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2005/06/24

大風呂敷、しかし納得できる、須原一秀の近著

 須原一秀の書いた『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組』(新評論、2005/2刊)を読んだ。本のタイトルの誇大なことにまず驚く。「現代の全体をとらえる」とか「一番大きくて簡単」など、よく言うよ、といいたくなる。しかし、読み進めてみると、いちいち納得のいくことばかりである。そうだよな、と読んでいるうちに、ふだん漠然とこうだな、と考えていたことを、的確な表現で、ズバリ言い当ててくれているのに気づく。私だけではなく、ほとんどの人が、本音のところ、こう考えているのではないか、と思える。著者のいうことについて行けない、引っかかる、と考えるとすれば、知識人の悪弊として著者が指摘している「否定主義」(以下参照)にいまだに囚われているからだと考えてみた方がいい。

 著者の主張を、ひとことでいえば、現代の大衆社会を丸ごと受け入れるのがいいんだ、ということである。現代の大衆社会を作っている柱は、民主主義、資本主義、科学技術である。それぞれに問題を抱えているが、それで成り立っている世界を肯定的に捉えていくしかないんじゃないか、ということ。

肯定主義 須原の書いていることで、私にとって一番目新しく思え、彼も一番強調しているように見えたのは「肯定主義」である。それは、彼の言葉を引き写すと

 人間には不純な部分も純粋な部分も、理屈に合う部分も合わない部分も、優しい部分も残忍な部分もあって、そしてそれもいろいろな種類があって、そのどれも否定できないということを認める「見方・感じ方・生き方」です。つまり人間の「両面性」と「多様性」、さらには「非合理性」を丸ごと認めて、それらを解放する立場です。

 現実の人間とそれを取り巻く状況とを丸ごと肯定的に受け止める考え方・生き方であって、目新しいと書いたが、そのような言葉でズバリ言いきっているのが目新しいのであって、ふだん漠然とそう感じ、あれこれ考えるときの目安としているものである。

否定主義 それに対し、「否定主義」とは、人間のどうしようもない部分を受け入れることができず、自分に対しても、他人に対しても、否定的な態度で臨んでしまうことである。人間は結局利己的である、と決めつけたり、「人間本来の正しいあり方」にしたがえば、こうでなければならない、などといいたがるのは、否定主義に囚われいるからである。

 大学教授がセクハラをしたり、学校の先生が生徒にHなことをしたり、非番の警官が犯罪を犯したり、若者が少女を監禁したり殺したり、子供が親を殺したり、親が子を殺したり、麻薬が若い世代を汚染していると報じられたり。あるいは、政治家と業界が癒着してスキャンダルになったり、企業が不祥事を起こしたり。そんな数々の事件を耳にしたたびに、これはとんでもないことだ、本来あってはならないことだ、社会が歪んでいるから、こういうことが起きるのだ。私たちは、こういうことが起きない理想社会を作らなくてはいけない、そのためには、体制変革を図らなくてはいけない。そのように考えることは、否定主義的なものの考え方である。

 事件や犯罪そのものは嘆かわしいことだが、私たちが生きている社会では、ある程度そのような犯罪や事件が起きることを受容なければならない。このしようのない社会の方が、犯罪がほとんど起きないような倫理的に高潔、あるいは強大な警察権力が支配している社会よりまし、と考えるのが「肯定主義」である。そのような犯罪がいいといっているのではない。みんなで相談して、できるだけそのようなことが起きないような対策を立てていき、それでもうまくいかないなら、さらにあらためていくと、漸進的に対応していくのが、肯定主義にたつ民主制である。端的に言えば、「〈犯罪と利己主義のはびこる自由主義的民主主義国家〉が〈清潔な共同体的な理想主義国家〉より良い国家である」と考えるのだ。後者のような国を、レーニンも、毛沢東も、ポルポトも、タリバンも目指した。その理想が人々を不幸にし、彼らの理想は破綻した。

哲学の破綻 ものの見方、考え方、さらには自分の生き方について、できればどこかに拠り所を見いだしたい。それが人間の根元的な欲求だ。それが哲学を生み、宗教を作りだしてきた。しかし哲学(ひいては人文科学)は、自然科学と同程度の、確からしい結論にたどり着けなかった。哲学は何の役にも立たない、単なる学者たちの繰り言に過ぎないと、ほとんどの人が、哲学者自身を含めて、気が付いてしまった。

 宗教は、かくあるべしを明瞭に指示するが、生身の人間には実現できない高潔な理想を説き、現実の人間に不寛容であるため、しばしば抑圧の装置になってしまう(キリスト教原理主義、イスラム原理主義、保守的カトリックなどを見ればそれが分かる)。

 そこまで行かなくても、この世には真理とか正義があって、それを追い求めていきたいと高邁な気持ち(理想主義)に駆られる人がいる。しかしたいてい挫折するか、自己満足で終わってしまう。

 それに対して著者は、そう張り切らずに、ありのままの現実肯定で行こうよ、といっている。そのさい人間が必ずしも高潔ではなく、不純な部分もあり、資本主義社会は身勝手で、猥雑な面を呈するが、それを含めて、受け入れていこうよ、と主張する。そして、この考えに立ったとき、政治体制としては民主主義しかないと結論している。

 もともと哲学者である著者須原の出発点は、あらゆる哲学が成立しないことが分かってしまったという事実である。ということは、人々は、人間と社会に対する首尾一貫した理論としての理想・正義・真理・原理などはあり得ない、ということに気づいたということだ。となれば、多種多様な意見の存在を許し、もろもろの問題については、暫定的な解決策しかない状況をがまん強く耐え抜くしかないことになる。

