らの貧しい墓も散在する。その墓地の片隅に、小さな野の仏も鎮座する。堀辰雄がこよなく愛し、散策の途上いつも立ち寄ったという。

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 以下は、2年前にHP本館の画像談話室に、野の仏の写真とともに載せた文である。再掲する。

 長野県軽井沢町追分にある友人の山荘に来ています。いわゆる信濃追分です。江戸時代の中仙道と北国街道が分かれる追分です。参勤交代の宿場町として栄え、往時には、数十軒の旅館が軒を連ね、こういう場所につき物の飯盛り女(宿場にいた非公認の遊女)が2、3百人もいたといいます。現在は、軽井沢の一部ですが、大衆化し賑わっている軽井沢の中心地とは違い、静かな別荘地です。主として学者、研究者、作家らが、比較的簡素な別荘に住み、ひっそりと暮らしています。

 国道18号線では、一番高い標高(1060メートル)の地点でもあります。ここからは浅間山の巨大な姿を見ることができるのですが、今回は、晴天の昨日ですら、雲がかかって、全容を見ることができませんでした。

 堀辰雄がここに住み、結核を病みながらも、細い命を長らえ、美しい作品を残しました。彼の住んでいた家は、堀辰雄文学記念館として公開され、彼の文学のファンがチラホラと訪れています。

 古い宿場町の面影も残っています。脇本陣であった油屋と呼ばれる旅館は、明治から昭和初年まで、大学生の夏の勉強場所として有名でした。詩人立原道造が泊まっていたときに火事に遭い、全焼した旅館の2階から命からがら逃げ出したことも知られています。再建された油屋は今も健在です。

 堀辰雄が愛した、散歩道沿いにある、お寺の墓地の片隅に、彼が愛した野の仏があります。弥勒菩薩だといわれています。膝を立て、そこに頬杖をついて顔を支える姿は、中宮寺観音や広隆寺の弥勒を思わせますが、この石仏は、ずっと素朴な姿です。歯痛地蔵とも呼ばれます。

 このお寺の墓地には、江戸時代の遊女たちの簡素な墓もあり、東京南千住の浄閑寺と同じような投げ込み寺でした。そういう遊女たちもその優しい姿にすがった仏であったのかも知れません。

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