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2005/09/17

月島の年寄りたちとの会話

 用事があって月島へいった。もんじゃで賑わう西仲通りは避け、東仲通りから、ひなびた路地を見つけては、少し奥まで入ってみた。住人にとっては、迷惑なちん入者である。いやがられと思いながらも、年々姿を消していく路地の佇まいを懐かしんで歩いた。意外にも、住んでいる人から何度も声をかけられた。いらっしゃい、ちょっと話していきませんか、という具合なのである。そのうち3人の老年男性と、長い立ち話までした。ひとりは、自宅に請じ入れてくれた。みな古くから住んでいる人たちだ。昔の話しを聞いた。記憶に残ったことを、少し書いてみよう。

日がな一日、外に座って人を眺めている 月島は何本かの広い通りで町割を作り、その間に何本かの路地が通っている。広い通りに面した家の戸口に、椅子を置いて座り、通る人を眺めている老人がいた。人なつっこそうにこちらを見て、目で呼んでいるように見えた。近づいてみると、何か話したいらしい。「俺は、歩けない、いや、歩くのが怖いんだ」という。何ヶ月か前、ふらっとして、後ろに倒れ、頭をぶった。それから怖くて、もう歩けなくなった。でもうちの中にいるのはいやだ。外に座って、通りかかる人と言葉を交わすのが楽しみだという。なるほど、15分やそこら、話しているうちに、通り過ぎる近所の知り合いと、ひとことふたこと声を交わす。そんな毎日のようだ。

味噌屋に奉公した一生 73才だという。この土地に生まれ育ち、15の時から50年間、近くの味噌問屋に奉公し、最後は番頭をつとめた。4斗樽って知っているかい、あれを担いでリヤカーに乗せて、納めにいったりした。腰を痛めたのは、長年重い味噌樽を担いだせいで、職業病だ。佃大橋ができたのが、昭和39年。それまで、佃の渡しの渡船にリアカーをのせて、東京さへいった。月島や、佃島には、隅田川を渡って、都心側へいくことを、東京へ行く、という人がいる。渡船にリアカーを乗せるときは、船の係りの人が手伝って渡しに乗っけてくれた。渡しはタダだった。日本橋や四谷あたりまで納めにいったものだ。扱う味噌は全国から取り寄せる。長野のが多かったな。でも赤出し用のは京都から来ていた。四谷は、須賀神社の近くに水産物加工会社があって、そこへ味噌漬け用の味噌を納めにいったし、文化放送の食堂にも納めていた。今は歩けなくなった身を椅子に置きながら、昔のことを思い出しながら、ぽつりぽつり話してくれた。赤黒く日焼けして、がっちりした肢体をしている。ぎょろりとした目をしているが、やさしい。この人が15の時と言えば、戦後すぐだ、その頃からずっと、味噌を売りながら、月島界隈と、対岸の東京の変化を見てきたのだ。

足の不自由な男 また別の人に声をかけられた。足が悪いらしく、杖をつきながらよろよろと歩いている。目が合うといきなり話しかけてきた。「知ってるかい。月島では蚊や蝿はでないんだよ。ごらん、どの家にも網戸がないだろう。もんじゃ焼きを食べに行って、蚊に刺されたなんて聞いたことがないだろう」といきなり話しかけてきた。目の前の路地の角地にある家が、自宅だという。よろよろ歩いていたのは、猫を呼んでいたらしい。野良が住み着いたが、用心深くすぐ逃げるという。ずいぶん古いんでしょうね、と家の方に目をやると、よくぞ聞いてくれたとばかりに、「先日ふすまの敷居を修理したんだ。その下から昭和15年の新聞が出てきた。震災後に立て替えた家だという。親が住んでいた。自分は佃の方に住んでいたが、親が亡くなって、こちらに移ってきて、もう何十年にもなるという。年は65才。見た目より衰えて見える。事故か病気で足を悪くしたのだろう。涼しげな目をしている。水で囲まれている月島に蠅や蚊が出ないのは、月に一度消毒しているからだと、この人はいう。

中学は遠かった そこで、中学の頃の話を始めた。私より若いとはいえ、学制が替わって、新制中学がまだ落ち着かない頃のことだろう。通う学校が何度も替わったらしい。最初、中学は、晴海の方にしかなく、長い道のりを歩いて通った。2年の時は佃。3年の時は晴海運河を相生橋を渡った越中島と、変わった。3年の時は、カマボコ型校舎だった。進駐軍から兵舎を払い下げられたものだった。カマボコ型って知っているかい?と、私をずっと若く見た口ぶり。戦後まもなくは、進駐軍の兵舎としてよく見たものだ。波形鋼板をかまぼこ型に曲げた構造が、屋根と側壁をかねている簡易建築だ。

下町顔の男 3人目。路地から出たところで、戸口を細めにして、立っているこの人と目が合った。渋い顔をニコリと和らげた。典型的な東京下町顔だ。このあたり趣があっていいですね。と話しかけると、そう、どの家も古いよ。おれの家なんか、いつのものか、俺は知らんが、戦前のものだろ。俺は佃の出で、ここは女房の実家なんだ。たぶん震災以来のものなんじゃないのかな。知ってるかい。月島は空襲では焼けなかったんだ。アメリカはちゃんと分かっていて、月島にはなんにもない。爆弾や焼夷弾落としてもなんにもならない、って分かっていたんだな。

