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2005/12/21

高橋源一郎と内田樹が偲ぶ、早熟の異才、竹信悦夫

 読みにいって間違いなく楽しめるブログは、私にとっては、なんといっても「内田樹の研究室」である。このブログの左コラムに、いつも内田の新刊書のサムネイル画像とタイトルが載っているのだが、3日ほど前から「ワンコイン悦楽堂」が、最新刊として登場した。内田の著書ではなく、竹信悦夫という人の書いたものだ。紹介文が添えられていて、そこにはこう書いてある。

私と高橋源一郎さんが巻末で竹信くんを偲んで対談してます。
竹信くんは私の大学時代の親友(高橋さんにとっては灘での中高時代のツレ)。
昨年、マレーシアのランカウイ島で夕暮れの海に向かって泳ぎながら心臓麻痺で亡くなりました。
私にとってはかけがえのない「関西風味」の友でした。
彼の魂の天上での平安を祈ります。

 え! あの竹信さんって、内田樹の親友だったのだ。高橋源一郎の中高時代の仲間だったのだ。驚いたのにはわけがある。竹信さんは、私らにとっても知人だったから。その次第を書くのが本筋ではないから、それはあとに書く。

 早速アマゾンから取り寄せて読んでみた。竹信悦夫が、朝日新聞のインターネット版に、亡くなるまで2年にわたって書いた書評、それも新古書店でワンコイン(百円か5百円のコイン)一枚で買える古書とかバーゲン本を毎週一冊取り上げての書評、を集めた本である。内田樹ブログの紹介通り、巻末に内田樹と高橋源一郎との対談が載っている。これがめっぽう面白い。竹信悦夫の途方もない早熟と、その後の老成ぶりが語られている。朝日新聞記者となり、組織の中で働いてきたのだろうが、それほどの異才が、さほど世に名を轟かすことなく不慮の死を遂げてしまった。「悲劇的に完結した人生だった」と、二人はこの人のことを偲んでいる。残された書評集は、能ある鷹が爪を隠しつつ、抑えて書いたものとしか思えない。

高橋と竹信 竹信悦夫は、高橋と灘高校で同期生だった。中高一貫校である。高橋は、麻布から中1の後半に転入し、竹信を知ったらしいが、その頃すでに竹信伝説は出来上がっていた。小学校の頃から灘の文芸部などに出入りし、中2の頃は、埴谷雄高や吉本隆明を語り、早熟な優等生仲間の中でも「尊師」のごとくあがめられていた。中2で書いた詩が「現代詩手帖」に入選した。寺山修司が選んだという。中3で書いた「小林秀雄論」は、高校になってからの校内評論文コンテストでダントツに一位になったが、高橋源一郎は、今読んでもものすごくレベルが高い、という。高橋は竹信を文学の師とし「まばゆいばかりの天才を見ながら文学に憧れ」、小説家になった。

内田と竹信 東大に進んだ竹信悦夫と、今度は内田樹がいっしょになる。内田は、そんな早熟の才能を片鱗だに見せない竹信と、愉快な遊び仲間として親しく付き合ったらしい。しかし、なにか「悲しい人」と感じていたという。その頃はもう「枯れてしまっていた」らしい。「早熟というのは非常に短い時間に一生分の濃密な時間を生き」てしまう。高校時代が、大学紛争の時期だったが、回りが騒いでも「俺にとっては、すべては終わっている」と行動には参加しなかった。大学でもそうだった。
 
内田への影響 内田は、修士論文を竹信に見せ、批評してもらった。底冷えのするような、ものすごく辛辣な言葉に、10年も付き合った仲間にいう言葉かと戸惑ったらしい。その竹信が内田に言った「ユダヤは奥が深いよ」とのひとことがきっかけで、内田はユダヤ人哲学者(レヴィナスなど)の研究に深く入りこみ、それが今日の思想家内田樹をつくった。

朝日記者の竹信 こんな異才が、朝日新聞につとめ、どんな生涯を送ったのか、興味のあるところだ。いくつかの事件報道にかかわり、海外にも派遣されたが、格別のエース記者として名をあげたとは聞かない。どうやら竹信は、若い時期に開花し、老成してしまったあとは、ずっと抑えた生活ぶりだったようだ。氏のパートナーで、同じ朝日新聞記者である竹信三恵子さんが、良い「あとがき」を書いている。その中には、「『よく書く』より『よく生きる』ことを重視した」とか、「幸せでいること、機嫌良く生きることは、何より大切と、身をもって示した彼」というような表現が見られる。若くして才能で人を圧倒した彼が、いずれかの時期に、楽しく生きる方向へ、ギヤ・チェンジをしたとしか思えない。

竹信三恵子とみや 竹信夫妻は、朝日新聞のおしどり記者であった。三恵子記者は、新米記者時代に、朝日の水戸支局に赴任した。水戸はかつて、新人記者にとって、いい鍛錬の場所として知られていた。原子力の東海村を抱え、何かと事故や問題が起きる。地方局としては話題が多かった。朝日新聞の木村繁(もう覚えている人がいないかも知れない)、毎日新聞の内藤国夫などもここで新米記者時代を過ごしている。三恵子記者がここにいた頃、どういう縁だったのか、わがパートナー、みや、に、朝日新聞茨城版に、週一回の連載ものを書かせた。当時わが家はアメリカ滞在を終え、帰国したばかり。小中学校に在学していた息子二人を連れてのアメリカ滞在記を書いたのである。最初は2、3回といって書き始めたのが、「好評だから」と乗せられて、ほぼ1年にわたって書いた。それは三恵子記者の水戸局時代とほぼ重なっている。同時卒業、同時入社の同僚記者と結婚して、竹信さんに姓が変わったのもこのころだったと記憶する。みやが連載で書いたものを、出版するよう水戸支局長さんがすすめてくれた。今はもう絶版だが「ニューヨーク郊外の学校で」である。これはその後、旺文社文庫にも収録された。みやの唯一の著書である。

おしどり記者 そんなご縁があって、竹信三恵子さん(『ワークシェアリングの実像』などの著書があり、男女共同参画問題などの活動で知られる)とは、年賀状のやりとり程度のおつきあいが続いている。悦夫記者は、エジプトへ出かけたり、中東アフリカ総局長であったりと、記者夫婦は互いに任地が違い、気の毒だな、と思ったこともあったが、数年前には、悦夫さんがシンガポール支局長、三恵子さんが支局員という粋な計らいをしたので感心もした。その三恵子さんから今年(2005年)の年賀状への返事で、夫が亡くなったとの知らせをもらったのだった。

ここに竹信がいない、と 彼の遺書ともいうべき「ワンコイン悦楽堂」の紹介が最後になってしまったが、ワンコインで買える本を取り上げるという発想が面白い。私はその手の本屋に足を向けたことがなかったが、意外な拾いものがあり、またふだん見向きもしない異分野の本に出会える楽しみがあることを知った。書評も面白いし、軽いかといえば、意外に真面目である。高橋源一郎と内田樹は、この本には、彼らの知っている竹信がいない、と話している。早熟の老成ぶりが出ているのか、才能を隠して書いているのか、興味深い。

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