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2005/02/21

ヒルダとの再会

050221Steve

 【ヒルダと再会した友人宅とその庭。この斜面の先に大きな池がある】

 ニューヨークから帰ってすぐ、東京に出て二日ほど、あれこれの用事であわただしく飛び回り、水戸に戻る、といった常ならぬ日が続いている。時差もまだとれない。1週間後には、ポルトガルへの旅に出る。これは予定していた海外旅行シリーズもの。ふだんのペースでこのブログを維持できそうにない。先日の旅先で久しぶりに会った旧友とその家族のことを書いてみよう。アメリカのある家族物語、といったところである。イラク問題や大統領選などの渦中にあるアメリカ人ってどういう人たちなのだろう。もちろん一概にいえないが、たとえばこんな人たちが、その中にいるのだという実像を一つお届けしよう、というつもりである。

 ロングアイランドの最後の日の昼、友人宅に招かれた。広い窓を南向きにいっぱい開いたサマーハウスを幾棟かつないだような大きな邸宅である。そのサンルームのデッキから、広い芝生の庭がなだらかに傾斜し、その先には、大きな池が拡がってじつに見晴らしがいい。この住宅地の共有の池なのだが、この人の宅地が、一番いい部分にある。池はほとんど自分のもの、というほどのものだ。半分ほど氷の張った池には、雁やカモなどの水鳥が群れている。飛んできた水鳥が氷に着地するときにグライダーのように滑走する様がおかしい。カクテルを手にして屋外にでて、そんな風景を楽しみながら、十数人ほどの招待客が談笑しているところに、旧友ヒルダが現れた。再会を喜んで思わず抱擁しあってしまった。思い出してみると、ハグし合うなどはじめてのことだったかもしれない。招待してくれた友人が、私がこの日ヒルダに別の場所で会う予定にしていると、招待を断ったら、そんなことならヒルダも招待するからとアレンジしてくれたのだ。何のことはない。招待主の友人とヒルダとは、プライベートビーチを共有し、カヤックを楽しむ仲間同士だったのだ。広くて明るい客間を一つ、ヒルダと私のために用意して、二人きりで存分に話しをさせてくれた。

 ヒルダ(フルネームではヒルデガード)は、ワイフの親友である。かつてアメリカ滞在中に知り合いになり、それ以来家族ぐるみでつき合いが続いている。といっても、このところは手紙やメールのやりとりだけで、今回の私のニューヨーク行きで久しぶりに対面した。数年前に夫婦でこの地を訪れたときには、あちらがギリシャ旅行中で、会えなかった。私らが行くと決めた時には、すでに旅の計画が決まっていて、会えないのを残念がった。その前のときは、私たちがNYを経由するだけで、ロングアイランドまで足を伸ばせないと知って、ヒルダがわざわざNY市まで出てきてくれた。

 もともとは私がブルックヘブン国立研究所に家族連れで招聘されて行った同じ時期に、ヒルダの夫ピーターが米国内の企業から転職してきて、一時期同じ外来者住宅に住んだ。何かのきっかけで、ワイフとヒルダがまず知り合った。世代もほぼ同じ、ともに二人の子供がいて、その年頃も近かった。ドイツからの移民第一世代で、親日的だった。異国からやって来て、言葉や生活習慣などで苦労しているのを、自分らの経験から察して、とても親切にしてくれた。ピーターが家を建て、外来者住宅から出ていったあとも、しばしば家族ごと一緒に過ごした。新居の前庭の芝貼りを手伝ったことを、今回ヒルダが思い出してくれた。私はすっかり忘れていた。

 それ以来30年もつき合いが続いている。ピーターとヒルダは20年ほど前に離婚した。原因は娘の教育についての意見の相違だった。ハイスクール時代にサイエンス分野で大統領表彰をもらったほどの優秀な長女を、入学要請の来た有名アイビーリーグの大学に入れ、才能を伸ばしてやりたいとするヒルダ。親元に置いて地元のカレッジ程度の教育を受けさせればよしとする父親。女は台所を守っていればいいというような、古いドイツ的家風をかたくなに守るタイプだった。父娘間でも激しく意見が対立し、最後には娘と父親とが完全に切れてしまった。母親が後押しし、娘のプリンストン大学入学が決まったときに、父親は家を出た。しばらくは別居ということだったが、やがて離婚となり、ピーターは再婚して、この地を去った。この間私たちは、夫婦の不和を心配しながらも、だんぜんヒルダの味方だった。別居していた時期に、私が研究所をしばしば訪れる機会があった。ヒルダとピーターと別々に、それぞれと会うという変な関係が続いたが、その後ピーターとのつき合いは途絶えてしまった。

