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2006/01/25

風旅さんの想像科学

 『「風の旅人」編集便り』で、編集長の佐伯剛さんが、面白い、というより、奇想天外な、科学説を書いた。科学は私の専門である(あった、といった方が正確だが)。妙な学説を唱えられては捨ててはおけない。何度かコメントを書いた。ところが何とも噛み合わない。書いてある事柄を、間違っていると指摘しても、それは普通の科学の範囲内の説明でしょう。私は全然別の前提から出発して、自分流の科学を創ろうとしているのですから、と言われてしまい、相手にしてもらえない。それでいて、

科学、とりわけ20世紀科学は、根本的なところで違ったところから出発して、その上に構築されているのではないかと私は思えてならないのです。

と書き、根本的な間違いは説明されないままなのだが、個別のさまざまな現象とその科学的説明を取り上げて、批判したり、自分の考えを多様に展開する。

参照エントリ 詳しくは、以下のエントリを参照していただくといい。とにかくよく筆の走る人だ。私が同じことを書こうとすると、まず半月か、1ヶ月はかかろうか。それを4,5日で書いてしまう。

『一つの生(修正)』(06/1/19)
『科学の言葉』(06/1/21)
『科学の言葉(2)』(06/1/21)
『科学の言葉(3)』(06/1/21)
『科学の言葉(4)』(06/1/21)
『科学の言葉(余談)』(06/1/22)

その後も話題を少し変えて、書き続けておられる。

『地球のこと(1)』(06/1/22)
『地球のこと(2)』(06/1/23)
『統一的見解!?(2)』(06/1/24)

のれんに腕押し 風旅さん(と、タイトルからして書いてしまったが、佐伯さんと呼ぶよりも、ここでは、失礼だけど、私が頭の中で使い慣れた呼び方を使わせていただくことにした。私がしばしばアクさんと呼ばれるように、愛称ととっていただきたい)の科学説について、どのように考えたらいいのだろう。最初、私は、失礼ながら、風旅さんの無知にもとづく誤解や、間違った言い方を、一部なりと指摘して正してもらおうと、コメントしてみた。しかし何かのれんに腕押しの感じである。そのうちにだんだん分かってきたのは、風旅さんは、科学の説明を自分が勘違いしているのを承知の上で、敢えて、自己流解釈を書いているのだ、ということだ。

承知の上の勘違い 途中から参戦してきた「ある研究者」さんに対する返事で、こう書いている。

 ですから、最初から、科学的な勘違いが前提なんです。申し訳ございません。科学的な諒解事項を無視して、自由に考えようという試みです。科学という共有の知識システムのなかで何かを言いたいということではないことをご理解ください。
 FIND THE ROOT、根元を求めよ!というコンセプトで、社会を覆うモノゴトのお約束を疑って追っているうちに、科学的なところを避けて通れなくなっただけです。(あくまでも個人的にですが)。

無根拠の知識システムとしての科学 そうなのか。これじゃあ、いくら書いても、噛み合わないわけだ。それから、私は、いちいち書いてあることに、それは間違いで、こうなんですよ、というような書き込みをしても意味がないことを悟った。しかし、科学全体についての風旅さんの考え方に問題を感じた。そこでこんなコメントをぶつけてみた。長いが引用しておく。

 個々のことよりも、佐伯さんの科学に対する考え方について、私の感想を書いた方がいいでしょう。(4)にこう書いておられます。

「世間や科学やアートの常識はそうなっているとか、本にそう書いてあるとか、偉い人がそう言ったとか、テレビや新聞はこう言っているとか、そういう他人任せのような諸々の夾雑物を取り払って、この世界と向き合って生きていく上で、自分はどう思い、どう感じるかということを追究し、自分の言葉で記述すること。私はそのことだけを考えている。それが自分のリアリティを大事にするということだし、自由への道ではないかと思っている。それが、言葉を機械ではなく道具として用いることではないかと思う。」

