« 医院窓口での署名集め | トップページ | 55年体制から05年体制へ »

2005/11/17

イニシュマーン島

051117Donkey

 たまには、写真のほうも見ていただきたいと、フォトギャラリーの最新アルバム『イニシュマーン島』の紹介をしよう。そしてついでに、イニシュマーン島の話も少し書いてみたい。アルバムの解説文と地図にあるが、アイルランドの西、ゴールウェイ湾に浮かぶ離れ小島がアラン諸島である。アランの名は、そこで織られるセーターの名として聞いた方もおられよう。三つ島があって、その真ん中の島がイニシュマーン島である。イニシュ(島)、マーン(中の)である。

 アラン諸島を訪れる場合、ほとんどの人は北の島イニシュモアへ行く。いちばん大きな島である。西の海岸は断崖絶壁になっている。その際(きわ)に、石器時代の遺跡がある。礼拝の場所だったらしい。それを見にみんないく。司馬遼太郎は『愛蘭土紀行』を書いたとき、おそらく数日、車に乗せられて、アイルランドを走り回っただけだが、この島へは行った。船を降り、車に乗って、断崖を見に行く。最後は800メートルを歩く。その先に石垣がある。こう書いてある。

 その石塁の低いあたりを乗りこえると、テニスコート二面ほどの広さのまっ平らな岩盤の広場があり、そのむこうは大断崖となって大西洋に落ちている。
 大断崖まで、腹這いになってすすんだ。
 私は、虚空へ首一つだけ出してみた。下は、吸いこまれそうなほどに高い。
 アラン島というのは、要するにそこを訪ねるだけでも人をおびやかす島だということが、突きだしている首が考えた。ただし両脚は安堵していた。本来、高所恐怖症の木下秀男氏が、目をつぶっておさえてくれていたのである。

 今度の旅でイニシュモア島へ行かず、代わりにイニシュマーン島へ行った一つの理由は、これである。高所恐怖症である私が(連れ合いのみやも)、そんな怖い思いするだけのために、わざわざ行くことはない。別の理由もある。ロンリープラネットの『Ireland』は、この種の旅行ガイド本にしては、珍しく率直な書きぶりで、イニシュモア島は、コマーシャリズムに汚染されているし、他の2島ほど美しくもない、観光には勧められない、と書いているのである。今回の二人きりの旅行では、この案内書を大いに参考にした。ここでも、そのお勧めにしたがったのである。

 もう一つ大きな理由がある。司馬の本にもしばしば登場するJ.M.シング(1871-1909)である。アイルランドの文芸復興をイェーツとともに担った戯曲家だ。彼は、4年間毎年夏から秋にかけて、イニシュマーン島に滞在し、『アラン島』(1907)を書いた。もう1世紀も前の紀行文だが、そこでも彼は、大きな島に近代的なものが押し寄せているのを嫌い、ヨーロッパで最も醇朴な生活をとどめているに違いないと、イニシュマーンを滞在地に選んだと書いている。彼が住んだ家は、そのまま残っているというし、荒涼とした岩場と荒れた海を好んで、眺め続けたという場所、"Synge's Chair" も地図にある。百年も経てば、変わっているには違いないが、その島に行ってみようと出かけたわけである。さて、結果はどうだったか。それは連れ合いのみやが書いている『アイルランド旅日記』(HP本館)に間もなく出てくるので、そちらをごらんいただくことにして、今は、アルバムの写真と解説を見ていただくだけにしよう。

 ついでに、少しシングの文章から引用しておく。私の拙い画像を見る参考にしていただきたい(引用文は上記にリンクしたみすず書房新刊からではなく、シング選集[紀行編]『アラン島ほか』(恒文社、2000)からである。

 アルバムの最初の3枚をごらんになるときに、彼の好んだこの島の風景の描写、

 立ちこめる霧におおわれて、一週間になろうとしている。私は、不思議な孤立感と寂蓼感を、ずっと味わっている。ほとんど毎日、島を歩きまわっているが、どこへ行こうと、目にするものはただ濡れた岩地の広がりと、磯波の打ち寄せる狭い岸辺の侘びしい光景のみ、耳にするのは潮騒の音のみだ。
 石盤状の石灰岩は、霧からしたたる水滴に黒々と濡れている。どちらを向こうと、石垣で狭く区切られた地面を漂い流れる沈鬱なる灰色の霧の広がりだけ、聞こえてくるのは、大小の石を乱雑に積み上げただけの石垣の隙間を、悲鳴をあげるように、あるいは口笛を吹くように吹き抜ける風の、むせび泣きの音のみである。

