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2005/01/25

わが師、白根元の死

050125GenShirane 1月17日の夜、訃報が来た。白根さんが、数時間前に突然の脳卒中で亡くなったと。愕然とした。この人と出会い、鍛えられることによって、自分の生涯が決定的に変えられた。そのような人を「師」と呼ぶとすれば、私にとって唯一の「師」だった。

【左の写真はブルックヘブン国立研究所のHPから。1年ほど前、日本中性子科学会から贈られた、第1回功績賞を手にして】

 翌日の各新聞に載った訃報にはこうある。

白根元氏死去 米ブルックヘブン国立研究所主任研究員

 白根元氏(しらね・げん=米ブルックヘブン国立研究所主任研究員、固体物性物理学)米東部時間16日午後11時半(日本時間17日午後1時半)、脳内出血のため米ニューヨーク州ロングアイランドの病院で死去、80歳。神戸市出身。葬儀は家族だけで済ませた。

 47(昭和22)年東京大卒。東京工業大助手を経て52年に渡米し、米ペンシルベニア州立大助手。63年から現職。中性子による結晶構造解析や磁気構造解析などに従事した。米科学アカデミー会員で東京大、大阪大、東北大の客員教授。

 日本から米国への頭脳流失が問題とされた時代があった。日本の科学技術がまだ後進であった頃、日本の研究環境は貧しかった。研究費は乏しく、研究現場の活性度は世界の最先端からはほど遠かった。日本の優れた研究者は、米国の優れた研究環境に惹かれて留学し、そのままアメリカに居着いてしまうのだった。ちょうど今、プロ野球やサッカーで起こっているようなことが、科学の世界では4,50年前、起きていた。白根さんはその先陣を切った1人だった。

 中性子散乱による物性の研究が、この人の専門分野だ。成果が派手に世間をにぎわすような分野ではない。中性子ビームという原子力の進歩とともに使えるようになった手段で、物質の構造や特性を探究する科学を、強力に推し進めたのはこの人だった。1994年、中性子散乱の創始者二人(C.G.Shull と B.N.Brockhouse)に、ノーベル物理学賞が与えられた。その際に、白根さんを3人目に加えるべきではないかと、真剣に検討されたという。独創的な何かを始めた人に与えるという賞の基本理念に照らして、結局、白根さんの受賞は見送られた。しかし受賞者二人が創始した中性子散乱という方法を、数々の問題に適用して、最大の実りを収穫して見せたのが、白根元だったことは、この分野の世界中の研究者が認めていることだ。

 80歳だった。アメリカでは、定年を定めてはいけないという法律があるため、本人が辞める気になるまでは、いつまでも仕事は続けられる。研究者の場合、特にテニュア(終身在職権)制のある研究所や大学の場合、かなりの年齢まで仕事を続けることが多い。この人の場合、部長や所長という上位職への昇進を一切断り、研究現場に立ち続けた。大きな研究グループのリーダーとしての地位は後進に譲ったが、気の合う研究仲間との共同研究はずっと続け、最後まで最先端のテーマで、世界の先頭を切る研究結果を出し続けることを楽しんでいた。

 ブルックヘブン国立研究所がHPに掲げている死亡通知によると、700件以上の論文を公刊しているという。私も、この人のもとで働いた間に、7、8編の共著論文を書いたので知っているのだが、この人は、グループのボスがよくやる、人にやらせた仕事に自分の名前をかぶせるだけというようなことは全くしなかった。隅々まで自分の目が行き届いていて、自分の寄与が十分にある、というより、研究を主導した論文だけに共著者として名を連ねるのだった。