 ここで科学をアートとを同じレベルで論じておられる。それはちょっと違うのではないか、と私は考えます。科学の知識は絶対ではありません。しかし、広い分野、長い研究の積み重ねで、ある知識システムとして受けいれられているわけです。絶対でないというのは、まだ分からないところがあり、あるいは間違っているところがあり、それは日進月歩で修正されているし、これからも修正されるだろう、ということです。また科学が真理であるという基礎づけは、カントから始まって多くの人が試みましたが、成功せず、基礎づけということそのものができない、ということになっているようです。ですから、科学も一種の信念システムです。大部分の人が正しいと信じて受けいれているだけなのです。しかし、多方面にわたる実用から多くの人が利便をを得ている。だからおよそのところは、間違いないだろうと、受けいれられているのです。知識システムはある種のネットワークになっていて、個々の事実とか理論が、絡み合って成り立っていて、どこかに不具合があれば、全体として修正がされていきます。しかし今出来上がっている知識システムは、いろいろな検証に耐えて、まあ大部分の人はいいだろうと受けいれているのです。佐伯さんのいう、世間の常識ですね。今後大きな改変が行われるか、というと、それはあるかも知れません。佐伯さんがどこかで書いていた、パラダイム変換です。しかし、科学の歴史でのパラダイム変換は、これまで信じられてきた考えが、全く間違っていて、がらりと考え方を変えなければならない、というようなパラダイム変換は、コペルニクスの時ぐらいでしょう。相対性理論と量子論の導入により、物理学は大きな変革をしましたが、それは、それまでの考え方を全く捨てて、新しい見方に移るというような変わり方ではなく、それまでの考え方を包み込んで、もっと適用範囲の大きな理論の枠組みで見直すということでした。今後のパラダイム変換も、そのようなものでしょう。

 科学は世間の常識だが、自分は自分の言葉で科学を記述し直す、とおっしゃいますが、自分の理解として自分の中にしまっておくのなら、いいでしょう。しかし、それを他人に向かって、社会に向かって、自分はこう考えるという時には、その考え方の真偽は、科学のレベルで検討されることになります。科学の場合には、世間の科学、自分の科学などというものは、ないのです。哲学や思想の分野では、ひとりひとりの哲学や思想が互いに違ってもいいでしょう。ましてアートなら、そうでしょう。しかし科学は、さきほどの知識システムとして、公共のものになっていて、表現の仕方は多少違うことはあっても、ひとつなのです。一時的な異論は、研究が進むときに、真偽が明らかになり、一つの知識システムの中に吸収されていきます。ただ、科学の進歩(知識システムの書き換え)は、佐伯さんのように、新奇な発想をする、常識を疑う、ことによって、引き起こされるので、それを社会にいう、あるいは自分で考え続けることは、意味があるでしょう。ただ、科学の全否定みたいな言い方は、建設的ではありません。

自由を獲得するための、自分の科学 このコメントは受け流されてしまった。こうである。

科学を全否定するなんて、とんでもないです。というより、私なんぞが何を言っても、科学の分野には関係ないことです。私が私の言葉で記述し直すというのは、私自身が自由になるために行っていることで、そうしたプロセスによって電位を高めてエネルギーを得て、公共の知識システムとしての科学とは別のところで、一人一人が違って表現しても構わない物=(私にとっては風の旅人)に反映させるためです。

 なるほど、風旅さんの動機が少し読めた。風旅さんには、科学が、いろんな約束事でがんじがらめになっていると、見えるらしい。何かある約束事を科学者たちが共有して、でっち上げた壮大なシステムが今の科学である。それからいったん自由になって、自分の直感から、自分の言葉で語り直してみたい。そのことによって、既成の科学技術によって支配されている現在の世界のなかで、自分の精神の自由を獲得するのだ。そういうことのようだ。別のところでこうも書いておられる。

それぞれの分野の中で正しいか間違っているかといった議論は、その中の流儀でやるしかないだろうし、やればいいのだけど、そこでどんなことが行われているかについては、インターネットなどを通じて誰にでも知ることができる。そうした情報を踏まえて、自分の世界認識や宇宙認識をつくりあげていくこともまた、想像力の自由なのだ。

