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2006/01/11

レヴィナスに「女性なるもの」の教えを請う

 一つ前の記事(「なぜ、男は老いに弱いのか?」を読む妻)を、私はお笑いを一つ、というようなつもりで書いたのだが、私が書くと、どうも真剣な告白だと受け取られてしまうようである。コメントを書きこんでくださる方はいらっしゃらなかったが(今朝、お一人からいただいた)、会った友人からのダイレクトな反応や、ダイレクト・メールで書き送っていただいたご意見は、どちらかというと額面通りに受けとって、心配してくださったようだった。真面目を装いながらおかしみを書くという練達の文才が、私にはないようだ。

 さて、その記事の中で、男と女の問題を、幼時の刷り込みだなどとこじつけて、逃げを打ったが、それを書いたことが、心に引っかかりを残した。「女は(男と比べて)弱い器[うつわ]であるから」という、聖書の言葉を引いて、それは聖書の文書が書かれた古代の女性観を反映して、偏向しているが、とことわってみたものの、ほんとうのところどうなのか。男と女は違うのか、その性差は根元的なものなのか、ボーヴォワールなど言うように、男性中心の社会が勝手に形成してきた偏見に過ぎないのか。一度しっかり考えておく必要があるな。そんな気持が、レヴィナスの女性論の読書へと私を向かわせた。なぜレヴィナスかというと、どうやらこの人は、性差が根元的なものだとしているようなので、この人の考えを聞いてみようではないか、というわけなのだ。レヴィナスについては、おいおい書いていこうと思うが、男と女は違うのだということを、自分の思考の主要な帰結のひとつとして堂々と主張している、希有な哲学者である。彼の凝縮された言葉には、根元をのぞき見た人のみが語れる、圧倒的な力がある。

内田樹に手ほどきしてもらって 極め付きの難解な哲学である。いきなり読んでも歯が立たない。それを読み解いてくれる手引き書がいくつか手元にある。今回ひもといたのは、内田樹の『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房、2001)の後半部分である。この読み解き本すら、難解である。何を言わんとしているのか全体の見取り図がつかみきれない。それはそうだろう。彼の哲学の根幹部分を理解せずして、その一つに枝に過ぎない「女性なるもの」についての彼の言説だけを読むというのは無謀だろう。だから、以下に書くのは、ちょっと囓ってみて、その奥深さをのぞき見た、という段階での、読んで記憶に残った言葉の書きとめのようなものになるだろう。じつはこのエントリを書こうとしたのはいいのだけれども、難渋した。こんなものを書こうとしなければよかった、というのが正直な気持ちである。しかし、取りかかった以上は書いてしまわなければならない。

「女」ではなく、「女性的なもの」 レヴィナスは、男性的なものと、女性的なものとを、神が男と女を創造した、その起源にさかのぼって、探り出そうとしている。ここで注意しなければならないのは、レヴィナスが、「男と女」と、「男性的なものと女性的なもの」とを使い分けていることである。それは便宜上、あるいは概念上使い分けているとか、フェミニストによる攻撃を避けている、とかいうわけではない。根元的に、「女性的なもの」と「男性的なもの」があり、男も女も、人間はその両方を兼ね持っている。そのような意味での「女性的なもの」を、レヴィナスは述べているのだ。そして、両方を併せ持っていることが、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記1章27節)の意味していることだという。以下で、単に「男」「女」と書くが、「男性的なもの」「女性的なもの」を略記しているものとして、読んでいただきたい・

身を引き、場所を空けてくれる女 レヴィナスは、ジェンダー論者が聞けば、たちまち眉をつり上げて、糾弾するような表現で女性なるものの本質を語る。男たる私を、「家」で待ち、迎え入れるために、場所を空けてくれるのが、女である、というのである。女は、「家」の奥へ身を引き、姿を隠すことによって、その存在をあらわにする、ともいっている。

顕現することが慎み深く身を隠すことであり、親密性の領域を確定するきわだって暖かい歓待の成就を基礎づける、そのような「他者」、それが「女性=妻」である。女性は収縮と家の内面性の住み着きの条件なのである。

