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2005/11/07

杉本博司『時間の終わり』?

 杉本博司の写真展「時間の終わり」を見た。特に注目していた写真家ではない。正直なところ、その名すら聞いたことがあるような、という程度だった。東京に滞在中、一日だけブランクの日があった。何をしようか、と思っているときに、本屋で立ち読みした雑誌に、浅田彰が、この写真展のことを書いて「写真の終わり」とタイトルを付けていた。中身をちょっと拾い読みしただけだが、写真の終わりとは聞き捨てならない。一つ見に行ってみようという気になった。

大規模に驚く 展覧会場を半分見たあたりで、呆れてしまった。とにかく会場はだだっ広い。あの六本木ヒルズの53階を全部使った森美術館である。会場は広いし、天井は高い。そこに巨大といっていい写真がゆとりをもって展示されている。写真展といえば、チマチマしたサイズのものが多い。篠山紀信が東京の街を撮った写真展は天井から床までのプリントがびっしりと展示されていたのを記憶しているが、概してせいぜい全紙大(新聞を広げた大きさ)である。この写真展ときたら、各作品が小さなものでも、1-2メートル角はあろうか。壁全面を占める「ヘンリー八世」像ときたら、縦横4、5メートルはあるだろう。一部の作品はゼラチン透明膜にプリントされたものが、背面から照明されている、という贅沢なディスプレイだ。

「海景」と題するシリーズの展示室は特に広く、テニスぐらいできそうな広さの会場の片側には、檜の白木を使った能舞台がこしらえてある。それも舞台から袖(というのだろうか)がずっと伸びた長いものだ。その舞台を前景に展示されている「海景」の写真は、ほとんど同工異曲。すべての正方形画面は、正確に上と下に2等分されている。上にはあまりぱっとしない空が写っている。下には海が写っている。天気がよかったり、悪くて霞んでいたりするが、ほとんど同じである。このシリーズを撮るために、杉本は世界中の海に出かけたという。一枚一枚にどこそこの海と書いてある。でも、なんの個性もない。とにかく海面と曇った空、それを二分する水平線。それだけしか写っていないのである。なんだこれ、というのが正直な感想だ。

「劇場」シリーズも、なんだこれ、である。映画館の内部や野外映画場が写っている。それだけである。よく見ると、映画が上映される映写幕の部分が白く光っている。それに照らし出されて、古めかしいアールデコ風に装飾された映画館内部の正面や、観客席が光っている。無人である。説明書きによると、映画を一本上映中、シャッターを開きっぱなしにして撮った写真だという。

瞬間への反逆? このあたりから、この写真家は、ありきたりの写真なるものに逆らっているのだな、と察しがついてきた。瞬間を切り取るのが写真だとする逆をいって、2時間も映画のスクリーンを露出して、何も写っていないじゃないと、主張したいらしい。あるいはスクリーンに映し出される人間模様のストーリー、そんなものはしょせん虚像に過ぎないと、あっかんべーしているようにみえる。杉本は、アメリカ中のあちこちの映画館(あるいはドライブインシアター)へ出かけて、飽かずこのシリーズをとり続けたらしい。一枚でも十分なのに、20枚くらいあるだろうか。ごくろうさま。一つずつじっくり見る気にはなれない。

迫真の「ポートレート」 先ほどヘンリー8世の写真といった。もちろんそんな写真、撮れるはずがない。それが「ポートレート」シリーズだ。ロンドンにあるマダム・タッソーの蝋人形館にあるヘンリー8世を写したものである。彼の6人の妻の、同じように蝋人形を写した写真に囲まれている。なんという趣味だろう。彼が次々に妻とし、そのために前妻を断頭台にかけることもあった、その妻たちを、一堂に侍らせるとは。それにしても、これらの写真に写された蝋人形は、まるで生きているように見える。見たことはないが蝋人形はおろか、生身の人間以上に。まとっている衣服や装身具の類の細部まで微細に写しとられている。ライティング、撮影のテクニックには感心する。それにしても、この人は生きている人物、現実の街や風景は撮らないらしい。世にある写真なるものに徹底的に逆らっているのだ。これはほかのシリーズにもいえる。

反逆から何かが生まれるか アートにはいろいろな分野があるが、どこにも変わり者、ひねくれ者がいて、オーソドックスに逆らってみせる。オーソドックスをひっくり返して、新奇なものを創ってみせる。そこから新しい芸術運動が生まれることもある。写真について、それをやって見せているのが、杉本博司なのだろう。しかし、私は感心しなかった。ここから新しい何かが生まれてくるという気がしない。何の刺激も受けずに、冷めた気分で、タワーをおりた。