語り直しがもたらす科学革命 既成観念を疑い、自分の言葉で語り直すこと。これはじつは科学の進歩の原動力である。アインシュタインが相対性理論を生み出したとき、ハイゼンベルクやシュレディンガーが量子力学を生み出したとき、彼らは、それまでの世界像の語り直しをやったのだ。ただし、その場面では、既成の言葉では説明できない、深刻な実験的事実を突き付けられ、そこを突破するのに、語り直しが必要だったという事情がある。別のケースとしてファインマンは、量子電気力学についてすでにあった理論を、自己流に語り直すことによって、見通しのいい別の(しかし既定の理論と等価な)理論の枠組みを創った。こういうことは、科学の最先端で起きる。先に私のコメントで書いたように、科学は全体的な知識システムである。ただしそのシステムは、周縁の部分がたえず危機にさらされている。分からないこと、新事実によって矛盾が生じてしまったこと、などが、周縁を脅かす。科学システムは、縁の部分こそ大事なのである。先端と言い換えてもいい。

 科学はクローズしたシステムではない。全方位的に解放されている。科学者であるということは、既存の知識システムへの挑戦者であることだ。それを守ることではなく、未知との周縁に立って、新しい事実を見つけ、既存の理論を、ある意味で壊していくことが仕事である。大きな発見は、既知のシステムに大きな破れをもたらす。約束事自体もたえず批判にさらされている。絶対的な前提などというものはない。うまくいかなければ前提を作りかえる。誰かが何かを見つけ、新しい解釈をもたらし、それをみんなが検討し、当面正しそうだったら、受けいれる。場合によっては、システム全体に次々に波及して修正が施される場合もある。

プラグマティックに受け入れられている科学 そういう改変がたえず繰り返される開放系であること、じじつたえず批判にさらされながら、作りかえられてきたこと、前提や根拠の確かさによってではなく現実味のある果実によって人々に便益をもたらしてきたこと。そのようなプラグマティックな意味で、科学は受けいれられている。現実の果実の中には、人々の生活面での便益(テレビや通信、コンピューター、輸送機関、医術と医薬などなど)もあるが、一方では私たちの世界理解を進展させ、迷信からの自由をもたらしたこと、もある。

科学者=聖職者? 風旅さんがあるところで、こんなことを書いている。

聖職者のような諒解事項の周知徹底が、今日までの技術の発展を促した。戦争中に技術が発展するのと同じように、乱流と乱流のデリケートな関係の観察に科学が至った時、戦争中と同じような集中作用があったのだろうし、そうならざるを得ない特殊な分野なのだろうと思う。
(省略)
科学は、もともとは乱流と乱流の組み合わせという、おそろしく曖昧で、結果がカオス状に狂ってしまうかも知れないものを、そうではないのだと思わせてしまうロジックを作り出して、そのロジックに聖性を感じさせる域にまで高まっていることだ。「無理かも知れないけれど、ちょっと作ってみるか」というノリではなく、真理探究のために。中世の聖職者の世界のように。(科学の言葉〈余談〉)

 科学の世界で先端を切る仕事をするには、高度の専門的知識は必要である。しかし、それは別に聖職者の諒解事項というようなものではない。開かれた、誰でもがそのつもりになれば知ることのできる知識である。科学者の世界は中世の聖職者の世界のように閉じているものではない。専門性に聖性を感じることはない。

パラダイム変換を予感する風旅さん 風旅さんは、現在の科学の世界を中世の聖職者の世界になぞらえるだけではなく、それをぶち破りたい、という意図があるように見える。こう予感して書いておられる。

 だから、そういうことは取りあえず置いておこうと思う。といって、近未来に何も変化が生じないのかというと、私はそう思わない。
 それは、前提条件の議論を通して現出するのではなく、一つの大きな現象に関する認識の変化によって、もたらされるだろう。その時、宇宙に対する認識は、芋蔓式に変わらざるを得ないだろうと私は思う。
(省略)
 太陽系のなかでも、特に太陽のこと。太陽の燃焼のメカニズムに対する認識をガラリと変えざるを得ない状況になった時、宇宙の構造に対する認識はガラリとひっくり変えるだろう。そのパラダイムの変化は、人間の生死観すらも変えるだろうと思う。

