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2005/04/20

大分で会った友人たち(3)

 古希を期に高校同期生が集まった折に、50年以上の時を隔てて再会した旧友たちのことを書いている。今回は女性の同期生3人のことを書いてみよう。水彩画家のTaさん、声楽と朗読ボランティアのKさん。そして、もと女子アナで、朗読指導者として活躍しているToさんである。

 Taさん。この人とは中学3年生の時、同級だった。彼女は女生徒の学級委員、私は男生徒の学級委員だった。理知的で、はっきりとものをいい、細面でスマートな身体の持ち主だった。都会的なセンスを持ったお嬢さんだった。お医者さんの娘だから特別だ、というように誰もが感じていた。その印象が変わらぬまま、70歳の彼女が目の前にいた。頭のてっぺんから出ているようなハイキーで、よく通る発声は、変わっていなかった。「・・・なんよ」などと、大分弁まるだしでよくしゃべり、いつも談笑の中心にいた。粋なファッションで飛び抜けて目立っていた。髪は趣味のいいスカーフで覆っている。眼鏡は濃い紫色を入れた横細のレンズが、ナウでオシャレな眼鏡枠に収まっている。曲面を描いて横の視野まで覆う最新型のものだ。翌日のバス旅行では、角張ったカットの、スポーティな眼鏡に代わっていた。ドレスのセンスもいい。しゃれたベストを取り合わせている。大分でのハイソな世界を生き抜いてきたのだろう。

 彼女とはどういう縁でだったか、卒業してからかなりの年月を経てから、文通での縁ができた。年賀状を取り交わしたり、水彩画家として東京にも進出している彼女から展覧会の案内が来たり、の関係が続いている。展覧会の通知をもらうたびに、私は上野の美術館に出かけた。しかし、毎日詰めているわけではない。顔を合わすことはなかった。水彩画と聞いて、淡いスケッチふうの写実画を想像していたが、どうしてどうして。幻想風で、厚塗りの重量感ある絵画だった。一度私が大分を訪れる機会があったとき、親しかった友達が集まってくれた。たまたまその時に、Taさんは何の病気だったか入院していた。是非会いたい、病院を訪ねてもいいと、彼女に電話をしたら、やつれた顔を見られたくないと、断られた。そのことを今度会って話したら、入院など後にも先にもあのときだけだった、と思いだしてくれた。

 そんなこともあった仲だったが、今回とうとう再会を果たし、パーティでは同じテーブルで、ずっと話をし、翌日のバス旅行でも一緒だった。水彩画の題材にするのだと写真を撮る彼女と、最近写真に凝っている私と、竹田の岡城址では、この角度から、ここをこう切り取るといい構図になるなどと、気のあった話をしながら、二人で撮り歩いたりもした。

 次のKさん。結婚後の姓になじめず、ずっと旧姓のOさんで、話し合った。この人とは、中学の1,2年に同じ組だった。その後も同じ高校にいたのだが、その時期の記憶はなく、ぷっくりと丸顔だった中学時代の彼女が、いきなりいい歳のとり方をした老婦人になって、そこにいた。ゆっくり丁寧なもののいい方と、優しい目もとの表情は、変わっていなかった。彼女と同級だったクラスは、女生徒優位の組だった。学年きってのお転婆娘がリードし、その回りに勝ち気な子たちが集まっていた。彼女らに私はいつもいじめられていた。ませた女子たちにとって、うぶで無口な私は、からかうのに格好の対象だった。あとから考えてみると、ひょっとしたら関心をそのような形で示されていたのか、とも思うのだが、当時はひたすら怖かった。一度、置き忘れた弁当箱を取りに教室に戻ったとき、居残っていた女の子の集団に囲まれて、吊し上げを食らった。そんな場面をうまく切り抜ける知恵など持ち合わせなかった私は、へどもどしながら、いじめを甘受した。そんなクラスで、いつも優しい言葉をかけてくれたのが、この人だった。物資欠乏の時代だったが、彼女から文房具だったか何かをプレゼントされた記憶がある。私の方さえ気が利けば、もっと仲良しになっていたかもしれない。