また、

 今朝のこの島は不思議な静けさにおおわれている。周囲をとりまく空と海までも、教会を思わせる静寂に満たされている。
 乳白色の光の雲に包まれているようなこの静謐の気配を、あたりの風光がさらに深める。風もなく、くっきりと照りつける陽射しもない。アランモア(イニシュモア島のこと)はあたかも鏡の上に休らっているかに見え、コネマラの丘陵は、間に広い湾が広がっていることに戸惑いをおぽえるほど、間近に見える。その海も、今朝は、湖がときどき見せるあの独特の静かな表情を浮かべている。
 草木もほとんど生えず、動物の姿も見えないこの岩地では、一年を通じて風景はあまり変わることがない。今も、六月だというのに、この静けさは秋を思わせる。思わずかさこそと音をたてる枯れ葉を期 待して、耳をすませてしまうほどだ。

 5枚目の『石積みの砦』は、シングの家に近く、よく出かけたらしい。その姿は、シングの見たものと変わっていないだろう。こんなことが書いてある。

 この島のドゥーン、つまり異教時代の砦のうち、最大のものは、私の宿から石を投げれば届くぼどの距離にある。私はよく、卵少々か塩漬け豚肉の昼食のあと、のんびりとそこまで登っていっては、石の上に座り、眠気を誘われるほどのどかな気分にひたりながら、煙草を楽しむ。(略)
 幸い、このところ天候に恵まれているので、陽射しの中でのんびりと時を過すことができる。砦の石壁の上に立つと、ほとんど三六〇度海に囲まれている感じで、海原の北と南の涯には、はるかに対岸の山脈(やまなみ)が望まれる。間近に目を転じて下の方を見下ろすと、東側はこの島唯一の集落だ。人家の周辺を動きまわっている赤い服を着た人影が見える。時折、彼女たちの会話や島の古い民謡の断片も、風に乗ってとぎれとぎれに上まで聞こえてくる。

 この島にいたのは、わずか半日。島の人と会って話をしたが、現在の彼らの生活ぶりをうかがい知ることはとうてい無理だった。船外機をつけているとはいえ、彼らは相変わらず、キャンバスを張ったカラック(布舟、7枚目の画像『漁舟』にある)を操って、漁にも出ているのを見た(残念ながら、いい写真は撮れなかった)。彼らの生活は、シングが次のように書いているのと、あまり変わりはないのではないか。

 島の人々の知力や魅力の多くは、彼らの暮らしにいかなる分業も存在していないことと、その結果、それぞれの個人の能力が幅広く発達していることに関係しているようだ。こうした技術や知識は、必然的に、人々の心に生き生きとした活力を生みだす。男たちは二ヵ国語〔英語とゲール語〕を話せるし、優秀な漁師である。布舟(カラック)を驚くべき豪胆さと腕前でもって操ることもできる。単純な畑仕事もすれば、海草のケルブ(沃素を含む灰、かつてはこの島の特産品だった)も焼く。パンブーティ〔素朴な履物の一種〕も作り、漁網を繕い、家を建て、屋根を葺き、揺リ籠も棺も、自分で作る。しかも仕事が季節によって異なるので、ずっと同じ職業に就いている人問につきまとう倦怠を、おぽえることもない。海上における生命の危険は、人々に原始の狩人のような敏捷さを与える。また、カラックに乗って過す長い夜は、芸術に生きる人々に特有なものと思われるある種の感受性をさえ、彼らに授けている。

 なお、私のアルバムは、ニッコールクラブ東京デジタル支部会員によるリレー連載ギャラリーの一部である。会員が交替で、週一のペースで、自分の作品を紹介している。ほかの方のアルバムも、お暇なおりにごらんいただきたい。

 また、アラン島については、優れたドキュメンタリー映画『アラン』がある。DVDを注文したところである。

|

« 医院窓口での署名集め | トップページ | 55年体制から05年体制へ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/36654/7163526

この記事へのトラックバック一覧です: イニシュマーン島:

« 医院窓口での署名集め | トップページ | 55年体制から05年体制へ »