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2005/11/12

五木寛之『神の発見』

 仏教に、自分なりの仕方で帰依しながらも、特定の教派やお寺に依ることなく、もっと普遍的、人間的な言葉で、仏の道を語りつつある五木寛之が、カトリックの異色の司教、森一弘との対談を本にした。『神の発見』というすごいタイトルがついている。異なった宗教の間の対話が、制度化し、硬直化している既存宗教を超えて、新しい何かを生み出してくれるか。期待して読んでみたが、中途半端、不徹底なところで終わっている。しかし、問題を考えるいいヒントは、随所にあるようだ。読んだのを契機に、私の考えを書いてみよう。

人生論の五木には違和感 優れた小説やエッセイの書き手が、歳とともに、人間の生き方を、直接的な言葉で、教訓的に語るようになるのは、好きでない。かつては、青春の愛と孤独、希望や高揚感とその一方の絶望を、熱く、悲しい物語として書いていた五木が、最近では「蓮如」を書き、さらには「大河の一滴」とか「他力」などを書いているのは知っていた。さらには「生きるヒント」とか「人生の目的」など、タイトルからしていただけない本を書くようになった。そのての本を求めている読者層があり、けっこう売れるのだろう。本屋で横積みされている。しかし今の五木は、私が昔、愛読した五木寛之のイメージからかけ離れてしまった。人生ものの近刊は、手に取ってみるはおろか、見たくもない。「青年は荒野をめざす」の五木も、老いて、こうも抹香臭くなっていくのか、と嘆いた。

五木の宗教観への興味 五木寛之は、仏教者を自認している。とくに、親鸞と蓮如の浄土真宗の教えに帰依している。一方聖書もよく読んでいるらしい。聖書と親鸞。それぞれに表現は違うが、聖書に書いてあることと、親鸞のいっていることが重なることを感じている。 そんな問題意識を持って、カトリックの司教森一弘に対談を申し入れたらしい。その結果がこの本『神の発見』である。人生論は嫌いだが、この本には興味を持った。

相互排斥する宗教 世の中にもろもろの宗教がある。宗教は、信じるものに、究極の拠りどころを与えようとする。一神教の場合、唯一神を信奉するのだから、その神は絶対である。他の神を受け容れない。宗教は並び立たず、互いに排斥しあう。そのことが歴史上、どんなにか人間に不幸をもたらしてきたことか。現在もその事態は変わっていない。そのことをクールに見るだけで、宗教というものが、何か間違っている、と思わざるをえない。

しかし、宗教は必要? しかし一方、人々は依りどころを求める。人間の世界は不安と不条理に満ちている。人間は弱い。何かにすがらずには生きていけない。人間は自分の生に意味を求める。何のためにこの世界があり、自分がこうして生きているのか。その究極の意味づけを求めて、宗教に至る。

宗教の宿命? それぞれが、自分の信じたいものを信じ、勝手にすればいいではないか、といえよう。しかし、たとえば、アメリカの保守的キリスト教とアラブ世界のイスラム教が激しくぶつかり合っているのをみると、そうは放っておけない気がする。宗教の問題を克服しなければ、平和な世界は実現できそうもない、と思える。あるいは、人間には宗教が必要であり、その宗教は互いに争い合うのだから、永久に平和な世界は実現しないのだ、との宿命論じみた考えに落ち込まざるをえない。しかし、宗教同士がなんとか理解し合う方向にならないものか。五木と森の対話を読んでみようという気になったのは、そんな意識が漠然といつも心にあったからだ。

ファジーに考えるだけでは? 興味をひかれて読んではみたが、期待したほどではなかった。浄土真宗とカトリックと、違いを乗り越えて、何か新しい相互理解に達したか。そんなことを期待するのが、どだい無理だった。五木は、相当思い切って、未知のキリスト教世界に切り込んでいる。たとえば、上に書いた宗教の相互排斥についてである。浄土真宗には「神祇不拝」といって、阿弥陀如来以外いっさい拝まないという、一神教的なところがある。キリスト教では、キリストの啓示した神以外の神様を拝んではいけない。それをどう考えるか。そうせまられた森司祭は、「私はそういう意味では、ファジーです」といい、「私は、神を、一神教の絶対的存在として、硬直的にとらえるよりも、その中身をしっかりとらえるべきだと考えています。つまり、本物をつかめば、それぞれの宗教の枠とか、神学の枠を超えた、普遍的な拡がりをもった神の理解につながるのではないかと思うのです」と答えている。これは、カトリックの司祭としては、ずいぶん思い切った言い方だ。この人は、このような発言をして、よくそれでカトリックにおられますね、といわれるほどの、異色の神父さんらしい。しかし、この理解がカトリックの正式見解ではあるまい。まあ、この人は、そういう言い方をする人だと、大目に見られているのだろう。そういう意味では、この本に何度も出てくるが、カトリックは懐が深い。その同じカトリックが、いまだに避妊や中絶にはかたくなな態度をとっているし、女性の聖職者への登用を認めていない。