 同期の記念会のパーティーが進むなかで、アトラクションが二つあった。日本舞踊で活躍しているという同期生が、祝いの舞を披露した。そしてこのKさんが、歌をうたった。「ザワワ、ザワワ」の繰り返しが印象的な「サトウキビ畑の唄」である。森山良子が歌って、よく知られている。Kさんは、歌う前に、ひとこと話をした。私たちは戦争を知っている世代であること、あんな戦争を決してしてはいけないと次の世代に語り継がなければいけないこと、そういう意味で、沖縄戦の悲惨さを歌ったこの唄を歌いますと。とても長い歌だが、それを無伴奏で歌い通した。サトウキビ畑を「ザワワ、ザワワ」と吹き抜ける風のもとで、死んでいった兵隊たち、残された家族たち、そして今も鳴り続ける「ザワワ」の音。とてもいい選曲だった。だが、反戦的な歌に露骨に嫌悪感を示す同期生もいた。自衛隊や機動隊にいた連中もいる。「シーッ」と静粛を求める声も出るなか、彼女は乱されることなく、歌いきった。

 どちらかというと、おとなしく控えめだったこの人が、舞台で臆せず歌う姿に、何か強いものを身につけたな、そんな生涯を送ってきたのだな、と想像した。声楽を習い、プロのコーラスグループに属し、ご主人を亡くされたあとは、朗読ボランティアをしているという。大分を去る日、空港行きのバス待ちをしていたら、思いがけず彼女と再会して、またしばらく話をした。山口県に住んでいる、是非訪ねて来てほしいといわれた。帰ってまもなく。桜花を透かしで印刷したきれいな便せんに、美しい文字で書いた長い手紙をもらった。そこには「真面目を判でついたようなお方のはずでしたのに、お話ししていてとても楽しく・・・」とあった。

 最後はToさん。親睦バス旅行の途上、話しかけられた。「あなた、Iさん? 本当にそうなの? 気がつかなかった」としげしげと私の顔を見る。今回の同期会では、どういうわけか参加者の名簿が配られなかった。テーブルで一緒になるか、よほど親しくない限りは、誰が誰とも分からぬままだった。翌日同じバスに乗った二十数人も、知り合い同士で話すだけだった。彼女は、私が何者か分からず、誰かに聞いて、はじめて私を認識したらしい。私も彼女から声をかけられるまで、キャリアウーマンらしくきびきびとしたものいいをする人だと、ちょっと注目はしたけれども、誰であるか分からずにいた。「あなたは、仁と書いて『まさし』と読むんですよね。その名前が記憶に残っていて、『巧言令色少なし仁』という言葉を読んだり、聞いたりするたびに、あなたのことを思い出していたんです」と。成績で目立っていたからだろう、私のことをそんなふうに、遠くにいて思い出してくれる人がいたとは光栄だ。

 じつは彼女とは、高校生時代に知り合っていたわけではない。学級委員会などで同席したことがある程度だったろう。おそらく言葉を交わしたこともなかったのではなかったか。東京での同期会で彼女の噂を耳にしたのを思い出した。関西の民放テレビの売れっ子女子アナが、我らが同期だと。現在は中京地区に住み、「話しことば・朗読・ストーリーテリング」の指導者として活躍しているらしい。

 バス旅行が、長時間の移動になった機会に、彼女は求められて、朗読を披露した。なるほどきれいな声で、はっきりと読み聞かせてくれた。すごいな、と思ったのは、原稿なしのストーリーテリングだった。イギリス伝承の童話で、鬼とチッチャなおばあさんの話だ。声色を巧みに使い分け、最後は大きな怒鳴り声まで発した。ストーリーテリングと名刺の肩書きにあるだけのことはある。カルチャースクールなどで教え、教え子たちが、老人ホームなどで朗読ボランティアをしているという。

 今と違ってわれわれの世代は、かなり旧弊なものの考え方が支配的だった時代に育った。そんななかで、女性の同期生が、けっこう社会進出して活躍している。今回それを知って、頼もしく思った。

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