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2005/04/07

大分で会った友人たち(その1)

 大分であった同期会で、何年ぶりかで出会った友人たちのことを、書き留めておきたい。個人的な思い出話になるが、お許しいただきたい。

 まずはWのことから。彼が今回の同期会の推進役だった。彼なしには、会そのものが行われたかどうか、と思えるほどだ。世話人会を組織し、何度かの打ち合わせを行い、多くの実務を彼自身がやり、一部は地元の世話人に役割分担をさせ、2百数十人出席の記念会と、翌日二つのコースに分かれての親睦バス旅行を実現した。記念会の進行全体を裏で差配し、翌日の親睦バス旅行では、リーダーかつガイド役を務めた。旅行では、細かいところまで配慮が行き届いていて、みな感心したものだ。湧水に行けば、大小さまざまのペットボトルを人数分だけ用意してあり、それをぶら下げるボリ袋まで使用済みのものをきちんとたたんで持参してあった。途中で銘菓を買い求めて、味わわせてくれた。高原レストランでは、二人ひと組となり、ステーキとビーフシチューの両方を賞味できるようにし向けてくれた。こんな心配りの人だったかと、あらためて見直した。

 彼とは、中学、高校を通しての親友だった。そう思っているのは、私だけではないだろう。誰だろうと、彼と少し深くつきあった奴は、みな彼のことを親友と思っているに違いない。高校になると、僕は勉強一筋、彼はスポーツや生徒会活動に力を注ぐ、と少し距離ができた。

 彼は、もともと僕らより2学年上だった。旧制中学に入り、まもなく病気になった。結核である。その頃は、静かに療養生活をするしかない病気だった。2年遅れた。病が癒え、復学しようとしたら、学制が変わっていて、もとの中学校には2年遅れの学年が存在しなくなっていた。仕方なく、新制中学の一期生に入り直した。この年頃の2歳の年齢差は大きい。ひどくませた奴がいると思ったら、それがWだった。出席をとるとき、彼一人だけが、おじさん声で「ウォイ」と返事をした。それを女の子たちがクスクスと笑った。誰それがいつも俺のことを笑ったと、今度も彼はぼやいていた。

 彼中心に男子のグループが自然とでき、何かと集まっていた。ませた連中が多かったが、どういうわけか、私もその一員だった。各クラスの学級委員たちが、集まってグループができたのかもしれない。集まったときにする話は、男女間のことが多かった。性の問題の手ほどき役が、彼だった。ここでも2年年上という差は大きかった。男の子にとって、アレをやっていいかどうか、毎日してもいいか。などが、話題だった。まだそんな段階に達していなかった私にとっては、何のことか分からなかった。誰それが経験した、とか、あの女の子はやったらしい、などと虚実混じりの話が弾んでいた。なんで、この連中は、そんなくだらないことを話題にし、悩んでいるのか、私には不思議だった。「お前は、とにかく、真面目だったよなあ」と、今回も、何人かの友人にいわれたものだ。何度も書くが晩生(おくて)だったのである。いつ声変わりしたか覚えていないが、高校時代もボーイ・ソプラノで、コーラスではテノールのパートを歌っていた。それがバスに変わったのはいつだったか。

 高校に入った直後の一時期が、彼にとって危機だった。高校は、彼がかつて在学した旧制中学である。かつての同級生が、2学年上にいた。中学では年上で、リーダ格だったが、高校では上級生から鼻っ柱を押さえつけられた。今でいう登校拒否になりかけたという。しかし仲間内での彼の存在感が、上級生にも徐々に浸透し理解されて、彼は危機を克服した。

 Wは、ボス的存在で、周辺にはワルもいたが、彼自身は決してワルではなかった。根っからの正義漢、熱血漢だった。どの学校にもいるような嫌みの教師が、何か生徒にいやがらせをやらかしたときに、「俺は許せん。ぶん殴って制裁を加える」といった。実際殴ったかどうか、その結果停学処分を食らったかどうか。そんなことがあったようにも覚えているが、定かではない。

 まともに会社勤めをして、一生を終えるような男ではなかった。いろいろな事業に手を出し、成功したり、失敗したりを繰り返していると聞いていた。その頃はもう私は大分の地には無縁になっていたので、何かの折に噂を聞いたに過ぎない。彼が東京での同期会に顔を出したこともある。何かの機会に、私が大分を訪ねたとき、彼は友人を集めて飲み会をしてくれたり、翌日は自分の車で各地を案内してくれた。またある時期には、彼の姿が仲間の中に見えなくなったこともあった。事業がうまくいかず、苦労していたのだろう。

 今回、久しぶりにあった彼は、若々しく、溌剌としていた。まだ働いているのかと訊くと、月のうち、大分に10日、タイに20日と、棲み分けているという。大分では医者をやっている兄貴の医療事務を手伝い、タイでは水産物の加工輸出を大規模にやっている弟さんの事業を手伝っているのだという。奥さんを病でなくし、子供はいない。自由の身だと、さっぱりしたような、ちょっと寂しそうな表情をした。

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コメント

アクさん

若い頃の友人というのは、本当に良いものですね。いっぺんに時空をこえて若返ってしまうから不思議です。どんなに心が弾んだことでしょう。

でも、アクさんのお人柄なんでしょうね、抑えてお書きになってますね。私だったら、きっともっと大声を張り上げるのではないかと思いましたよ。

私は、いま、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでおります。これについては、もうご存じですでしょうが、おかしな間違いをしてアクさんに笑われましたから。

本をよんで、すぐ夢中になる癖のある私は、大分へ行かれたアクさんの故郷が、広瀬中佐の生まれた所だと知りました。

もっとも、竹田という所だそうですから、近いという程度でしょうが。
でも、ご旅行にも行かれるようでしたから、もしかしたら、竹田もそのうちに出てくるかしら?なんて思ったりしております。

滝廉太郎と広瀬中佐が生まれた大分とは、なんて情のあつい所なんでしょう。
だから、幹事の方も素晴らしいのかもしれません。

投稿: 美千代 | 2005/04/09 09:45

美千代さん、コメントありがとうございました。

エントリに書いた親睦バス旅行で、豊後竹田の岡城址にも行きました。桜はまだでしたが、一本しだれ桜が咲いていました。大分に住んでいた頃、じつは一度も行ったことがなかったのです。戦後の混乱期で、観光など考えもしなかったのでしょう。そこが広瀬中佐の生地とは知りませんでした。滝廉太郎は、大分市の終焉の地付近が公園になり、銅像もあります。奇遇に思ったのは、大分とポルトガルとのつながりでした。大友宗麟ーポルトガル貿易ーフランシスコ・ザビエルー天正少年使節団の一人伊東マンショ、などのつながりは知っていましたが、市内各所にその記念碑があったりして、ポルトガルから帰ったばかりでしたから、この縁を不思議に感じました。西洋医術や西洋料理やさまざまなものが、長崎以前に伝えられた地であるようです。

大分県人は、自分たちのことをあまりよくいいません。県外に出て活躍する人が多いのですが、かつて「大分県人の歩いた後は、草も生えん」と、成功者を批判するのをよく聞いたものです。いずこも同じようなことがあるでしょう。今の有名人は、建築家磯崎新でしょうか。私の3期上の先輩です。

投稿: アク | 2005/04/09 10:26

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