 そう、そういうことこそ、現場の科学者がたえず狙って試みていることだ。風旅さんに見えていることが、特定の約束事に縛られて、その道の専門家に見えなくなっているというようなことはない。

改革者、風旅さんに期待 中世の聖職者の世界は、ルターとカルヴァンの宗教改革によって解放された。風旅さんが、今の科学がおかしいと感じ、自分の言葉で語り直そうとされるのは面白い。それがどこへ行き着くのか。単なる風旅さんひとりしか理解できない空想科学、想像科学にとどまってはつまらない。それが現実の科学と通じ合い、何かをもたらさなくては。じつは、風旅さんと近々会うことになっている。私はもう現場を去った研究者だが、どんな話し合いになるか楽しみだ。

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コメント

アクエリアンさん
 トラックバック有り難うございます。アクエリアンさんが書かれていることが、本来の科学者のスタンスであるべきだと私も思いますし、そうあっていただきたい。私が懸念しているのは、科学の言葉の伝言ゲームです。最先端の科学から、次々と人の手を経て、教育現場にもたらせる伝言ゲームです。伝言ゲームのなかに、メディアも加わり、子供たちには、学校の先生を通して伝えられます。
 その際、本来のスタンスが忘れ去られ、その考え方の背景も骨抜きになり、いつしか内容が変質し、方程式のような約束事だけが順々に伝えられていないか。現在の教育現場を蝕む原因の一端がここにないか、というのが私の問題意識です。
 私がやろうとしているのが、そうして乖離してしまった、科学本来のスタンスと、「もうそんなことはめんどくさくてどうでもいいや!」みたいな状態になっている多くの人との間の、逆説的な紐帯となることです。
 科学者の側の立場に立って、科学者から教えをいただいて、そこからお借りした知識を普及啓蒙する専門メディアの一種になることなんか、簡単なことです。しかし、そうしたことによって、本来のスタンスが伝えられるでしょうか。それははっきり言って無理です。伝言ゲームの二番目の人から先は、スタンスや背景は殺ぎ落とされる運命になるのです。
 ならば、どうすればいいか。それは、伝言ゲームの一番後の立場から逆流することです。自然人としての自らの頭で考えて意義を唱えることで、科学にまとわりつく夾雑物を洗い落とし、科学本来のあり方というものにフォーカスしていく。そうした逆流のスタンスを、伝言ゲームの最後の人たちと共有していくことです。そうしないと、科学の最先端は、いつまでたっても一般の人たちの関心の外に行われるでしょう。そういうのは専門の人に任せていればいいという感じで。しかし、私はそうであってはならないと思います。なぜなら、実は、科学の最先端が現在行っていること、遺伝子工学のこと、心と脳のこと、宇宙の根元のことは、芸術と等しく、人間の生死観そのものとも深く結びついていることだからです。
 人間の科学は、ぎりぎりのところにきている。全ての科学者がそういう自覚をしっかり持っているかどうか。中世の聖職者のように、既存の認知世界のなかに胡座をかいて甘んじていないかどうか。
 われわれ科学者でない者は、それを見分ける目を持たなければならない。その一歩が、知識を疑う態度だと私は思っており、知識は疑っていいのかもしれないというニュアンスを伝えたいがために、自分の言葉で、考え方を示しているわけです。
 既存の認識のバイアスを超えようとする時、科学は、科学という分野を超えて、普遍になるのだと思います。

投稿: 風の旅人 佐伯剛 | 2006/01/25 23:10

佐伯さん、コメントありがとうございます。しばらく出かけて留守をしますので、これへのレスは、またいずれ。それ以前にお会いすることになりそうです。

投稿: アク | 2006/01/26 07:19

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