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2005/10/28

内田樹『街場のアメリカ論』

 内田樹の『街場のアメリカ論』を面白く読んだ。これまでに類を見ないアメリカ論だ。内田がアメリカ論?と最初は思ったが、読んでみると、この人らしい意外な視点から、切れ味のいい語り口で、アメリカが論じられており、とても非専門家によるものとは思えない。むしろアメリカを論じる適任者だと思える。

 考えてみると、私も、けっこうアメリカを論じた本や論説文を読んでいる。何のかんのといって、アメリカのことを「気にしている」からである。内田は、ポストモダンの思想家らしく、日本人はアメリカを「欲望している」と表現しているが、私が「気にしている」と書いたことは、その中に含意されているのだろう。

 この『日本はアメリカを欲望してきた』という表現が飛び出す「まえがき」からして、非常に刺激的である。ペリー来航以来、

日本のナショナル・アイデンティティとはこの百五十年間、「アメリカにとって自分は何者であるか?」ということを巡って構築されてきた。その問いにほとんど「取り憑かれて」きたと言ってもよい。

と書いているが、それが言い換えれば、「日本はアメリカを欲望してきた」ということであり、「欲望」という表現の含意を、

日米関係の本質は現実の水準ではなく、欲望の水準で展開している。

との言明で示している。「日本人はどのようにアメリカを欲望しているのか?」を中心的な関心として、この本を書いたともいう。なかなか新鮮である。

アメリカへの欲望を問うてこなかった専門家たち アメリカへの欲望、これまでのアメリカ研究専門家の誰もが、それに囚われていながら、そのことを意識せず、そのことをなぜと問うことをしなかった。内田によってはじめて、この根底的な問いが発せられたわけだ。

親米・反米のねじれ アメリカへの欲望という関係に、不可避の「ねじれ」があることを書いている。親米か反米か、を考えてみるといい。親米をいう保守は、自立を唱えながらそれがアメリカに従属しなければ達成できない「ねじれ」のなかにある。反米を唱えてきた左翼は、アメリカの与えてくれた憲法の護持をいい、日本が軍国的強国になることに反対する意味で、アメリカと利害を共にしている。変なことに「親米は反米」であり、「反米は親米」という関係にある。なかなかうがっている。以上は「まえがき」の本のさわりの部分の紹介である。面白いでしょう?

内田本の読み方 こんな調子で、紹介したり、私見を述べたりすると、いくら書いても書ききれない。面白そうだと思われたら、ご自身でお読みいただきたい。そのさい、僭越ながら私が勧めたい読み方がある。それは内田特有の話法の展開に、快く身を任せることである。ははあ、内田はここで読者に魔術をかけているな、と半ば覚醒しながらも、大部分は話法に載せられてみることだ。それが内田本の読み方である。知らぬうちに、快く眠ることもできるし、新鮮な刺激に目覚めることもできる

専門性を超えて 内田はアメリカの専門家ではない。しかし、そんなことは問題ではない。この人が既存の学問や思想の業界の棲み分けを超えて、仁義なき戦いを挑んでいるところが、とても刺激的なのである。学問の世界には、それぞれ専門性があって、それをお互いに尊重しあいながら、当たり障りのないものいいを交わしている。著者は、そんな仲間内だけに通用する言葉(ジャーゴン)でしゃべり合っている専門業界には批判的で、「時代も場所も状況も違う読者にとって読解可能」か、をみずからに課して、本書を書いたとある(「あとがき」)。

 この分野の専門家でない内田が、異分野に切り込んでいるからこそ、斬新で面白い。ご本人は、自分のブログ(05/9/22『邪悪なアメリカ論』)に「まちがいなく私の書いたなかではいちばん態度の悪い本である」と書いておられ、専門家からは袋叩きにされるか、無視されることだろうと、それを楽しむかのようである。私ら、何の専門でもなく、現代の複雑に絡み合った問題のクモの巣に捉えられて、ウロウロしているものにとっては、この快刀乱麻のごとき内田の分析は、新鮮で示唆に富んでいる。

