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2005/04/09

法王死去で考えたこと

 私は脱宗教をしたものであり、今は無宗教というより、もう少し積極的に反宗教を主張しているのだが、今回の法王の死去に対する世界全体の大きな反応を見ると、宗教なるものの現実的な力をあらためて考えてしまう。カトリックという宗教のおかしな姿、それが人間現実に巧みにあっているということ、そして現実世界に対する影響力の大きさなどについてである。

 宗教は、どれであれ、常識では理解できない奇妙なところがある。中でもカトリックは変な宗教だと、私は常々思っている。カトリックの真面目な信者さんには叱られるかもしれないが、こんな宗教を信じるなんて、私の理解を超えている。また一方ではこうも思う。こんな変てこりんな宗教が存在するのは、人間なるものがそもそも変てこりんなものだからだ、と。

 過日、ポルトガルを旅行したとき、ファティマを訪れた。ここは、昔々ならともかく、20世紀になってから、聖母マリアが現れた場所である。荒れた土地にある名もない寒村が、この奇跡によって聖地となった。巨大な聖堂が建立され、多くの信者がポルトガル国内はおろか、全世界から巡礼団を編成してやってきているのを見た。聖堂の前に広大な広場がある。今度法王の葬儀が行われたバチカンのサン・ピエトロ広場顔負けの広さである。5月と10月の奇跡の記念日には、20万人もの人がこの広場を埋め尽くすという。聖母マリアが、3人の子供たちに出現し、予言を語った。その予言の一つは、ずっと秘められていたが、法王を暗殺しようとするものが出る、とのことだった。1981年のヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件でこの予言が本物だったということになり、ますます信心深い人を惹きつけている。

 スペインで目にするのは、聖母マリア信仰の熱烈なことである。カトリックとは、キリスト教なのか、ひょっとするとマリア教なのではないか、といぶかしく思ってしまう。聖書には、マリアの特別な位置づけはない。イエスを聖霊によって身ごもったとされるが、それはイエスの神格化のためにあとづけで生まれた神話だろう。そのマリアを神にとりなしをしてくれる存在として、熱烈にあがめる。特異化したマザコンのように思える。じつに変だ。

 だいたい法王を、生きている神様のように見なし、法王無謬説を信奉し、法王に絶対的な権威をおくのが変である。法王といえども人間である。過ちも犯すだろう。事実過去にとんでもない法王は何人もいた。枢機卿は、立派な神父さんたちがなっているのだろうが、さて、法王選びとなると、裏では強大な権力をどの派閥が握るのか、泥臭い人間的な争いがあるのではないか。ヨハネ・パウロ2世が選ばれたときも、イタリア出身の二人の枢機卿が対立してどうにもならず、ダークホースのこの人が選ばれることになったと聞く。

 アメリカで最近起きた何人もの司教の、少年に対する性犯罪事件なども、聖職者に妻帯を許さないカトリックの内部矛盾が、歪んだ形で露呈したものに思える。女性が高位の聖職者になれないこと、信者に避妊や妊娠中絶を認めないことなど、大局的に考えると、それを許す方が、信仰の本義にかなっているのではないかと、外部のものには思える。

 以上さんざん不敬なことを書いたが、そんな悪口を言うのが、このエントリの目的ではない。そのように変なところ、間違っていると思えるところを抱えたままのカトリックが、じつは、様々な問題を持ち、不完全で、弱い人間の現実に合った、まことに巧みな宗教形態だ、という私の観察を述べたかったのである。

 人間は弱い。慰めを必要としている。さまざまな傷を負っている。それを癒してほしい。それも、癒され、慰められたという確かな実感がほしい。カトリックのミサ、告解(懺悔を神父さんに聞いてもらい、赦しを得る)、マリア信仰(十字架上の血なまぐさいキリストを通してより、柔和でやさしい、おっかさんのようなマリヤ様におすがりしたい)などに具体化されている赦しのシステムは、じつに人間の実態に合っている。

 人間は権威を必要としている。さまざまな考えが競合し、何が正しくて、何がいけないことか、さっぱり分からない世の中だ。自ら何が正しいかを考え、実行するのは容易ではない。誰かにより頼んで、信従すれば、どんなに楽だろう。確実なものの何一つないように見えるこの世の中に、しっかりとした座標軸を設定してくれて、ベクトルはどこに向かうべきかをしっかり示したもらったら、どんなにいいことか。宗教だっていろいろあるし、宗教の内部にも意見対立がある。しかしカトリックは一枚岩である。最高権威者としての法王が、最終的に、何がよくて、何がいけないかを決めてくれる。その考えに従っていさえすれば、迷うことはない。このような形のシステムを、やはり人間は必要としているようだ。

