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2004/08/10

デジタル型とアナログ型

 デジタルかアナログか。そのような分け方がよくされる。信濃追分の山荘での会話で、話題になったのもこれだった。70才を挟んでその前後の年齢層の男4人の気楽なおしゃべりである。この山荘の主人Aに、あなたもパソコンをやりなさいよと、ドクターSがすすめたことから始まった。

 この山荘の持ち主、Aは、もとジャーナリスト。若い頃はテレビの報道番組を作っていた。退職して悠々自適している現在でも、ありとあらゆることに問題意識を広げ、旺盛に情報を吸収しては、はき出している。だから話題豊富。おしゃべりの場では話題をリードする。時にはどこへ向かうのか、本人も見当がないまま話を始める。問題を投げかけ、それから先は展開に任せよう、というのがジャーナリストとしてのこの人のスタイルだ。目的地のない航海に出るような語り口だと文句をつけながら、とめどなくあちこちへと拡散していくおしゃべりを方向付けたり、整理したりするのが私の役目だ。

 Aは、人相手のおしゃべりでは真骨頂を発揮するが、ものを書くことはあまりしない。この人にペンかパソコンを持たせ、話すことの何分の一かでも書き記し、もっといろんな人に読ませたら。それがドクターSが、Aにパソコンをすすめた理由だ。Sは私のHPの愛読者で、新しく始めたブログはなかなかいいよと、会うなりほめてくれた。Aが同じようにブログでもやれば、もっと話題豊富で多彩なブログを展開するだろうというわけだ。
                       
 ドクターSは、東京の大病院の内科部長も勤めた臨床の大ベテラン。ずっと前に定年退職し、脊椎に少々問題ありだが、長年付き合った患者さんの要望にこたえて診療を続けている。私のHPにもご登場いただいたことがある。医師としての豊富な経験に加えて、最近はゆとりのできた時間を活かして好奇心を多方面に向けている。何ごとについても、深い考察を向け、本質をつかんだ意見を口にし、説得力がある。お年ながら、パソコンを自在に使いこなし、メールやインターネットの世界を楽しんでいる。それゆえに、自分より若いAが、パソコンをやればいいのに、となったわけだ。

 しかし、パソコン相手にものを書くのと、人を相手にしゃべるのと全く違う、とAはいう。生の人が目の前にいて、相づちをうったり、口を挟んでくれてこそ、話は一人では思いもしないほど発展する。そういう場でこそAの持ち味は存分に発揮されるのだが、機械相手ではとたんに寡黙になってしまう。そこで出てきたのが、俺はアナログ人間なんだ、という発言である。デジタルだと、一つずつ端からきちきちっと片づけていく感じがする。そうではなく、まず全体をぼわーっと捉えて、それからだんだんつかまえ方を詰めていく。そんなアプローチが好きで、デジタルではそれができないという。あちこちと飛び枝葉も含んで進んだ会話を、あとから思い出しながら、いま私が自分のことばで書いているから、Aの言ったとおりではない。だが、かいつまんでいってしまえば、こんなことだった。なるほど分かるような気がする。そんな思考パターンがいかにもAらしい。それが飲み込めずに、Aとのおしゃべりでときおり歯車がかみ合わないような気がするのだ。それはこちらがデジタル人間だからだろう。

 ドクターSも自分はデジタル人間だ、という。問題を細かく分析して、その根元を追究しなければ気が済まないと。臨床医学の分野で長年やって来た経験がそのようなものの考え方の基礎にあるのだろう。病気には原因がある。それが何だろうと様々な兆候を分析してつきとめる。そしてそれにはどの治療法がいいか、薬はどれがいいか、などを決めていく。診断にアナログ的な要素はあるのだろうが、基本はデジタルだ。しかし医学の世界でも、アナログ的ともいうべき東洋医学が見直されてつつあると、ドクターSはいう。西洋医学からすると,なぜその療法なり薬が効くかは解明できないけれども、とにかく効くから取り入れてみようと、医学部などでも教え始めているという。

 もう一人のメンバーNは、もと高校教師。先生業のかたわらヨーロッパ中世史の研究をこつこつと進めてきたひとである。物静かだが、学問を深くやってきただけに、浮わつきがちな会話に、時折深くくさびを打ち込むような発言を挟む。話し始めるとその知識の広さ深さに驚かされる。デジタルかアナログかについて、彼は、人間や社会の問題は、デジタル思考では解明できないところが残るとする。複雑多様な問題は、要素還元的なデジタル・アプローチでは捉えきれない。全体をそのままで捉える視点がないと、漏れてしまう側面があるだろう、というのが彼の考えだ。たとえば、人をどんなに分析していっても、この私という意識、自由意志、などというものは捉えきれないと主張する。

 かくしてデジタル派のドクターSと私、アナログ派のAとN に分かれ、話は止めどなく続いた。脳科学のこと。ロボットに意識や感情を持たせられるか。自然はともかく、人の世に調和などありうるだろうか。などなど。

 みな年のいったものばかりだから、パソコンをやっている方が珍しいし、新にやるのには抵抗がある。しかしパソコンをやるかやらないか、ではなく、もっと深いところ、ものの考え方のレベルでデジタル型か、アナログ型かが分かれるようだ。そんなことを考えさせる、この日のおしゃべりだった。

 信濃追分の友人の山荘に集まったのは5夫婦10人、話し好きが多い。会話を交わすのが楽しくてやって来たのだから、折に触れて、あれこれの組み合わせでグループを作り、話が弾む。何を話したか、話題は次から次へと果てしなく流れていったし、夜ともなると酒も入っていたので,あまり思い出せない。そんな中で多少まとまった話として思い出した一端を書き留めてみたのが以上である。

 そもそもこのグループは、女子大学同期生の奥さん同士のグループとして始まった。卒業以来、近況報告ノートの回覧を50年近く続けている。年に何回か集まる。ある時期からときどき夫たちも加わるようになった。特に夏の合宿は、夫婦参加でもう何年も続いている。信濃追分のAの山荘に集まることが多いが、ほかの場所に出かけることもある。夫たちは、最初は奥さんたちの連れ合いとしておつきあい程度に参加していた。しかし今では夫同士の話し合いのほうが密度が濃くなったりしている。知的関心の持ちようが近く、議論好き、という共通点があるせいなのだろう。毎回テーマが設定される。今回は「星の話」。上の4人の会話時にはいなかったM夫妻が分担し、天文少女だった奥さんが星座への関心からオーストラリアへ南十字星と南天の星座を見に行った話をし、物理学者のご主人が、その時に見た新彗星のことを補足した。

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