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2004/12/02

白川静の『文明と荒野』(風の旅人11号から)

 雑誌「風の旅人」の最新11号を、いつものように、巻頭の白川静の直筆随筆から読み始めた。含蓄は深いが、難解でもある。特集タイトルに合わせて「文明と荒野」と題されたエッセイの読解を試みてみよう。

 字訓の第一人者だけあって、文明を「文」という文字の起源から説きはじめる。そして

文とは死によって実現される荘厳、聖なる世界をいう。

とおっしゃる。「文」の上半分はうなじや襟元、下のXはむねのところで交差する身体の線を表すらしい(漢和辞典から)。そのXの上の空間は胸郭で、そこに「生命の象徴」としての「心臓の形」が書き込まれた象形文字が「文」という字の起源らしい。男が死に,その胸に、心臓の印が、水銀化合物の朱色で書き込まれている姿が、「文」という文字のもともとの形だということらしい。「文明」以前に「文」があり、そこでは単純に「死は聖の世界であった」。

やがて人の世に聖人が現れて、工作することを教え、道徳を作り、文明の世となった。

 原始的な生と死の世界を、文明に変えていった賢い人々のことを、ここでは「聖人」と呼んでいる。「聖人」の「聖」は、直前のパラグラフの「死=聖」とは、意味が違っている。大局からものを見ている白川の皮肉な表現だろうか。

文明は、聖人がはじめて世に現れて以来、瞬く間に全く驚異的展開を遂げた。

 その現在の姿として、人々が地球上のあちこちに自在に移動すること、ボタン一つで無数の情報を集めること(インターネット?)、居ながらにして遠くの人と話せること(携帯?)、などをあげている。その文明は、人を疲れさせる。

 時には、人々は「文明」からの解放を求めて旅をする。その時、人は「荒野」に出会う。荒野を、「荒」の原義から説く。「荒」とは、野に捨てられた屍体の姿だという。文明に疲れ、飽き足りない心の充足を自然の中に求めて、その果てに、人は原始の「死=聖」の世界に辿りつく、といいたいのだろうか。エッセイの最後は、こう結ばれている。

人の世の文明に飽くものは、この「無限のきはまりなき寂寥」を愛して、人境を絶つ世界に彷徨することを試みるのであろうと思う。

 ところで、この特集号では、文明に荒野を対置して、さまざまな問題を提起している。それは文明の生み出す荒野であったり、文明の只中にある荒野であったり、文明からの脱却としての荒野であったりする。選び抜かれ、巧みに編集された写真が、文章表現を超えたものを訴えている。副題の「魂のフロンティア」も示唆的である。

 「風の旅人」編集長の佐伯剛さんが、最近ブログ「『風の旅人』編集だより」を開設しておられる。私のブログとも交流してくださっている。出来上がった雑誌が表の顔とすると、その裏で編集者は何を考えておられるかがうかがえて、興味深い。失礼ながら、想像していたよりずっと編集者の意図は、深く広い。サイドバーの「おすすめblog」に登録した。ご覧になることをおすすめする。

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