 そういう点で、プロテスタントは、人間の現実を直視していない (05/4/10修正→からするとかなり無理がある)。聖書の言葉を通して、一人一人が神と向き合うことを求める。教会に権威はない。自分対神である。自分が努力して、真実を知ることを求める。だからプロテスタントは、乱れに乱れる。無数の教派が生まれてきた。わずかな見解の違いが教派の分裂を招く。それを避けるには、聖書に権威をおくしかない。聖書といっても文書であり、解釈を必要とする。解釈をめぐって意見が分かれる。そこでエイヤッと、聖書の一言一句たりと、誤りはない、その通り受け取りなさいという原理主義に辿りつく。私はプロテスタントの果ては、自己本位の思いこみか、いい加減なぬるま湯信仰か、それとも原理主義しかないのではないかと思っている。それが今、アメリカのキリスト教の現況に端的に現れている。(05/4/10追記→真摯な信仰に生きているプロテスタント信者が私の身近にもいて、敬して付き合っている。しかしそのような個別事象は、次第に衰退していくと私は見ている。)

 そんなことを考え合わせると、カトリックというのはじつにうまくできた宗教のように思える。長年鍛え抜かれ蓄積された知恵が、このような宗教形態を生み出し、生き永らえさせているのだろう。内部にいて本当に分かっている人は,多少のおかしさを大きく包み込んでこそ、この宗教が存続できることを知っているにちがいない。

 現代世界におけるカトリックの存在意義は大きい。法王葬儀に、福音主義者のブッシュ大統領が、重量使節団を編成して出席したのも、現実政治でのカトリックの重みを知っているからだろう。事実、亡きヨハネ・パウロ2世が過去四半世紀に、世界政治に与えた影響は多大なものがある。ポーランドの民主化から始まったソ連圏の崩壊に、法王は陰で大きな影響を及ぼした。特に、ほとんど無血で、こんな大変革を実現したことは、法王のおかげといわれる。世界平和にことのほか発言力があった。湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争のすべてに公然と反対した(ブッシュは、どの面下げて、法王の葬儀に列席したのだろう)。

 おかしなところのいっぱいあるカトリックだが、人間の現実に似合った宗教の枠組みをしっかり持ち、不確かな世界に、かりそめのものとはいえ、しっかりした礎をおいてくれる、そんな点で、今後も世界に大きな影響を与え続けるのだろう。次の法王選びも大事なのかもしれない。頑迷な (05/4/10修正→懸案の問題に保守的判断を維持してきた)カトリックを、少しは和らげる方向へと舵取りする法王が生まれるのだろうか。

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コメント

アクさんは,確か昔,聖書研究をなさっていたと記憶していますが,いまは違うのですね.でも,宗教の問題を論ずる時は十分お気をつけ下さい.(筑波大の助教授殺人事件は未解決です.)
まあ,某合衆国のように未だに「進化論」を学校で教えることが議論になっているというのも困りものだと思いますが.
ただ,キリスト教は西洋芸術を理解するのに必須のものですので,宗教に帰依するというよりは内容を理解するということは必要だと思います.(そうですよね)

投稿: drhasu | 2005/04/09 22:31

ドクター、ご心配ありがとうございます。親類縁者にも、友人にも、この問題をこのように書くと、差し障りのある人がかなりいます。かなりシニカルな批判をしながらも、現実には、こんなものかと受容している心境を書いたつもりです。

ところで、某合衆国では、そのうちに先端的な生命科学はおろか、すべての科学技術の研究を、神の教えに背くものとして、政府の研究助成をやめるべし、までいくのではないかという心配が出てきています。医療も、どの程度まではよしとするか、否か、問題になりそうです。

投稿: アク | 2005/04/09 22:45

どこかで見たのですが(ここの関連かもしれませんが)、科学技術の進歩によっていろいろな問題もあるようですね。
(内科専門医でも最新のゲノム情報にはなかなかついていけません。)
たとえば、エジプトのミイラとか、わが国の(現在、宮内庁によって研究を阻止されている)古墳の遺体などを分析すればどこのどのような民族であったか解明可能であると思いますが、種々のタブーによってなされないということですね。科学vs宗教vs民族主義のタブーということでしょうか。