民主主義しかない さまざまなものの考え方が乱立し、対立していて、決め手がない。となると、その対立を調整する手続きは民主主義というまどろっこしい手続きしかない。さまざまの考え方を一段高い立場に立って、これこそ正しいとする理論システム(哲学)はない。あってはならない。

 といっても、民主主義は、それ自体が正義でも理想でもない。指導者や人々が理想主義や宗教的原理主義に囚われ、結果として人々を不自由、不平等な抑圧社会に落ち込ませてしまわないように、仕方なしに選択されるべき歯止め装置のようなものである。自由とか平等とか国民主権は、達成すべき理想ではなく、最低限確保すべき外枠のようなものである。

 民主主義は衆愚政治に堕する傾向を持っている。それにもかかわらず、それ以外の制度は考えられない。愚かなりとはいえ、多数の人たちの意見による自己調整能力に期待する以外に手はない。民主主義は、常に失敗の可能性を秘めており、じじつ何度も失敗してきている。それでも社会は学習しながら、少しずつましになってきている(本当にそうだろうか、少し疑問は持つが)。

そして資本主義 民主制が、必然的に生み出す腐敗・犯罪・堕落をコントロールできる範囲においておくために必要な仕組みが、資本主義である。個人主義のもとに、あらゆる方向へ自由に解放されている人間の欲望を、資本主義のもと、市場が調整し、中和し、ある程度無害化する機能を持つ。人の生きる意味とか価値は、アプオリには与えられないが、市場というフロンティア(人間活動の先端的な場)にそれぞれが進出して、自分で探し出すしかない。そのフロンティアがある意味「危険な荒野」として開けている(ホリエモン!)のが現代。対比されるべきは、完全平等を理想とする共産社会、高潔を追い求める宗教社会。これは人間を禁欲的否定的領域に閉じこめようと無理をしてしまう。

 以上のような考えは、強者にとって都合の良いものであって、問題はいっぱいあるではないか、という反論はありうる。たしかに、過酷な資本主義の徹底によって、個人は孤立し、自閉し、生活は空洞化し、連帯感は薄れ、倫理観が低下するなどの問題はある。しかし、民主主義+資本主義は必須なのだから、その体制が悪いのだとするのではなく、がまん強くみんなで解決していかなければならない。フロンティアへの挑戦のできない人、挑戦に敗れた人に対するセーフティ・ネット(避難場所)や調整の仕組みをどうするか、ということなどが、これまたみんなで考えて、対策を講じていくべき問題となる。それも、フロンティアの一つである。体制批判のきれいごとをいうのではなく、みんなで、問題をある意味では場当たり的に、しかしねばり強く解決していくしかない。そして問題は限りなく残るのであり、理想社会は決して実現することはないのだけども、この道しかないのである。そう著者は主張しているようだ。 

否定主義に傾きがちな言論に抗して この本で、一番傾聴すべきことは、否定主義的考えの広汎な拡がりと、そのマイナス面を指摘し、おおらかな肯定主義こそ、受け入れるべき思想軸だとしたことだろう。ただ、肯定主義が全面的・最終的に妥当な考え方・生き方かというと、そういっているのではない。あらゆる思想(○○主義)は、どれが全面的に正しいということはなく、ある個別の事例や状況や時代にだけ当てはまるという限定つきである。著者が繰り返し述べているように、人間と社会に関しての真実の理論などありえないのであって、状況に応じて、各人がいろいろと考え、意見を交わして、民主的に事柄を決めていくしかない。

 現代大衆社会の退廃的側面を批判する心ある知識人、あるいは単純な正義感に根ざして、社会や企業や政治の無策を攻める、純朴で饒舌なブロッガーたちは、ほとんどみな、否定主義に汚染されている。そのような否定主義の方向で世の中は決して良くならない。まず、この大衆社会のあり様を肯定的に受け止めた上で、次々に発生する難儀な問題に、個別的、具体的に向き合い、知恵を出し合って、何とか暫定的解答を得て、対応していくことの繰り返ししかない。

 日本人、特にほとんどのジャーナリストや知識人は、大衆社会のマイナス面ばかり見て、悲観主義的な意見を持つ傾向がある。つまり頭の中と、口先は否定主義的。しかし、一般の人は、そしてジャーナリストや知識人も,身体の奥底では、肯定主義になっている。この本の副題「体は自覚なき肯定主義の時代に突入した」はそのことをいっている。頭でっかちに無理なことを考えず、素直に身体のいうとおりにしようよ、と呼びかけているようだ。

 以上、須原の書を読んで、私が感じ取ったことを書いた。じつはもっといろいろなことが話題にされている。古代ギリシャと現代との対比、否定主義的な哲学の系譜、そして屈折した肯定主義を提唱したニーチェなど。著者自身が「はてな」ブログに「拙著に対する反響」を書いている。

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コメント

アクさん

がんばって読みました。

なかなか面白い考え方ですが、私、これって別に新しくもないなと思いながら、でもいつもながら、噛んでふくめるような書きぶり、よく整理してあって分かりやすいと思いました。

アクさんも、この本の著者も、哲学がお好きだから、無理に難しく考えるんですね。
昔から、清濁併せ呑むという言葉もあるのに!
面白かったのは、

>単純な正義感に根ざして、社会や企業や政治の無策を攻める、純朴で饒舌なブロッガーたちは、ほとんどみな、否定主義に汚染されている。

全くその通りです。 水清ければ 魚棲まず!

当たってますね。私も自分を省みて、もっと適当がいいのかな?
反省しました。大衆は愚かだけれど、それでも民主主義ってのは、いいのですね。

投稿: 美千代 | 2005/06/25 11:00

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