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2004/10/14

宮本輝『草原の椅子』

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 フンザへ旅に出ることを決めたあと、ふとしたことから、この宮本輝の小説(1999出版)がフンザを舞台にしていることを知り、読んでみなければと思った。フンザとはどこか、どんなところか、あまり知られていない。フンザについてふれた紀行、歴史、民俗のたぐいの本もほとんどお目にかかれない。フンザを舞台にした小説があるなんて、うれしいことだ。

 小説は、フンザの村落で、主人公遠間憲太郎が予言者の老人に出会ったところから始まる。憲太郎への予言はこうだった。

 あなたの瞳の中には、三つの青い星がある。ひとつは潔癖であり、もうひとつは淫蕩であり、さらにもうひとつは使命である。
 珍しい星だ。

 フンザの村をとりかこむ7千メートルを越える山、ディラン、ラカボシ、ウルタルの三山が残照の中に暮れていき、やがて星々がまたたき始める時刻だった。憲太郎は、カメラ会社に勤める50才の会社員。23年も一緒だった妻と、互いに愛のないことを知り、離婚しての傷心の旅に出ていたのだった。潔癖と淫蕩と、それが自分を離婚に追い込んだのだと、見当がついたが、さて「使命」とは?

 その彼が、一年余りの月日を経て、再びフンザを訪れる。今度は4人連れであった。どうしてそんなことになったのか。それが文庫本で上下二冊に分かれている長編小説(毎日新聞連載)で物語られている。登場人物が何者であり、互いにどんな関わりがあり、どういう経緯で4人がフンザに行くことになったのかは省略する。4人の一人は幼児。母親に捨てられ、育ての父親に見放され、よんどころなく憲太郎があずかることになった子。愛なくして育ったため、大人不信がはげしく、人見知りで、何時間でも壁に向かって無言で座り続けるような子である。憲太郎とその周辺の何人かが、この子とは縁もゆかりもないが、心優しいゆえに捨ててはおけず、猛烈に忙しいビジネス生活の中で、面倒を見、人間らしさに目覚めさせていく。それが物語の主な筋といっていいだろう。物語の帰結で、この子を育てるという連合を組んだ男二人女一人の熟年3人組が、すべての生き物の生存を拒むようなタクラマカン砂漠を経て、この子を桃源郷フンザに連れて行く。

 フンザに格別何かがあるのではない。生きづらい今の生活からの救済が、その地に象徴されているのだろう。旅の途中で、憲太郎はフンザに夢見た理想郷は、心のもちよう次第で、どんな状況の中にもあることを悟る。理想郷は、この小説ではしばしば「草原」という言葉で表わされているのだが、こんな風に書いている。

 その瞬間、なぜか憲太郎は、俺のいるところは、どこであろうと緑濃い草原だと思った。
 通勤客でひしめきあう朝の駅の構内も、車が渋滞している横の歩道も、悪臭のただよう地下街や路地も、自分の部署のあるフロアも、会議室も、仕事机と椅子も、得意先に頭を下げている場所も、すべて、俺にとっては草原だ。俺のいるところ、すべてが草原だ。
 そしてそこにはつねに俺の椅子がある。誰もその椅子を取りあげることはできない。
 俺はその椅子に坐って、心を静かにさせて、あらゆる災いと闘って解決する。
 人間社会であるかぎり、災いだらけで、嫌いなやつ、いやなやつ、目ざわりなやつもたくさんいる。しかし、そんな人間どものなかにこそ、俺の草原がある。俺は、生きているかぎり草原の椅子に坐り、悠々と人生を楽しまなければならない。俺のいるところが草原なのだから……。
 俺は何物かに護られている。そうでなくてどうして、五十歳になるまで生きてこられるというのか……。
 自分の精神にふいに湧き起こった思いを、意太郎はほとんど宗教的な啓示として受け止めたのだった。
 俺のいるところは、いつでもどこでも草原であり、俺は絶えず何物かに護られている。だから安心していればいい……。

 そのように自覚して生きることが、じぶんの「使命」なのだと、憲太郎は悟る。

 宮本輝は、神戸の震災で家を失った。大変な経験だったろう。もの書きとしての成功から得た物質的な財を失った。幸福を失ったかに思えた。しかしそこからの立ち直りの中で、生きていくことの根っこに潜む深淵と、そこからの救済を知った。宮本輝にとって、救済は人の心根の優しさであった。心底わかり合える人と共に生きることのすばらしさだったようだ。そこに草原があり、その象徴がフンザだった、ということのようだ。

 憲太郎たちは、冒頭の予言者に再び巡り会う。予言者が幼児の将来について語った短い言葉は、

   『正しいやり方をくりかえしなさい』

であった。

 私にとってフンザはどんなところか。期待しながら旅に出よう。

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コメント

はじめまして。おりびとです。
最近、ココログというのをスタートして、ブログというのが何なのかよく解らないまま、いくつかのブログを訪れてみました。宮本輝氏の著書がタイトルになっていたのでちょっとおじゃましてみたところ、バカの壁、センセイの鞄など…。朝っぱらから面白い書評を読ませていただきました。さらに「みや」さんは織物をなさっているとか…。これはぜひご挨拶をしておこうと。私もシ趣味で織物をしています。織の仕事場と称して、主婦のサロンを二年前にスタートしました。お時間あれば、覗いてみてください。本体のHPはこちらです。
http://homepage3.nifty.com/pong-ping/index.htm

投稿: おりびと | 2004/10/14 07:24

おりびとさん、はじめまして。

同じココログ、そしてNiftyのHP仲間ですね。本館の方まで目を通してくださいまして、ありがとうございました。織りやそのほかの手工芸まで、多彩なご趣味をお持ちのようですね。そちらの方はパートナーのみやに見せて、何か書いてもらいましょう。

投稿: アクエリアン | 2004/10/14 10:02

みやさんにもお越しいただけると嬉しいです。
これからもどうぞよろしく。

投稿: おりびと | 2004/10/16 01:40

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