投稿: drhasu | 2005/04/11 01:35

 如何なものでしょう。某合衆国に住んでおりまして、医学研究の中枢のひとつとも言える政府系機関に現在在籍しています。宗教に熱心な方々は自分の主張に合うサイエンスの結果は問題なく受け入れるが、合わないものは排除しようとする傾向があるように思います。典型的な例はモルモン教の主催する大学です。ちなみに小学校の進化論の話しがでていましたが、某合衆国の小学校の教員の組合というのはとても左翼色が強いのです。どこかの国と似通っていますね。
 現在はリパブリックが政権を担当していますので、当面科学政策についてはおかしな方向には行かないと思います。ただし、リパブリックは自然科学よりも軍事や国防の方に予算が振り向けたい(私の所属する研究機関でも約10%の予算カットです)ので、痛みがないわけではありません。どちらにせよ、某合衆国では人々の考え方に大きな分散があり、ちょっと日本の常識では考えられないことを平気で主張するヒトたちがいます。そのような偏ったヒトたちはいますが、実際の政策は中道を行くのではないかと思います。極端な意見を尊重すれば結果、将来的に国民がそのつけを払うことになりますから。

投稿: Aurora A | 2005/04/11 07:43

Aurora A さん、たしかに実際の政策はモデレートを指向するのでしょう。それでも、Stem Cell の研究に政府援助が出ないとか、宗教保守に配慮した政策が科学技術の足かせになっていると感じている科学者は多いのではないですか。逆に核兵器の開発は、米国だけ積極的に進めています。他方温暖化対策はどうなのでしょう。もっとも温暖化については、京都プロトコルがいいのかという問題はあるのでしょうが。

投稿: アク | 2005/04/11 21:00

 Stem Cellに政府援助できないというのは既に過去の話になっています。一時期はヒトStem Cellの研究は政府の内部ではできないことになっていましたが、大学や民間ではやりたい放題でした。その結果、政府系研究機関でのStem Cellの研究レベルが追いつかないという事態に至りました。このような結果から規制は緩められ、現在では生殖細胞系列を扱わないかぎり、おおっぴらに研究されています。私の所属する研究所でも2つほどヒトStem Cellを扱う研究グループがあります。宗教倫理グループに配慮してそのような規制を一度は作ったが、科学技術において遅れを取る方が深刻とすぐに方向転換したものと考えられます。
 温暖化に関してはアメリカは全く国際的合意を批准しておりません。アメリカという国のヒトたちは砂漠の真ん中でも氷をたくさん入れたダイエットコークをがぶ飲みしたい民族なのです。すなわちエネルギーが枯渇しようが環境が悪化しようが出来る限り自分たちの生活スタイルを変えたくないという、非常に自己中心的ともいえる姿勢があります。「そこのけ、そこのけ、アメリカ人が通る」といった部分があると思います。
 このような自己中心的な生活スタイルを変えたくない、また何よりも目先の利益が大事という観点からアメリカを見れば、結果的にある程度中庸の政策をとらざろう得ないということです。このような観点から見ればアメリカの科学政策もある程度納得して読むことが出来ように思いますが如何でしょうか。

投稿: Aurora A | 2005/04/12 05:20

 アメリカの実情を考えれば、環境派の主張するような、将来の問題を先取りした先進的政策はとれず、現状に妥協したような「中庸な」政策しかとれない、という、Aurora A さんの観察はあたっていると思います。私は先日ほんのちょっとでしたが、ニューヨーク郊外にある研究所の昔の仲間と話すことがありました。その時に受けた印象では、現政権の科学技術政策にもっとネガティブでした。科学者コミュニティの意見は北東部と南部で違うのかもしれません。
 Stem Cell 研究は、遅れをとれないと、現実的対応がされているのですね。しかし、依然として、新聞などでは、政府の保守的態度が問題にされていますね。もっとも有望な人の胚細胞の研究には制限があるからでしょうか。日本でも卵子提供とか意見対立はありながらも、進んでいるようですが。
 アメリカとは奇妙な国ですね。世界でもっとも先進的なものを生み出すエネルギーに満ちている。若者にはチャンスがあり、既成概念を破るようなものを次々に生み出す。それでいて政治風土は極めて保守的な方向に振れている。信じられないほど古くさい思考の枠組みに捉えられている人が、相当数いる。知の力と軍の力で世界を支配している。いつまでも続くのでしょうね、こんな状況が。

