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2005/01/16

鹿島茂先生は、どうしてキュリー夫人をユダヤ人にしてしまったのだろう?

050115MarieCurie 鹿島茂先生の多方面にわたる博識と、多才な執筆ぶりはつとに知られている。軽やかで読みやすく、つい引きづり込まれて読んでしまう。そんな本を数多くものしておられる。そんな一冊『フランス歳時記』(中公新書2002/3刊)の中で、キュリー夫人をユダヤ人としているが、これは先生、ちょっと筆が滑ったのではないか。放っておいてもいいのだが、広く読まれている書物だから、間違いを指摘しておかないと、誤ったキュリー夫人像が流布することになる。

 キュリー夫人の生涯は、偏見との戦いだった。女性に科学などできるか、外国人を取り立てることはない、そして誹謗の際の常套語「ユダヤ人」。20世紀初頭、フランスには口汚い右翼言論活動がはびこっていた。ドレフュス事件の後遺症だろう。外国人の女性科学者であるマリー・キュリーがめざましい業績をあげ、顕彰されるのを見て、ことあるごとに、この右翼言論は夫人をターゲットにした。それとの戦いに疲れ、後半生はほとんど研究活動もままならなかった。偏見でつぶされたといってもいい。そのキュリー夫人が、今日本でユダヤ人呼ばわりされていることを知ったら、どんなに嘆くことか。ユダヤ人であることを差別視してこういっているのではない。キュリー夫人をユダヤ人と蔑称することに、端的に象徴されていた夫人に対する偏見が、今こんなところに残っていることが残念だからだ。

 鹿島先生が、どのようなソースからそのように書かれたのか知らないが、当時の偏見に「汚染されている」噂話を、気軽な書き物として取り込んでしまったのではないか。先生はそのつもりではなくとも、結果としては、キュリー夫人がもっとも悔しがる誹謗に与していることになる。それゆえに私は、事実を調べ、紹介したいのである。

 まず先生はこのように書いておられる(上記書p.154)。キュリー夫人の娘エーヴが書き、河盛好蔵、杉捷夫らが訳した『キュリー夫人伝』(白水社、1938初版)が、日本で大いに読まれたのは、それがひとつの貧乏物語であったからだ、と紹介したあと、こう続く。

 日本人には受けたマリー・キュリーの刻苦勉励の生活の裏にはもう一つの大きな苦悩があった。それはポーランド国籍のユダヤ人という出自に対するフランス人の偏見である。おりしも、ドレフュス事件で反ユダヤ熱が高まっていた時代である。マリー・キュリーもこの問題に巻き込まれざるをえなかった。
すなわち、マリーの名声が高まるにつれ、それに嫉妬する反ユダヤ主義者たちが妻子ある同僚教授との不倫事件をかぎつけ、これをスキャンダルに仕立てて、二度目のノーベル賞受賞阻止を画策したのである。これが晩年のマリー・キュリー最大の危機であったが、結局、ノーベル賞は彼女に与えられ、その栄光は不動のものとなった。

 キュリー夫人が反ユダヤ主義者に攻撃されたのは事実だが、それは彼女がユダヤ人だったからではない。当時の世相では、反ユダヤ主義者とは、同時に、共和制に心情的に反感を持つ王制派の残党や教権主義者、ヨーロッパにおけるフランスの排他的優位を主張する熱烈な愛国者、自由な学術と言論を主張するソルボンヌその他にいる知識人に反感を持つ反知性主義者、女性の社会進出を喜ばない反フェミニスト、そしてもちろん反ドレフュス派であった。彼らにとっては、女性の、外国人の、ソルボンヌ大教授の科学者が、栄誉を受けることが気に入らなかったからである。

 彼女は言論界相手に、2度大きな戦いをした。最初は、彼女がアカデミー会員(日本での学士院会員)の候補者になったとき、2度目は上記引用にあるとおり同僚教授(ポール・ランジュヴァン、気体の分子運動論でのランジュヴァン方程式などで有名)との不倫が、スキャンダルとして暴かれ袋叩きに遭うのと、たまたま時期を同じくして、彼女としては2度目のノーベル賞(最初は夫ピエールとともに物理学賞、今度は化学賞)の受賞が発表され、受賞返上をせまられた時である。