 いい論文であるかどうかの評価を、最近は、「被引用回数」を目安にするようになっている。ほかの研究者が論文を書く際に、もとになった論文を引用した回数をカウントして総計した数である。新しい分野を切り開き、みなが追従して研究をする発端になるような研究ほどその回数は多い。白根さんはブルックヘブン国立研究所きっての被引用回数の多い研究者として知られていた。世界中のもろもろの分野の研究者の中でも目立つ存在だったのではないか。ついでに少々自慢をすると、私が白根さんと書いた論文のひとつは、高温超伝導物質の発見以前の時期に限れば、白根グループが出した論文の中では、被引用回数が最多の記録を持っていた。時期を限定したのは、高温超伝導物質発見後、白根グループの成果も、この分野の活性度も、爆発的に増えたからである。ある時、白根さん自身が、私の論文の被引用回数がトップであることを知らせてくれて、「あれはいい仕事だった」と再評価してくれたのは、私にとっていい思い出だ。

 この人の特質を一言でいうとしたら、「ずばり核心をつく」ということだろうか。研究面でも対人関係でも、そうだった。とことん実験屋だった。実験して得られるデータが示すものの核心を読みとることが得意だった。だれも気が付かない何かを感じ取る、特殊な嗅覚を持ち合わせていた。実験の初期に得られるデータは、ばらつきが多く、雲をつかむようなものが多い。枝葉の現象による揺らぎに惑わされる。その中から核心をつかみ取り、それを明らかにする方向へと研究方針を切り替えていく。一緒に実験をしてみて、その勘のすごさに、だれもが圧倒されるのだった。過去の研究で図に描いた実験データをすべて記憶していて、それがヒントになるようだった。これは何か見たことがあるぞ、あれだ、だとすると、これをこう攻めてみよう、という具合に事を進めるのだ。勘を働かせ、それが当たることを、ことのほか楽しむのだった。彼にとっては、研究もある種のゲームのように見えた。

 「ズバリ核心をつく」という姿勢は、対人関係でも同じだった。いっさいの虚飾なしに腹を割って人とつきあう。場合によっては遠慮会釈がない。へまをやれば大声で叱咤する。常に本音で人と向き合い、それができない人は遠ざける。アメリカ社会で日本人はどちらかというとシャイだと見なされることが多いが、この人は全くそんなところがない。育った年代からして、英語の発音はネイティブ並みとはいかないが、英語でしゃべることに全く引け目を感じていない。ぶっきらぼうでストレートな英語で、アメリカ人とガンガンやりまくる。同僚の米国人研究者たちが「アメリカ人以上にアメリカ的だ」と評していたのは当たっていると思えた。

 この人とうまくやっていける人と、そうでない人が分かれるのだった。ウマがあってやっていける人は、とことん白根信者になる。そうでない人も遠くから畏敬の念を持って見守る。そんな人だった。彼はある時から、日本の学界から日本人の研究者を、1人招聘して、1年半から2年間鍛えては、送り返し、次を呼ぶ、という事業をやり始め、ずっと続けた。頭脳輸出した者として、祖国の科学研究を育てることに、そういう形で貢献したい、という考えだったのだろう。白根さんに招かれて出かけていって、白根さんの懐に飛び込んで、腹を割ってつき合い、鍛え抜かれてきた人と、必ずしもそうでなかった人がいた。前者は、研究面でも対人面でも白根流に染まって帰ってくる。いわばミニ白根となる。現在日本には、そんな人が十人以上はいる。白根学校卒業生と自他ともに認めていて、日本の中性子散乱の主流を占めている。亡くなった白根さんの残した大きな遺産である。

 温かい人だった。おっかないと思い続けている人もいるが、懐に飛び込むと、この人の暖かさが分かるのだった。白根さんのところで修行する際につけられる条件のひとつは、奥さんも家族も連れて来なさい、ということだった。研究者がいい研究ができるのは、家族あってのことだということを、ご自分の経験でよく知っておられた。いい奥様とご子息二人を持ち、家庭を大事にする人だった。家族ごとのつき合いを大切にされた。白根学校に来た人のことを、滞在時だけでなく、日本に戻ったあとまで、それも本人だけでなく、家族のことまで、ずっと心配し、見守ってくださるのだった。