暴論スレスレのことを言ってみる 私も在職時代、管理の仕事をしていたときに、密かな(じつはおおぴらにもいったことがあるのだが)方法論としてきたことがある。当たり障りのない物事をいっているばかりでは、組織は動かない。暴論スレスレのことを敢えて言ってみる。それは相手を揺さぶる。揺さぶることによって、相手は、ひょっとすると、もっといいあり方へと変わってくれるかもしれない。これは私の物理屋的発想なのであって、しばしばあるシステムは、ポテンシャルカーブの準安定状態(たとえば斜面のちょっとしたくぼみにひっかって、そこに留まっている岩を想像してもらいたい)にありながら、それが本来あるべき位置だと思っている。それをちょっと揺さぶれば、それがきっかけで、もっと望ましい位置へと転移するかもしれない。それが暴論スレスレの揺さぶりをかける手法だ。現在の思想界において内田のやっていることは、暴論どころではないし、スレスレでもない。私のケチな手法の及びも付かない、広い学識と深い洞察に裏付けられた揺さぶりであるが、なんだか私自身のやり口と思い合わせて、痛快に感じたのである。

英米系と大陸系 思想界の系譜には、英米系と、大陸系(フランス、ドイツなど)の色分けがある。使う言葉も語り口も違う。彼らは互いの系譜を維持して、棲み分けている。そういう観点では、フランスのポストモダン思潮を育ちとする内田が、英米系の人たちの専門とする領域に斬り込みをかけたともいえる。この境界超越の殴り込みは、そんな専門の世界にかかわりのない私ら一般読者にとっては刺激的で面白い。もともとアメリカ合衆国が政治形態として実現した「民主主義」を、誰よりも早く、誰よりも深く分析して見せたのは、フランスのトクヴィル(『アメリカにおけるデモクラシーについて』、1835)であった。内田は今回の新著をトクヴィルに献げている。大陸系から見たアメリカ論には、170年前の前例があるのである。

スローフードの政治性 個別にわたると、とても書ききれないが、どんなに斬新な分析をしているか。一つ二つ紹介してみよう。アメリカ論としてふつう取り上げそうもないことをテーマにしているのが面白い。たとえば、マクドナルドやケンタッキーのような食べ物を愛好するアメリカの食を、あれはジャンクフードだと軽蔑する風潮について書いている章がある。対置されるのは最近もてはやされるスロー・フードである。世間の常識は、ジャンクは×、スローは○、だろう。ところが内田はスロー・フードの出自を指摘し、スローフードをもてはやす考え方には、それを担ぐ人たちが気がついていない政治性があり、ファッシズムと同根の部分があるという新説を述べる。スローフード運動が始まった北イタリアの地域主義、伝統主義がムッソリーニのファッシズムを産み、ドイツ固有の伝統食を守ろうという運動は、ユダヤ的都市文化からゲルマン的自然へ、ということで、ヒットラーに至った、として

「自然食」運動は例外なしに反近代、反都市、反資本主義、反市場主義的メンタリティーを惹きつけ、ある種の「大地信仰」に結びつきます。

と書いている。余丁町散人さん(引用したのは一例、くりかえしこの問題を取り上げておられる)が精力的に論を張っておられる、日本の政治主体を、農村から都市へ、という主張と共鳴関係にある考え方だ。

子供嫌いの文化 別の問題として、アメリカの母親は、自分の子供が嫌いなのだ(なぜなら、自己実現の妨げになるから)という、意外にも思える問題点をえぐり出し、そこからアメリカの社会に内在する様々な問題を考察して、フェミニズム・ジェンダー問題にまでおよんでいる複数の章も、これまであまり気づかなかった点であり、興味深い。

間違った統治者でも大丈夫 付け加えておくと、笑ってしまうのは、アメリカの政治システムが「うっかり間違った統治者が選出されても破局的な事態にならないように制度化されている」という指摘である。先日アイルランドの旅の途中、レストランで隣り合わせて話の弾んだアメリカ人夫妻が「あなた方が、ブッシュを欲しいなら、私たち喜んで差し上げたい」とジョークを言った。もちろん丁重にお断り申し上げた。事前にこの本を読んでいたら、「大丈夫ですよ。アメリカのシステムはしっかりしていますから。日本の有名なライターのUchidaが保証しています」と慰めてあげたのだった。

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