 フランスは自由・平等思想の先端をいっている国のようでいて、意外に旧弊な国でもある。婦人参政権が認められたのは、1944年、日本よりわずか1年早く、というような面もある。20世紀初頭、女性は男性より劣るものと見なされており、まして外国出身者である。アカデミー会員になるなどとんでもないと総攻撃を受けて、選挙に一票差で敗れた。彼女の代わりに選出されたのは、いまではその名を知る人もない物理学者であった。ついで不倫関係について、卑劣な暴露記事を右派系新聞や雑誌に書かれた。事実ではあったが、知人たちは夫人の事情を理解していた。この騒ぎのさなかに2度目のノーベル賞授与が報じられ、火に油を注ぐことになった。そんな際に、常套手段として、彼女はユダヤ人だ、という誹謗の言葉が出てきたのだ。

 キュリー夫人の伝記は、エーヴの書いたもののほか、いくつか書かれている。エーヴの書いたものは、娘の立場から、夫人を神話化しすぎている、ともいわれる。最新のものとしてはスーザン・クインの『マリー・キュリー』(みすず書房、1999出版、原著はSimon & Schuster, 1995出版)がある。最近入手できるようになった資料(夫人の日記や、不倫事件などの経緯を記録した親しいものたちの手記など)や、当時の新聞その他の記録文書を丹念に調べ、ポーランドでの現地調査などを行って、7年もかけて執筆されたものだという。原著で530頁、日本訳では2巻に分かれ、800頁を超える大著である。ランジュヴァンとの不倫事件を、はじめて詳細に客観的な視点で、明るみに出して書いたことでも、画期的な伝記である。

 夫人の出自についても、詳細な調査をしている。ポーランドはつい最近まで、大国の支配を受け不幸な国であったが、14世紀から16世紀にかけてはヤギェウォ王朝のもと中欧の大国であった。ポーランドは、各地にシュラフタと称する荘園領主あるいは土地貴族が多数いて、その上に王制が成立していた。ヤギェウォ王朝の断絶後は、シュラフタが選挙により国王を選ぶというシュラフタ民主制が、18世紀の国家滅亡まで続いた。

 キュリー夫人の父系のスクウォドフスキ家も、母方のボグスキ家も、このシュラフタであった。夫人の幼時には、すでに没落して(革命蜂起への参加・失敗などがあった)領地を失ってはいたが、それぞれの家の名前を持つ村(かつての領地)が、ポーランドの田舎に存在している。夫人の若い頃は、休暇となると、一家で、先祖伝来の土地に住む親戚の家で過ごしている。伝記の著者は、スクウォドフスキ家については、マリーの曾祖父の兄弟の末裔と会って確かめているし、ボグスキ家については、先祖が16世紀に建てた教会が今でも丘の上に立っているのを確かめている。ボグスキ家は14世紀から全国議会の一員であった。

 ポーランドは、ユダヤ人に寛容な政策をとり、多くのユダヤ人が住み着いた。しかしユダヤ人は固有のコミュニティをつくり、ポーランド人になかなか同化しなかった。19世紀になってから、キリスト教に改宗し普通のポーランド人となって生活する人々、いわゆる改宗ユダヤ人が出てきたが、それは少数で、都市に住む大部分のユダヤ人はゲットーに閉じこめられていた。彼らがナチスのホロコーストに遭ったことは、「戦場のピアニスト」や「シンドラーのリスト」などに描かれている。上記のように明らかにされたルーツからして、スクウォドフスキ家が、改宗ユダヤ人であることもあり得ない。

 キュリー夫人が、アカデミー会員選挙や不倫事件で、右翼言論界から叩かれた時期に、「キュリー夫人の父親は、改宗ユダヤ人だ」と書いた右翼新聞があるそうだ。だがこれは全く根拠のないデマである。夫人は一度は、私はユダヤ人でない、と明確に否定したことがあったが、誹謗の繰り返し攻撃にいちいち取り合わなかったようだ。パリには、独立蜂起運動に失敗したポーランド人が多く住んでいた。パリに亡命したポーランド人にユダヤ人が多かったことから、パリにいるポーランド人・イコール・ユダヤ人というような見方があったり、ポーランド人を蔑視する人は、ポーランド人と見ればユダヤ人呼ばわりしたのだろう。

 そんな名残が今でもあるのだろうか。鹿島先生は何を読まれたのか分からないが、フランス語で書かれた伝記文書の中に、そのような空気を反映した誤った記述があるのかもしれない。しかし、この点は上記スーザンの著書によって、完全に晴らされている。

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