相互理解に達したのか けっきょくのところ、宗教を超えたこの対話も、救いの理解に似ているところがありますね、ファジーでいい、などという程度の確認に留まっている。真宗の流れの中にいながらも、既成宗教の言葉を超えて、何かもっと人類普遍の拠りどころを見いだそうとする五木と、日本のカトリック教会の中では改革を指向しながらも、しょせん大きな枠の中にいる神父さんと、分かり合える部分はあっても、それぞれの信念システムの教義と言葉に囚われてしまう部分が、どうしても残ってしまう。

個々の理解への逃避 最後に近いところで、こんな会話が交わされる。このあたりが結論なのだろう。

五木 私は最近、既成の情報、常識、哲学などに個人が合わせるのではなくて、自分の生きかた、自分なりの人生観を確立させることが、非常に大切ではないかと考えているんです。だから、仏教にしろ、キリスト教にしろ、与えられた教義や信仰を、そのままに受け入れるのではなく、自分なりに咀嚼し、自分にあった自分だけの信仰をつくるこどが、いちばん大切ではないかと思っているのですが。

  私も、同じことを、かねがね考えてきました。これまでの教会の教義として教えられたものではなく、自分の人生を、根っこで支えてくれるような、自分だけの福音の読みかたをもって、祈って、信仰を育てていくことが大切なのではないかと……。

五木 そのためには、やはり、強い、確固とした神体験というか、神の発見があったほうがいいと思うんですが、・・・

 これは、問題を自覚した個の個別の理解に委ねようとするものである。個人のレベルでは、それでいいのかもしれない。しかし、宗教の問題点は社会・国際レベルでの組織・教団・民族に起因するので、これでは、私が最初に書いたような問題意識に答えてくれたことにならない。

不徹底な議論の先をどう考えるか もともと対談者は、そのようなことを問題としていないので、中途半端で不徹底だ、と責めても仕方のないことだろう。そこで私だが、私は、現在の宗教の問題は、それぞれの宗教、教派の原点にさかのぼり、教祖がその時代にあって、本当のところ何をメッセージとして伝えたのか。その後、教団なるものが形成される中で、それが変容し、形式化し、教祖のオリジナル・メッセージからずれてしまっていないか。ひょっとすると、似ても似つかぬものになってしまっていないか。そこまでさかのぼって考えてみることが必要だ、とつねづね思っている。それは制度として出来上がっている既成宗教を解体するところまで行くのかもしれない。しかし、ゴータマ・ブッダ、イエス、ムハンマド、親鸞などの原点に立ち返ることで、既成宗教を超える共通の人間理解、救済観に達することができるかもしれない、と私は期待するのだ。

もともとブッダやイエスは、何を この点に関する手がかりも、この本にも散見される。たとえば五木は、ブッダが死後の世界について語るのを避け、「無記」としかいわなかったことを指摘している。分からない、語れない、ということだ。それだのに、その後の仏教は、浄土や地獄を専門にし、葬式仏教になってしまっている。イエスは「神の国」をいったが、それは、死後の、あるい終末的なことをいっているとは限らない。むしろ、現に生きている人々の中に、「神の国」が実現していると、当時の神話的表現で語ったといえる。キリスト教も、その後の流れの中で、イエスの本来のメッセージを換骨奪胎してしまっていないか。

イエスとキリストの区別 対談者たちは、イエスとキリストを区別することなく語っている。じつは人間イエスと、それを神格化したキリストを区別して語ることは、極めて重要だ。森は、イエスを救世主キリストとする、キリスト教の標準文法から一歩距離を置いているような話しぶりだ。しかし、この点をあからさまには話さない。五木はイエスとキリストをごっちゃにしている。残念なところだ。というのは、その点にこそ、キリスト教が宗教の枠を脱し、諸宗教と共通の言葉で話し合えるようになる契機があると、私は考えるからだ。『神の発見』は、いい線を行っているのだが、いまいちだ。そんな感想。

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