まあ上がれと家の中へ ちょっと見せたいものがあるから、あがれという。いや、靴を脱ぐのが面倒だからと玄関口で、と遠慮したら、玄関のタタキの脇のガラス戸を開けて、そこに座れと言う。そこはいきなり居間になっているようだ。4畳半なのかな、真四角の部屋だが、小さく見える。掘り炬燵があるのが、珍しいだろうと、自慢する。小さな炬燵を中心に、4人の座布団、座椅子がおいてある。正面上方には大きな神棚と小さな神棚。別々の神様を祀っているらしい。お札が何枚もその脇にずらりと並んで貼り付けてある。線香をあげる仏壇は、その下にある。仏さんは、仏画である。

海洋関係の趣味 主人の座る背中には、小さなガラス戸付きの書棚があって、本や雑誌の類がぎっしりと詰まり、はみ出して、あちこちに積んである。全部、船関係の本だという。75才。65まで勤めた。船関係が趣味だそうで、なんだかしきりに話し始める。これが宝物だと。海王丸乗組員の正式帽を持ち出してきた。金糸の縫い取りがあって、きれいなものだ。もう一つ、チリ海軍の帆船エスメラルダのキャップも持っている。晴海埠頭にやってきた時に、見に行って手に入れたという。レインボーブリッジの高さの関係で、マストの高い帆船が晴海に着かなくなった、あれは設計ミスだと、江戸っ子らしい息巻き方をした。船関係が趣味といっても、その関係の仕事をしたのではない。近所で働いていたという。

結婚しない子供たち 奥さんと二人暮らしだそうだ。今日は娘が休みで、一緒にどこやらへ行っていて、ひとり留守番だ。子供が二人いる。上は息子さんで、大学院で地質を専攻し、今は兵庫県にある会社で技術者として働いている、75歳というから、お子さんはかなりの歳かと思ったら、昭和36年生まれだというから、私のところの上の子と同じだ。まだ結婚していない。もう一人の娘さんは会社でお局さんをやっていて、結婚する気がない。俺たちには孫がいないんだと、少々さびしげ。私が中学生、小学生の孫持ちだと話すと、うらやましがった。しかし、私のところにも結婚しない息子がいると、近頃の若い世代の結婚しない症候群がひとしきり話題になる。下町の庶民の暮らしでも、かかえている問題は同じようだ。いつまでも話が続きそうだが、こちらには用事がある。おいとました。

話しかけられにくいタイプだが 人には、何でも気やすく話しかけられるタイプと、用事があっても話しかけにくいタイプとがある。連れ合いなどは前者のタイプで、スーパーに行っても、道を歩いていても、誰彼となく声をかけられる。用心しなさいよ、と日頃から言っている。私は、後のほう。難物で通っている。めったに人から声をかけられることはない。こわそうで、近寄りがたかったと、知り合いになってしばらく経ってからいわれる。その私が、同じ日に、こんなに、人から声をかけられて、ひとの話しの聞き役になるなど、珍しいことなのだ。月島の老人たちが人なつこいのか、寂しがりで話し相手を求めているのか、それとも、こちらの毒気が抜けてきて、話しかけやすいタイプに替わりつつあるのか。考えてしまった。

 雑文あるいは随筆と称する種類の文書がありまして、個人の身の上を語ることによって、人々の心の中に、きっと潜んでいるに相違ないあるポイントに触れ、共鳴を求めて、お互いに人間であることを楽しもうとする・・・

お互い人間であることを楽しむ 英文学者福原麟太郎が、イギリスの随筆、特に『エリア随筆』を書いたチャールズ・ラムなどを論じた本に出ている一文だそうだ。司馬遼太郎の「愛蘭土紀行」で見かけた。私が、このエントリのような些細なことを書いたりするのも、はばかりながら、引用文と同じ気持ちだからだ。何故いま、「愛蘭土紀行」などを読んだか、それは、HP本館の「今週のアク」をお読みの方はご存じだろう。

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コメント

感動しました。このような人達にこそに、視点を向けねばならないと思います。農村既得権集団こそが、彼らを搾取している!

投稿: 余丁町散人 | 2005/09/17 20:28

余丁町散人さん、早速お読みいただいて、ありがとうございます。余丁町散人さんが、このところ闘っておれれる方向性は理解しています。まあ、私はきびしく問いただすべきところはそれとしながらも、基本は人類みな兄弟みたいな、いい加減な感じでやっています。
みなさん、余丁町散人さんのブログは、右の欄にありますので、ごらんになってください。

投稿: アク | 2005/09/17 23:38

久しぶりに来てみたら、心暖まる文章に出会い感動いたしました。
東京都中央区は、大きく月島地区、京橋地区、日本橋地区に分かれていますが、それぞれ雰囲気が全く異るところが興味深いです。

投稿: drhasu | 2005/09/23 11:29

蓮沼ドクター、お読みいただいて、コメントありがとうございました。そういえば、ドクターのところは、川を隔てていながらも、お近くですね。でも、同じ中央区でも、ずいぶん違うようです。家の外に人が出ていて、ぶらっと立ち話をする。そんなことが都市部ではほとんどなくなりましたが、月島ではそうではないと感じ、うれしくなって、書いたものでした。

投稿: アク | 2005/09/23 14:56

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