投稿: アク | 2005/04/12 09:45

如何でしょうか。私の所属する生命科学領域とアクエリアンさんの境域では現政権に対する評価が違うのかもしれません。ともあれ、国防予算に大きく予算が割かれているようで私の所属する環境関係の研究所ではSD(Study Director)に落ちるお金が目に見えて減っています。このあたりは現政権が環境問題に極めて無関心という点が反映しているのかもしれません。癌関係の研究所も同様の状況のようで、もうすぐ70人ほどのパーマネントエンプロイの首を切る大鉈が振るわれるという噂が広がっています。生命科学には現政権はあまり積極的ではないようです。
 話題はちょっとずれますが、私は現政権のこのような生命科学に対する関心の薄さがアメリカの生命科学の伸びに引導を渡すことになるのではないかと思っています。以前の政権よりアメリカの生命科学領域ではあまりに評価を重視するあまり(具体的には論文の掲載される雑誌名とその数)、問題が多く発生しています。
 まず、自然科学を志す若者の数が極端に減少しています。その代わりに多くの大学や研究所に入って来ているのが中国系の研究者たちです。はっきりいって生命科学系科学者というのは、「やたら肉体労働が多い割に給与が安い。さらには評価は厳しく不安定」というのが常識になりつつあり、歴史的に見てこのような割の合わない職業へはまず若者の参入が減り、やがて移民によってリプレースされてきました。また評価を重視するあまり人事に対する基準(論文の数と雑誌名)が年々厳しくなっています。この厳しすぎる基準がデータの捏造や盗用といった様々な問題を生む背景となっています。ウソでもいいからNatureに論文を通せばOK、また数年かかるような腰の据わった仕事は誰もやりたがらないという状態を生んでいます。このような以前の政権よりある問題に加えて、現政権が行う予算削減が生命科学のとどめになるのではないかと思っています。そろそろアメリカのポストドクトラルシステムも限界に達して来ているのではないでしょうか。
 さて振り返って日本を見てみましょう。日本の場合は生命科学は今でもお上主導型ですが、1億円を超える大型研究予算をずっと大量に10年近くつぎこんで来た成果がそろそろ出て来ているようです。雑誌ではNature, Cell, Scienceといったトップ雑誌にも結構な頻度で日本人グループの論文が出るようになりましたし、そこまでのレベルまで行かなくとも各領域で鍵となる論文は日本人によって出されたものがかなり出るようになって来ました。日本もアメリカに見習えと大型研究予算が大量に投下されて来た結果、良くなって来たのですがこれがどこまで続くことでしょうか。これがまだ暫く続くようでしたら日本も「自動車は世界一だが、生命科学では3流」と言われた汚名を近い将来に晴らせるようになるかもしれません。しかしアメリカの評価偏重主義(雑誌偏重主義)の悪い部分まで輸入してしまってきているようです。科学系の雑誌にはインパクトファクター(IF)というスコアがあります。IFは各雑誌が年間で引用された回数を掲載論文数で割ることによって計算され、最も高いものでは50点を超え、低いものでは0.1を切ります。このIFによってまるで各雑誌は大学の偏差値のようにランク分けされており、近年の人事の際にはその論文のIF合計点数が成否を分ける鍵になっています。さらには学生の学位論文でさえ、「IFで5以上の雑誌に論文を出さないと学位は出さない」と平気で言う教授さえいます。日本でもアメリカのように捏造データがはびこるとか若い方々の関心が薄くなるような事態を近い将来招くかもしれません。生命領域の科学者の良心と探究心が残っている間に、お役人方がこの問題に気づいて頂けると良いのですが...。

投稿: Aurora A | 2005/04/12 14:44

 長いコメントをありがとうございます。ブログでこれまで見た中で、最長のコメントですね。こんなに長文が書けるとは知りませんでした。
 いろいろな問題を提起しておられますが、サイエンス分野のドクターコースにアメリカの若いブライトな層が行かなくなったのは、かなり前からですね。コンピューターを除いた工学が退潮し、物理が退潮し、生命科学に向かっていたのが、それも退潮し、となると、どうなるのでしょう。たしかに生命科学の実験は体力と時間の勝負みたいなところがあって、若くてすぐに業績をあげたい人には敬遠されるのでしょう。
 研究評価は、研究資金が乏しくなり、おおらかに予算を配れなくなるとともに、強調されるようになりました。予算配分をする行政や企画部門に目利きがいなくなったのも原因です。私がもといた組織で、研究評価制度を導入したのは、じつは私でした。これは、日本では、いったん研究を始めると、終わりがない、という欠点を何とかしようと、期限付きの研究テーマを導入しようとしたことに伴うものでした。今ではどの機関も、評価、評価といっています。ピアレビューに駆り出されて、いい研究者たちの時間がずいぶん奪われているのも問題です。
 インパクトファクター、懐かしい言葉ですね。私の現役の頃、すでに日本にも入っていました。
 これらはすべて、科学研究がマス化し、普通のビジネスみたいになった表れでしょう。
 研究を取り巻く情勢がどうであれ、いい研究テーマには、必ず光が当たるし、いい成果は、数値化を超えて、評価されると信じて、やっていくのがいいと思います。

投稿: アク | 2005/04/12 15:20

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