 私にとって、この人のもとで研究をしたことが、研究者としての転機となった。研究とはこういうものなのだ、とはじめて悟った。研究の醍醐味を知った。研究者としての運も開いた。ポジティブな生き方に目を開かれた。自分にもともとあったそういう資質を引っ張り出してくれた。守るより攻める処世に転換した。属していた研究機関の事情で、その後、研究畑から離れ、研究管理や経営の方に転向したが、それを白根さんはよしとしてくれた。白根さんから学んだ核心をつくものの考え方・処し方は、転向後もそのまま役立った。退職まで、気持ちとしてはずっと白根門下生としてやって恥じるところがなかった。その意味で、白根さんは、生涯の師だった。

 白根さんの訃報の届いたその日、直前に、当の本人からのメッセージカードを受け取ったのだった。私が年賀状代わりに送る家庭新聞「てとら」への返書だった。いつものことながら、カードの裏表にびっしりと、私の書いたものへの感想や自分の近況などを、単刀直入な表現で書き送ってくるのだった。それには、ようやくこの春で完全にリタイアすることにした。東京麻布にマンションを買った。これからは仕事ではなく、日本へ遊びに行く。その時に会うのが楽しみだ。と書いてあった。もともと活力がそのまま現れ、踊っているような字を書く人だったが、ひときわ文字の乱れが目立ち気になった。日付には1月8日とあり、ニューヨーク州ベルポート局のスタンプは10日付けになっていた。それは、私にとっては、白根さんがようやく果たそうとして、果たせなかった、遺言のようなものに思えた。

 2月12日に、ニューヨーク州ロングアイランドにあるブルックヘブン国立研究所で、 Memorial Tribute (偲ぶ会)が行われる。白根さんとの最後のお別れをするために、出かけることにした。入国審査時に、顔写真を撮ったり、指紋を採ったり、靴を脱がして靴底まで調べるという、現状の米国には行きたくない、と思っていたのだが、ほかならぬこのためなら仕方がない。

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コメント

1993年にBNLにPostdocとして勤めはじめて4日目、白根先生と議論(というよりは口頭試問でしょうか)をしているうちに、中性子散乱のことを私が何一つ知らないことに気がつかれ、「こんなに何も知らないと分かっていたら雇わなかったのに」と言われました。バレたか、と、ちょっとほっとしました。2年ほどして、東北大に就職するために帰国する前、「何も知らないで来たのが、かえって良かった」と言っていただきました。本当に嬉しかったです。

私自身は、リラクサー誘電体の共同研究を白根先生と続けている最中でした。「ようやくこの春で完全にリタイアすることにした」という白根先生の思いを知って、一層、悲しみが増しました。飯泉先生の書かれた記事は、そのまま私の思いであり、おそらく白根先生の近くで働く機会を得た多くの研究者の思いでもあるはずです。素晴らしい記事を有り難うございました。

投稿: 廣田和馬 | 2005/01/26 23:23

廣田さん
コメントの書き込みありがとうございました。何人かの白根門下生が、書いても書ききれない哀惜の気持ちと、想い出を持っていることでしょう。でも研究の第一線にいらっしゃる方は書くひまもなく忙しくしておられる。私のようなものが書いておかなければと思いました。
 白根さんの研究への取り組み姿勢は、廣田さんのように若い世代にまで受け継がれています。すでに白根さんの育てたものは、日本で開花していますが、次の世代でもっと大きく花開くことは確かでしょう。白根さんにもっと長生きして、それを見ていただきたかった。それが残念です。

投稿: アク(飯泉) | 2005/01/27 09:48

恩師の死:私も昨年11月29日に死去された東大名誉教授小林太刀夫先生を飯泉さんと同じ思いで偲んでおります。医学の、特に循環器病学の分野では白根先生にひってきすると思っています。ただ小林先生は92歳で天寿を全うされましたが、これまで叙勲などを拒否されてこられ、偲ぶ会は勿論門弟達や各界の人たちが計画された追悼集も遺言で断られた由、しずかな死でした。新聞の死亡欄にも出ず、従って、われわれもかなり後で先生の死を知りました。偉大な先生の静かな死に私は感動し、ご冥福を祈っています。

投稿: 松本進作 | 2005/01/28 07:02

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