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2005/06/11

Palm の発明者が、脳研究に一石を

 パソコンなどの電子機器に多少なりと通じている人は、Palm といえば、あれだと思い出すことだろう。最初は PalmPilot、 後にPalmの名で、世界中に普及している個人情報管理機器(PDA,Personal Digital Assistant) のことである。ソニーが出しているクリエもそれである。手書き入力と、パソコンとの同期というアイデアが抜群で、パソコンを手帳の形にして持ち歩くことを可能にした。その発明者、Jeff Hawkins は、じつは脳の研究が本職だった。長年研究し、考えてきたことを、最近一般向けの本の形で出版した。Palm の発明者ならではの、創意に富んだアイデアが提案されている。脳科学については、ディレッタントに過ぎない私に、はばかりながらいわせてもらうと、実に画期的な成果だと思える。たくさんの研究が積み重ねられてきながら、核心をついたアイデアが現れなかった脳研究に、ついにブレークスルーが訪れた、といってもいい。彼の提案によって、これからの脳研究が大きく変わるのではないか。

本当は脳の研究をしたかった Jeff Hawkins は、電子工学畑で育ったが、若いころから、脳こそもっともチャレンジ甲斐のあるテーマだと、思い定めていた。インテルに就職して、脳を電子工学的に研究したいと、提案してみたが、拒否された。人工知能隆盛の時代に、それとは違う方向を目指した彼のアイデアは、時期尚早だった。退社した彼は、電子機器の開発で成功し一儲けしたあと、自前で脳研究をやることにした。アイデアマンの彼が製品の形にしたのが、PalmPilot であった。この機器は、それ自体としても、また携帯電話と融合した Treo としても、進化を遂げ、ビジネスとして大成功を勝ち得た。この間も、彼は半分以上の時間と関心を脳研究に注ぎ続けてきたという。そしてついに2002年、脳研究にフルタイムで打ち込むこととし、レッドウッド神経科学研究所を創立し、彼のアイデアに沿って研究を開始した。ビジネスで資金を得たあと、若年からの念願であった古代遺跡の発掘に身を投じ、トロイ遺跡を発見したドイツ人シュリーマンのことを思い出す。

On Intelligence の出版 Hawkins は、専門的な学会発表や専門誌への投稿もしているのだろうが、一般向けに彼のアイデアを啓蒙的に書いた本を出版した。それが『考える脳、考えるコンピューター』(伊藤文英訳、ランダムハウス講談社、2005/3刊)である。翻訳本の悪癖だと思うが、タイトルを変えている。原題は「知能について(On Intelligence)」で、「脳についての新しい理解が、本当に知能を持つ機械の創造を可能にする」との副題が付いている(2004/9 Times Books 刊)。私のHPで紹介したことのあるラマチャンドランの『脳の中の幽霊』に共著者として加わったサイエンスライターのサンドラ・ブライクスリーが、Hawkins の考えを一般読者にわかりやすい読み物にするのに協力している。

脳とコンピューター 脳の仕組みを知るための一つの攻め方として、脳をある種の情報処理システム、すなわちコンピューターとして、考えてみる手法がある。Hawkins もそのように考える。問題は、どのようなコンピューターかである。コンピューターは、近年目を見張るような進歩を遂げた。ある面では人間の脳を超えたとも言える。しかし、人間が普通にしているようなことができない。道で向こうから歩いてくる人が、誰それさんだと、遠いところから気が付く。人を見て、どの角度からでも、一部が物で隠されていても、誰それさんだと分かる。そんな簡単なことが、現存する最高性能のコンピューターでもできない。

人工知能の失敗 コンピューターを使って、人工的に脳を実現しようという試みは、ずっとなされてきた。人工知能がそれである。日本でも、政府と民間が協力して大きなプロジェクトが組まれた。誰も成功しなかった。一部はロボット技術に生かされているのだろうが、人間の脳をコンピューター上に実現するという目標を実現することに関しては、大間違いの取り組みだった。現存タイプのコンピューターと脳では、アーキテクチャーがまるきり違うのである。「チューリングテスト」と呼ばれる基準に誰もが拘りすぎたのが間違いのもとだった、と Hawkins は喝破している。何ができるかという点で、人間と寸分違いのない人工物が実現できればいい、という基準である。パラダイムをいまこそ変換することが必要だ。脳の働きに似せたつもりのニューロコンピューターが、それに代わりそうに見えたが、それも駄目だった。最近のロボット技術についても同じことが言える。見事に動いているようでいて、そのロボットは何をしているのか、全く「理解」なしに、ただそれらしく動いているだけである。

