« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »

2005/11/30

イニシュマーン島、もう一度

051130Aran
 先日書いたイニシュマーン島の項目の補足である。一つはパートナーのみやが、HP本館のほうに書いている『アイルランド旅日記』で、旅の7日目、『アラン島(イニシュマーン島)』をアップしたので、詳しくはそちらを見ていただきたいこと。もう一つが本エントリのメインだが、映画『アラン (Man of Aran)』(監督:ロバート・J.・フラハティ)を、DVDを入手し、見たことである。

続きを読む "イニシュマーン島、もう一度"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/11/22

55年体制から05年体制へ

 さきほどの解散・総選挙で自民党が大勝したことで、政治の空気が大きく変わった。解散断行という行為にも、郵政改革賛否だけを問うという争点の単純化にも、刺客などの刺激的なメディア戦術にも賛成できなかった。しかし空気が大きく変わったという、予想しなかった(できなかった)結果は受け容れざるをえない。いや、もっと率直に言うと、存外期待の持てる政治世界が、忽然と開けた、という感じがする。

自民党の思いがけない変態 古い自民党体質に嫌気がさし、自民党に代わる政権が誕生しない限り、日本の政治は変わらないと、その方向に動くのをずっと期待していた。自然とそうなりそうだった。小泉首相の出現は、そうなるはずの歴史の流れを一時足踏みさせる、変則的なものに見えた。ところが、さきほどの選挙で、自民党そのものが変わった。自民党政治が衰退し、新しい政治勢力によって実現するはずだった政治体制が、自民党そのものが変態することで突然出現したような気がする。変態(metamorphosis)という言葉を使ったのは、毛虫が蝶に変態するように、という意味である。小泉首相が、そこまで図っていたのかどうかは分からないが、結果としては、旧自民党は新自民党へと大変態を遂げたといえよう。

田中直毅『2005年体制の誕生』 何が変わったのか。田中直毅は、55年体制に代わって、05年体制が誕生した、と端的に言い切っている(『2005年体制の誕生』日経05/11/9刊)。この本の文脈に沿って、私なりに、現時点での政治状況をどう把握するか、整理してみる。眼前に起こったことを理解し、そこから日本の政治の将来を考え直していこう、ということである。

続きを読む "55年体制から05年体制へ"

| | コメント (6) | トラックバック (2)

2005/11/17

イニシュマーン島

051117Donkey

 たまには、写真のほうも見ていただきたいと、フォトギャラリーの最新アルバム『イニシュマーン島』の紹介をしよう。そしてついでに、イニシュマーン島の話も少し書いてみたい。アルバムの解説文と地図にあるが、アイルランドの西、ゴールウェイ湾に浮かぶ離れ小島がアラン諸島である。アランの名は、そこで織られるセーターの名として聞いた方もおられよう。三つ島があって、その真ん中の島がイニシュマーン島である。イニシュ(島)、マーン(中の)である。

続きを読む "イニシュマーン島"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/11/15

医院窓口での署名集め

 2週おきの月曜日は、医院通いの定例日である。痛風の持病をもっている。ホームドクターとして長年お世話になっている近所の内科医院へ、このところ夫婦そろって、出向くのが定例になっている。連れ合いは別の持病もちである。昨日(05/11/14)もいつものように出かけた。窓口に診察券を出すと、受付の女性が、そこにある署名をお願いします、という。署名の趣旨が2,3行ほど書いてある。ちらっと見ると「誰もが安心してよい医療が受けられるように 国民皆保険制度を守る署名」とある。連れ合いは、何のためらいもなく署名したが、私は、この件、よく分かりませんから、と署名しなかった。

続きを読む "医院窓口での署名集め"

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/11/12

五木寛之『神の発見』

 仏教に、自分なりの仕方で帰依しながらも、特定の教派やお寺に依ることなく、もっと普遍的、人間的な言葉で、仏の道を語りつつある五木寛之が、カトリックの異色の司教、森一弘との対談を本にした。『神の発見』というすごいタイトルがついている。異なった宗教の間の対話が、制度化し、硬直化している既存宗教を超えて、新しい何かを生み出してくれるか。期待して読んでみたが、中途半端、不徹底なところで終わっている。しかし、問題を考えるいいヒントは、随所にあるようだ。読んだのを契機に、私の考えを書いてみよう。