浅田彰の批評 それでも、釈然とせずに、浅田彰の『写真の終わり』(文学界05年11月号)を読んでみた。一読してご大層な論説である。アートは、ある種トータルな感覚に訴えるものであり、言葉を超えている。それを言葉にすると、どうしても無理がある。それを承知の上でも、私がなんだこれと感じた写真に、深遠な意味づけを与え、あろうことか、この杉本をもって、写真は終わりだと宣告しているのである。たとえばこうである。

(この展覧会は)世界的にも最高水準の展覧会だと言ってよい。それは、写真史が終焉を迎えたという出来事(出来事が到来するのをやめ、写真がそれを記録するのをやめたという出来事)を告知するものとして、世界的な出来事(出来事の終焉という出来事)となるだろう。(・・・)杉本博司展は写真というジャンルを超えて広い領域で語られねばならぬ決定的な(反)出来事なのである。


終焉を告げる杉本と 「出来事が到来するのをやめる」なんて、「歴史の終わり」説を信じない私にとっては、「ふーん」というしかない。浅田は、展覧会を細部にわたって解説・評論したあと、最後にこう書いている。

 写真という媒体は事実上の終焉を迎えようとしている(むろんマージナルな形では生き延びるだろうけれど)。今さらそれを嘆いてみても始まるまい。ただ、写真史がまさにこの時点において杉本博司という最高の幕引き役を持ち得た、その出来すざた偶然に感嘆するばかりである。


疑問の提示だと、杉本自身が 同じ雑誌の読書欄に、杉本博司の書いたエッセイ集『苔のむすまで』の著者インタビューが掲載されており、杉本の生の声を聞くことができる。たとえばこうだ。

 私はアートの重要な役割のひとつは世界に対する疑問の提示だと考えているからです。作者が自ら答えを提示してしまう種類の作品は、アートとしては低次元だと思います。


信憑性を否定したいのだ これはよく分かる。彼は逆らっているのではなく、疑問を投げかけているのだ。そう思って、この写真展を見ればいいのだ。しかし彼の疑問点はどこにあるかというと、

(写真の)複写性の高さや迫真性に対する驚嘆があまりに大きかったので、それだけで今まで撮られてきてしまった。ですが、私は写真のもつ『信憑性』というものを、本当のところでは信用していません。写真は虚像を実像化したものに過ぎない。私はそのことを逆に利用して、自分の思考や妄想をまるで実在するかのように写してきました。


として、こう書いている。

銀鉛写真がその誕生以来百数十年も保持してきた信憑性という神話は、写像の操作可能性を飛躍的に高めたデジタル写真によって既に崩されてきでいる。そのなかで、私は自分を銀鉛写真の終焉に位置付けています。

写真は終わりなのか 写「真」という言葉は、欧米言語にはなく、日本人は、その「真」にこだわりすぎてしまう。報道写真ならともかく、アートとしての写真に信憑性を求めるなど、誰もしては来なかった。だからそれを否定してみたところで、それが写真の幕引きなどとは思えない。彼の写真に一定の意義を認めてもいいが、浅田にしても、本人にしても、言葉が踊りすぎている。出来事はこれからも生起するだろう。アートとしての写真に新境地を開くのはなかなか難しいのだろうが、終わりを宣言することはあるまい。

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コメント

奇遇ですね、私もちょうど今朝ラジオで杉本博司のインタビューを聞いたばかりです。よくしゃべる。なんでも小さいときからオタクで、一日中部屋に引きこもって頭の中でアイディアを考えるのが好きだったらしいです。1000に一つぐらい使えるアイディアがあるとのことでした。

投稿: 余丁町散人 | 2005/11/07 18:31

余丁町散人さん、ラジオに登場しましたか。森美術館は、あれこれ手を回して、この展覧会のショーアップに努力しているようです。ブルータスという雑誌も特集を組んだそうで、読んでみようと思ったのですが、入手できませんでした。この人(1948年生まれ)は立教大の経済学部を出たあと、アメリカに渡り、あちらで日本の骨董を商ったりしながら、特異な写真を撮り続け、名の出た人のようです。オタクといわれると、分かりますね。たとえば、何年もかけて交渉して、三十三間堂の千何体かの仏像の並んだ写真を、いっさいの邪魔もの(燈火とか)を除いてもらい、朝の自然光で撮ったそうです。それをつないで、横20メートルほどのプリントを展示していました。そういう他の人が思いもよらないことをやってみるというあたりに真骨頂があるのでしょう。変わった写真だな、程度でやり過ごせればいいのですが、写真の終わりなどといわれると、いささかものをいいたくなります。

投稿: アク | 2005/11/07 19:37

今晩は、ご無沙汰しています。大好きなショスタコヴィッチの第5番(ヤンスンス指揮/バイエルン放送交響楽団)を聞くために今月上京のおり、「杉本博司時間の終わり」展を見る予定です。アクエリアンさんの書き込み大変参考になりました。

浅田彰の文章は小生も読みました。「写真史がまさにこの時点において杉本博司という最高の幕引き役を持ちえた」という浅田の大仰な言葉に驚きました。見てから感想を書きたいと思っていますが、自分の趣味に合うかどうか。

また、「時代の顔」を出版し多くの肖像写真を残してナチスににらまれたドイツのアウグスト・ザンダーの展覧会(東京国立近代美術館)に出かけたい思っています。

あっそれから、今日8日のNHKの番組「発見、ふるさとの宝」の番組に2分間だけわが郷土の「鹿嶋様」が登場。(PM11:15~45)私も顔を出す予定です。

投稿: | 2005/11/08 21:28

こんばんは。
TBありがとうございました。

詳細なレポートに圧倒されました!
素晴らしいです。
画像なくても雰囲気十分伝わってきます。

フェルメールの「音楽のレッスン」の写真?を
もう一度観たいと思っています。

投稿: Tak | 2005/11/08 22:04

伸さん、見ましたよ。NHKの番組。おひさしぶりにお目にかかった気がしました。すごいですね。あの「鹿嶋様」。水戸での展示は頭部だけだったので、大きさが分からなかったのですが、番組で詳しく紹介され、その全貌を知りました。世代交代が進む中で、この伝統を守り続けるため、地域のみなさんをまとめる町内会長さんは、さぞご苦労のことと察しました。

杉本博司の写真展、これからごらんになる伸さんには、余計な予断を与えてしまいました。ご自分の目で見ての感想を聞かせてください。

投稿: アク | 2005/11/09 10:31

Tak さん、コメントありがとうございました。いろいろなとらえ方があり、互いに参照し合えるのがブログのいいところですね。

この人の写真のキーワードは、時間の終わり、というより、ほかの誰もが撮ろうと考えもしなかった「想定外の写真」ということなのかな、と思います。それを余丁町散人さんのコメントにありますようにオタクっぽく、とことんやってみせてくれた、ということでしょう。

コメントにありましたフェルメールの「音楽のレッスン」もそういうことでしょう。フェルメールがカメラ・オブスキューラを使って絵を描いたことはよく知られていることです。そのことを原画の細部にまでこだわって再現し(その努力には脱帽です)、写真にして見せた、ということですが、そんなことをやってみようと思う人はいないでしょう(研究者はたくさんいて、詳しい分析もされ、本も出版されていますが)。ただ、それでどうなの?という気がわたしにはします。いっそあそこにカメラ・オブスキューラの部屋を用意し、あの写真を倒立像で見せてくれた方が、臨場感があったかと思いました。

投稿: アク | 2005/11/09 11:01

 アクエリアンさん。お久しぶりです。先ほど、ニューヨークのサザビーズで働いている(それがどうしたことか)という人の友人から連絡があり、杉本博司の写真を持っている人を知りませんか?と問い合わせがあり、頭にきていたところでした。私にとって一番嫌いで許せないと思うタイプの写真家が杉本博司なので・・・。言いたいことはいっぱいありますけど、アクさんが、ここに書いてくれているので、もういいかなあと思います。杉本博司氏も浅田彰氏も同じタイプの人で、私が「風の旅人」でやりたいこととまったく逆向きです。一言で言うなら、表層的。モノゴトの背後の「何ものか」へ至ろうとする意識が弱い。大仰で端数を切り捨てている。すなわち、機微が読めない。モノゴトを見ている「私」の豊かさが、表現のなかにまったく感じられない。観念の中で遊ぶだけで、身体で世界を掌握できていない。掌握するという感覚が身体的にわかっていないから、そういう言い方をされても何を言われているかわからない。
 それにしても、タイアップもあるのでしょうが、メディアがこぞって「国際的な・・」と評し、この写真家を取り上げているのは、本当に情けない。そうして、作品の値段が吊り上げられていく、アメリカの美術家やメディア界を牛耳る勢力に仕掛けられて、おそらく、最終的に高い買い物をするのは、日本人でしょう。本当に情けない。
 国際的云々なんて真っ赤なウソ。欧米のアートを商売にしている人々のなかで、いろいろと仕掛けられて、名声が増幅しているだけ。
 一般の人々が知っているわけではなく、知っているとすれば、インテリと思われたい人が、その手の情報を一生懸命に収集しているだけ。 
 いろいろ仕掛けられている大仰な言葉とか、作品の巨大さとか、光の演出とかを無視して、写真そのものとだけ向き合って、本当に価値あるものかどうか、見抜くことが大事なのに・・・。
 

投稿: 風の旅人 佐伯剛 | 2005/12/02 15:31

『風の旅人』編集人の佐伯剛さんからコメントをいただいて、恐縮です。表層的と喝破されたあと書かれていることは、私の言葉では表現できなかった、そのことそのものです。よくぞいってくれました。その後「アサヒカメラ」でも、大竹昭子が、インタビューアーとして、提灯持ちをしていました。この人はもう少しまともな人と思っていたのですが、やらされたのでしょうね。
 ところで『風の旅人』このところの二つの号で、ある程度方向を変えられたようで、注目しています。佐伯さんの眼力で取り上げ、掲載される写真を見ていると、写真の終わりなど、とんでもない、まだまだ出来事は起き続け、写真は問いかけ続けていると思えます。

投稿: アク | 2005/12/05 16:40

 なかなかコメント書けないのは、どうしたことでしょうか?
 ほんと、杉本博司とか浅田彰とか、何言ってやがる!って感じです。
 違うんですよ。杉本さんのあのホッキョクグマの写真にしても、剥製ですよ。あれが実物だっって、つまらない写真だ。それを巨大にプリントしたり、背後から光を当てたりして演出して、ほんとうにくだらない。浅田彰って、ほんとうに何もわかっていない。
 でもね。今日、一緒に飲んだ野町さんにしても本橋さんにしても冷静すぎるんですよ。杉本さんとは別に域で成功してしまったいる余裕からなのかもしれませんが。でも私は、根本的な部分で、杉本博司は違うんですよ!と言い続けますよ。あのやり方が、美術界にかぎらず、いろいろな部分で、今日の悪弊を生みだしていると私は思っています。そうしたものに対して、こんちきしょうという気持があって、それが「風の旅人」の制作につながっています。

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2005/12/06 00:48

この記事に、2度にわたってコメントを寄せられた佐伯剛さん(雑誌『風の旅人』編集者)が、杉本博司の写真について、あらためてご自分のブログで書いておられます(『[念]言うに言われぬ清々しさ』)。ごらんになってください。

投稿: アク | 2005/12/17 11:02

 アクエリアンさん、浅田彰さんは、どうやら杉本博司氏の写真を、辛辣に手厳しく批判するつもりで、文学界に文章を書かれたみたいですよ。
 詳しくは、私のブログに、浅田さん自身が書き込まれています。

http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20051216/1134722357#c

投稿: 風の旅人 佐伯剛 | 2005/12/19 01:24

 はじめまして。興味深く読ませていただきました。
 さて、杉本氏の作品は以前から興味がありましたが、
森美術館という場所柄と、会期前に「ブルータス」で大々的な特集を組むなどのメディア戦略?等がちょっと鼻につき、実際に会場に出向くことに躊躇していたものです。結局年明けに二度見にいきましたが、自分自身では満足のいく展覧会でした。
 「ポートレート」に関しては、貴殿とは逆に、「still life(
静物画)」の巧妙なパロディのように感じました。また、衣装・装身具をクリアに写し撮ると同時に時代考証による背景の暗さへの拘りは、アナール派の歴史観とどこか繋がるような…。
 「劇場」はプロセスの重視という点で、河原温さんの"Today Series" と同質のものを強く受けました。
 
 

投稿: 通りすがりの木綿豆腐 | 2006/01/13 13:26

通りすがりの木綿豆腐さん、コメントありがとうございました。アート作品の評価は、各人各様ですね。佐伯剛さんのブログでの杉本博司展についてのエントリとそれへのコメント(一つ上のコメントにURLあり)はご覧になったのでしょうね。

投稿: アク | 2006/01/13 15:22

作家の発言は真に受けないようにしています。欧米のアート界でestablishedされた作家(さらに日本人というハンディを持つものならなおさらですが…)なら戦略としての物言いをしているはずですから。
今回の杉本さんの回顧展は、どこか「カフカの笑い」に通ずるユーモアを感じました。

投稿: 通りすがりの木綿豆腐 | 2006/01/15 20:25

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