大脳皮質の情報操作に注目する Hawkins は、人の大脳皮質(この本では「新皮質」という専門用語が使われているが、「新」が気になってしまうこの用法はどうもいただけない)がどのように働いているかに注目する。それをよく知り、大胆な仮説を立てることにより、それに似たものを人工的に実現してみようとする。大脳皮質が、階層を組んでいることは、以前から知られている。眼とか耳とかの感覚器官からの入力が、皮質で階層的に処理され、私たちが見たものが机であるとか、サンマの干物であるとか、認識される。その階層処理の段階で、形とか、色とか、細かいパターンが抽出されて、記憶と照合され、それが何であるかが分かる。上の階層に行くほど抽象化が進む。記憶は、上から下まで何層かに分散されてシナプスの状態として記憶されている。

新しい発想、下向きに予測の流れ Hawkins の新しい着想は、この階層を上に向かって進む情報の流れとは逆向きに、上から下へ、予測情報が絶えず流されている、ということだ。何かを見ている。既知の状況なら、こういう風に見たり感じたりするはずですよ、という予測が流され、見たり感じたりするものが、それと照合して同じなら、同じだという情報だけが上向きに伝わる。予測と違うものが感覚に入ってきたら、その情報が階層を昇っていき、どこかで照合されるまで上へとたどっていく。その照合結果が、記憶となって留められる。役割分担がなされ、階層化された大脳皮質は、このようにして、絶えず予測と照合という情報操作がなされ、結果が記憶される。その総体が知能である。様々な問題が詳細に論じられている論旨を簡単にまとめていえば、そういうことである。

学習と記憶にもとづく予測 情報は日常化されたものほど、下位の階層に記憶される。たとえば、車の運転をはじめて習う時には、見たり、聞いたり、ハンドルやブレーキを操作する筋肉の運動状態なりの情報が、最初はずっと上位まで昇っていき、上位から運動中枢へ渡されて、運転操作の要領が記憶(学習)される。学習が進むに従って、当たり前になってきた情報なり操作の記憶は、下位の皮質へと移されていく。そこから発する予測は、感覚器官から入ってくる情報と、下位の層で照合され、運動中枢に渡される。慣れた運転者はほとんど考えもせずに、運転している。下位の層に任されているからである。運転中に予期しない出来事(ボールが目の前に転がってきた、など)が起きると、予測とは違うから、情報は、どんどん上位の階層に上げられていく。ボールが飛び出したら要注意という記憶の存在する層まで達し、今度は子供が飛び出してくるかもしれないという予測が下位に降りていく。視覚と運動中枢に伝えられウォーニング状態が作られる。

知能の説明に成功か 今までになかった「下向きの情報=予測」という斬新な概念を持ち込むことで、階層化・ネットワーク化された大脳皮質による知能の説明は、極めてダイナミックなものとなり、私たちの頭の中で起きていることを、はじめてリアルに説明するのに成功しているように思える。

知能を備えた機械の実現 Hawkins は、大脳皮質について新しいアイデアを持ち込んだだけではなく、そのアイデアをコンピューターとして実現しようとしている。大脳皮質を真似たアーキテクチャーの大規模電子回路を作り、大脳皮質がやっている階層的な認識と、記憶にもとづく予測とほぼ同じことを、それにやらせてみようと計画している。人の脳がやっていることのすべてを真似る必要はない。一部の機能に限って実現していけばいい。成功すれば、人間を超える頭脳を実現できるかもしれない。これについては、興味深い未来像を描いている。技術としてもビジネスとしても、半導体やコンピューターが実現したのと同じくらい将来性があると考えているようだ。

エンジニアのアプローチは予想外にいい線を 脳の研究は医学生物学分野の脳科学者や、心の哲学者たちの専門の分野で、さまざまな研究が積みかさねられてきた。コンピューター分野の研究者も貢献してきた。最近目立つのは人工知能研究の失敗を乗り越えた、新しい世代のエンジニアの活躍である。意外にこの方面から謎が解けてくるのかもしれない。意識とかクオリアなどという難問を何気なく通り抜けようとする、このような工学的アプローチが成功するかもしれない。注目したい。

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