 ヒルダは文学やアートを愛好する教養人だ。地元の図書館に勤め、成人向けの企画もの(展覧会とか、NY市でのオペラ鑑賞ツアーなど)を担当することに熱心に取り組みはじめ、離婚の危機を克服したようだった。また、故国ドイツで相続することになった事業があったようで、プレハブ住宅の輸入などのビジネスもやっていた。そんなやりくりで、父親に頼ることなく、子供二人を立派に育て上げた。そもそものもめ事の原因だった娘は、プリンストンで国際政治を専攻したあと、ハーバード・ビジネススクールに通っていたが、人を動かして金儲けするビジネスは性に合わないと、医学に転じた。文系科目しか専攻していなかったので、あらためて地元の大学で必要な単位を取得し、名門のジョンホプキンス医学校に入ったのは、かなりの歳になってからだ。この娘からは、有能で野心に燃えるアメリカの若者が、真のライフワークに出会うまでの執拗かつ柔軟な選択の跡を、典型的に見せてもらった。紆余曲折が少しもマイナスにならず、キャリアアップに生きるのだった。今はオハイオ大医学部、臨床内科の助教授である。医学校の同級生だった年下の夫も、同じ学部で教えている。3人の子持ちである。勉学と研究のかたわら、立派に子育てをしてきたこの娘のことを話すヒルダは、孫の写真を見せてくれながら、とても幸せそうな表情だった。

 2番目は男の子で、海軍兵学校に入った。セイル・ボートを持ち、休日となるといつも海(ロングアイランドとコネチカットの間の内海)に出ていた父親の影響だろうか。海軍と聞いて、おやと思ったが、移民第2世代としては、そういう選択もあるのだろう。母親に学費で負担をかけたくないという事情があったのかもしれない。湾岸戦争時に軍艦に乗って従軍したが、その後退役した。軍とはいえもっぱらコンピューター技術を身につけたらしい。今ではコンピューター関連のベンチャービジネスを起業し、成功の道を歩んでいる。カリフォルニア・シリコンバレーに住み、未だ独身である。うちの次男が未婚であることから、ヒルダもうちも、二人目は結婚しない世代なのかな、と話しが合った。この次男は、アメリカに留学していた時期、ヒルダが家族同然に、クリスマスや感謝祭の時期になると、自宅によんでくれたのだった。いまでも、訪ねたり、電話し合ったりの仲である。

 コンピューターをやっている息子の方は,先般の大統領選でケリー候補のために運動をした。選挙資金を集め、カリフォルニアの選対を手伝ったり。私が今回ニューヨークに行った時期、ヒルダはカリフォルニアの息子のところにいた。じつはヒルダに会ったこの日の前夜遅く、ロングアイランドに戻ってきてくれたのだった。カリフォルニアで、ケリー上院議員が、選挙運動に大きな貢献をした人々を招いてのパーティーがあった。息子と一緒にヒルダも招かれて出席し、リサ夫人と直接会話をしたと、得意げに友人宅に集まった人々に話していた。その場にいたアメリカ人たちは、みなケリー支持者である。希有のことだと、うらやましそうにヒルダの話しを聞いていた。あの大統領選の熱気は、大きな落胆とともに、いまだに漂っているように見えた。

 友人宅を辞し、ケネディ空港へ移動するまでのしばらくの時間を利用して、ヒルダの自宅に寄った。まずビーチに連れて行って、カヤックを見せてくれた。その途中には、建設後、反対運動で閉鎖を余儀なくされた原子力発電所も見た。1ドルで州政府が買い上げ保管中のもので、アメリカでの原子力の停滞を象徴して、無為で醜い姿を海辺に曝していた。ヒルダの家は、築百年の古い家だ。荷馬車の収納庫を住宅に改築したもので、その面影を残している。インテリアは、ヒルダらしく趣味のいい部屋に仕上がっていたが、女性の独り住まいは、何となくわびしげだった。十分な広さがあるが、子供らが家族連れで帰って来るには少し狭い。近いうちに増築し、寝室をもう一つ増やしたりするのだという。私ら夫婦が次にロングアイランドに来たときには、ここを宿にするつもりでいてくれと何度もいわれた。

 ロングアイランド鉄道の駅までトヨタで送ってくれて、もう一度しっかりハグをして別れた。次に会うのはいつのことになるだろうか。

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コメント

おはようございます。
『有能で野心に燃えるアメリカの若者が、真のライフワークに出会うまでの執拗かつ柔軟な選択』を行い、そうした選択が『少しもマイナスにならず、キャリアアップに生きる』というアメリカ社会の優れた部分のご紹介にアメリカのフトコロの深さを感じます。
 競争に参加する意欲と能力のある人たちにとっては当たり前の条件なのでしょうが、方向転換に対し、きちんとサポートできる社会というのは、正直うらやましいですね。
 おそらく各種の財団が奨学金制度を持っており、そうした制度によって可能なのだろうと推察します。
 それに引き換え日本の財団は・・・
 例えば交通遺児の進学に関しては、世界に冠たるメーカーは勿論、自動車社会全体がサポートするのは義務と言えるのではないか、などと考えてしまいます。

投稿: 魔法使い | 2005/02/27 09:24

私も日本でキャリアの途中で異分野に参入した組なので、このような転向の話しは興味深く読ませて頂きました。確かに日本社会ではこのような異分野参入を認めるだけの懐の深さはまだまだありませんね。
 アメリカに4年いて感じたことのひとつとして、日本の場合は皆、余裕がないというのがあります。まじめに生きすぎてアップアップで余裕がないのです。まだまだ昭和40年代のように欧米に追いつけ追い越せの慣習がのこっている、社会システムをうまく構築出来なかったために通勤時間が異常に長いなどの弊害があるのでしょうか。さらには魔法使いさんが指摘されたような経済支援システムの欠落もひとつの理由としてあるでしょう。世界広しといえども、返済しなければならない奨学金システムを採用しているのは、日本だけだそうです。

投稿: Aurora A | 2005/04/12 15:35

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