続きを読む "五木寛之『神の発見』"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/11/09

宗教音楽を聴くこと

 バッハの教会カンタータのコンサートを聴きに行き、そこには自分の居場所がないことをあらためて思った。宗教音楽を聴くとき、それを音楽として鑑賞するか、信仰心を抱いて内容に共感して聴くか、そのどちらかだろう。どちらもできないとなると、居場所がない。当日のコンサート(バッハ・コレギウム・ジャパンによる日本YWCA百周年記念コンサート@タケミツメモリアル)は、キリスト教団体主催のものだから、聴衆には教会関係の人たちが多かった。一緒に聴きに行った私の仲間もみなそうだった。しかし私は、かつて教会にいたが、今はそれを批判して離れている。信仰深い聴衆にまじって、教会での礼拝のために作曲されたバッハの教会カンタータを聞き続けることは、私には、ある種の苦痛だった。

続きを読む "宗教音楽を聴くこと"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005/11/07

杉本博司『時間の終わり』?

 杉本博司の写真展「時間の終わり」を見た。特に注目していた写真家ではない。正直なところ、その名すら聞いたことがあるような、という程度だった。東京に滞在中、一日だけブランクの日があった。何をしようか、と思っているときに、本屋で立ち読みした雑誌に、浅田彰が、この写真展のことを書いて「写真の終わり」とタイトルを付けていた。中身をちょっと拾い読みしただけだが、写真の終わりとは聞き捨てならない。一つ見に行ってみようという気になった。

続きを読む "杉本博司『時間の終わり』?"

| | コメント (14) | トラックバック (4)

2005/11/06

裂織のポンチョとIsaの本

051107Poncho

一つ前のエントリで話題にしたポンチョの画像です。アイルランドへの旅のある夜、レストランで隣の席に座ったアメリカ人の手織り作家 Isa Vogel が、目をつけて、知り合いになるきっかけになった、みや手製のポンチョです。全体が着物を裂いた布切れ緯糸(よこいと)として織ったものですが、一部に着物の模様をそのまま織り込んでいるのが珍しいところでしょう。画像で上が前、下が後ろです。

 ついでに、親しくなった Isa から送られてきた、彼女の共著の本の表紙をお目にかけましょう。
051107Isa

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/11/02

みやも歩けば、Isaに出会う

【今回はパートナーのみやが、こちらのブログにはじめて登場します。アクは現在久しぶりの東京で諸行事をこなし、忙しく過ごしています。HP本館でアイルランド旅日記を執筆中のみやが、その番外編をこちらに書きます。これからも時には登場して、アクとは違った記事をお目にかけます】

 いろはカルタにも登場する諺に、「犬も歩けば、棒にあたる」というのがある。子どもの頃に遊んだカルタの絵柄を、今でも鮮明に思い出す。現在のペット事情の犬と違って、昔の犬は庭や玄関先で飼われ、野良犬も多かった。そんな犬がときどき綱を解かれ、あるいはうろついて、悪戯をした。「コラーッ。何するんだーッ」と怒鳴られて、棒で叩かれることがあったのだろう。ジッとしていればなんにもないのに、なまじ動くから、棒で叩かれることになる。冒頭の諺のそもそもは、そんなドジな犬の姿を現していた。そのことから、何かをすると思いがけない災難にあうものだ、という譬えになっている。

 ところが、いつの頃からか、この諺はプラスの意味で用いられるようになった。ジッとしていないで何かやれば、思いの外の幸運にぶつかるというのだ。犬だって歩いていれば、いいこと(ひょっとして美味しい骨=棒!)に出会うのだ。犬が棒で叩かれるなんてことは動物虐待にあたるから、最近ではそんなことは滅多には起こらないし・・・!。

 つい先頃、この諺の意味を思いおこす出来事があり、「みやも歩けば・・・」とつくづく感じた。私は戌年。犬大好き人間である。

続きを読む "みやも歩けば、Isaに出会う"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »