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2005/11/09

宗教音楽を聴くこと

 バッハの教会カンタータのコンサートを聴きに行き、そこには自分の居場所がないことをあらためて思った。宗教音楽を聴くとき、それを音楽として鑑賞するか、信仰心を抱いて内容に共感して聴くか、そのどちらかだろう。どちらもできないとなると、居場所がない。当日のコンサート(バッハ・コレギウム・ジャパンによる日本YWCA百周年記念コンサート@タケミツメモリアル)は、キリスト教団体主催のものだから、聴衆には教会関係の人たちが多かった。一緒に聴きに行った私の仲間もみなそうだった。しかし私は、かつて教会にいたが、今はそれを批判して離れている。信仰深い聴衆にまじって、教会での礼拝のために作曲されたバッハの教会カンタータを聞き続けることは、私には、ある種の苦痛だった。

宗教音楽の聴き方としては、豊かな音楽表現を通して、信じるものがあらためて神の実在を感じ、信仰をいっそう深めるというのが、本来の姿だろう。しかしキリスト教に特にかかわりが無くとも、宗教音楽は十分楽しめる。歌詞はぴんと来なくとも、すくなくとも耳に心地よく響く。さらには何かそこはかとなく崇高な存在を感じ、それを賛美する荘厳なメロディーに共感することができる。静かで、ハーモニーが心地よい。高みへと昇っていく音の連鎖が、気持を高ぶらせてくれる。合唱曲の最後の荘重に長く響き続ける和音は、この世ならぬものを指し示しているように感じられる。そんな聴き方もあるだろう。

感情表現過多のアリア だが、私には、もはやそれができない。音楽としてだけ鑑賞する境地になれたら、どんなにかいいだろう。しかし、内容が理解でき、いまはその理解を離れているものにとっては、言葉にこだわりがあって、音楽すら楽しめなかい。演目の中には、音楽として心に届くものもあった。公的立場の偉い人の就任祝いのために作曲されたカンタータは、トランペットの祝祭的な響きが、宗教的な内容を超えて、気持ちよく響いた。しかし、大部分は、キリストの受難、それによる救いの恩恵、キリストへの信従、神の栄光の賛美などを歌うものだ。コーラスの唱うコラールは、テンポも速く、繰り返しもなく、あっさりと終わるのだが、独唱者のアリアとなると、綿々と、感情を込めて、悲しみと慰めを歌い上げる。その内容を知りつつも理解できないとなると、あまりにも濃密な感情表現についていけない。

バッハの教会音楽 かつてはこんなことはなかった。私の音楽への趣向は、教会の中で育てられた。宗教音楽こそが聴くべきものであり、世俗的な音楽を避ける、という時期さえあった。若い頃のことだ。ヘンデルのメサイアも、バッハのマタイ受難曲も、愛聴した。LPレコードの時代に、大金をはたいて、カール・リヒター指揮のマタイを手に入れて、楽譜と照らしながら、聴いたものだ。何度か生演奏も聴いた。記憶が薄れているが、完全版としては日本では初演というのを、東京文化会館で聴いた覚えがある。バッハの音楽は、人間的な感情表現を抑制し、典雅に構成的な音の流れに徹しているように思えた。

宗教音楽と私 70年前後、自覚的に教会を離れた。それ以来、宗教音楽が、音楽として美しいものであるとしても、しょせん空しいものに聞こえるようになった。もっといえば、リアリティのよく分からないものを、音楽の感性に訴えて補完しているように思われた(信仰深い友人たち、ごめんなさい)。数年前、久しぶりにマタイをコンサートで聴いたときに、こちらの受け止め方の変化に、我ながら呆れた。耐え難かった。演奏が終わるのが待ち遠しかった。とにかく長い。「血しおしたたる」のコラールは耳になじんで心を打ったが、綿々と歌い上げられるアリアには、正直食傷した。耳になじんだメロディーなのに、もう心が受け止めようとしなかった。

宗教音楽はどのように聴かれているのだろう バッハやヘンデルの教会音楽を愛好する音楽ファンは日本にも多い。多くの作曲家が手がけているレクイエムなどのミサ曲は、よく演奏される。CDも売れている。しかし、たいていは宗教的な内容には無関心のまま、音楽として聴かれているのだろう。音楽そのものの力が、宗教的なテーマを契機としながらも、それを超えて発現し、それが人々の心を捉えているのだろう。モーツアルトの未完のレクイエムなどは、彼の不幸な晩年と結びつけられて愛聴されているようだ。迫り来る死を乗り越えたいという悲痛な叫びが、崇高な音楽となって、聞くものの心を打つ。宗教的な装いを超えて、普遍の境地に達しているようだ。

 これからも、中途半端な居場所にいて、受け止め方を悩みながら、宗教音楽を聴き続けるのだろうか。そんなことをつくづく感じるコンサートだった。

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コメント

こんばんは。
バブル景気の頃、各地のコンサートホールに、パイプオルガンを取り付けるのが流行り、かくして、こちらの田舎ホールにまで、取り付けられ、専属のオルガニストまで雇っています。
教会と西欧音楽の歴史が密接な物である事は分りますが、日本の田舎のそこここに、魂のないむなしい響きが鳴り渡りるのは、どうにも理解に苦しみます。

芸術や、宗教は、その民族の歩んできた歴史であり、魂のはずと思う秋です。

投稿: U-1 | 2005/11/09 22:54

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