「家」、「収縮」など説明を必要とする言葉があるが、ここでは深入りを避ける。

労働における男と女 男と女は、「家」に住むだけではない、家に必要なものを獲得するために労働する。そのさいにも、男と女は役割が違う。男は外に働きに出る。そこで出会うのは過酷で冷え冷えとした外の世界である。

その男性的本質における精神とはこれである。精神は外気にさらされて生きている。目を射る暴力的な陽光を浴び、殴り倒すような横風に吹きさらされ、身を隠す起伏一つない地を、故郷を離れ、ひとりさまよっている。

 そうして「男は麦を家に持ち帰る。彼は麦を生のままに飲み下せるだろうか。男は亜麻を持ち帰る。男はそれを身にまとうことができるだろうか。」ある意味、痛々しいほどの男の世界を、和らげ、日陰をつくり、男の持ち帰る「生のもの」を、用に適するようにする「女性的」な労働があって、労働は完結する。「女は麦をパンに変え、亜麻を衣類に変える」

補完的ではなく、二つの全体性の完成 どうだろうか。いかにも男性中心的な男女役割分担論だろうか。内田樹はこう書いている。

人問が人間として生きてゆくためには、この「強さ」と「優しさ」、「苛烈さ」と「柔らかさ」の二つの原理が絶対的に等起源的に協働することが必要である。すべてを征服し、すべてを照らし出す荒々しい「男性」は、光を遮り、内側に折れ込み、無機的な世界を暖かく居心地のよい「家」に変える「女性」に出会って、はじめて「住み着き」を果たすのであるが、ここで「女性的存在」は「男性的存在」がその世界支配を成就するための休息の場を提供する、という補完的な機能を果たしているわけではない。女性は男性の欠如を補うために存在するわけではない。この二つは独立した全体性なのである。

そしてレヴィナスの次の言葉を引用する。

女が男を完全なものたらしめるのは、ある全体の中である部分が別の部分の欠落を補うようにしてそうするのではない。いわば、二つの全体性が互いに相補し合って、完全なものとなるのである。

 このあたりは、非常に誤解しがちな表現である。(一つではなく)二つの全体性が、互いに相補しあう、という言葉の意味を深く汲み取りたい。

光を逃れる女、光に向かう男 もう一つ、レヴィナスは、女性的なあり方として「光を逃れる」、「光の当たる場所から遠ざかる」という言い方をしている。対照的に、男は「光に向かう」、「光の当たる場所に出たがる」のである。レヴィナスがこういうときに、彼が意識しているのは、次のパスカルの言葉である。彼の主著『存在の彼方へ』のエピグラフにも引かれている。

「その陽の当たる場所は私のものだ」。この言葉が地上のすべての簒奪の始点であり、図像である。

 男は、陽の当たる場所を求めて争い、簒奪する。そこから「戦争」が始まる。女は光の当たる場所から遠ざかり、慎み深く身を隠す。闘い疲れた男に「場所を空けて、身を引く」。これがレヴィナスの男性的なもの、女性的なものについての根元的な思考である。

女の弱さの意味 私が、もともと我田引水した、「女は弱い器」に関連した考察もある。レヴィナスは、男女の愛情関係について書いている中で、愛は、「他者」をとりわけ「その弱さにおいて志向する」と書いている。

弱さは他者性そのものを形容している。愛すること、それは他者のために心を痛めることであり、他者の弱さに助けの手を差し伸べることである

 内田樹は、女性が弱いということは、生物学的属性でも、歴史的に形成された二次的改質でもなく、端的に、女性が私にとって「他者であること」を意味している、と解説する。この「他者」が難しい。レヴィナスの哲学の根幹をなす言葉である。ここでは、下位と見なしたり、権力をふるったりできるものでない、むしろ、求めても手が届かぬが、出会うことによって、私が私になるもの、とでも理解しておこうか。

思考と現実問題とのギャップ ここまで書いてきて、結局、引用の羅列にとどまっている,それも不消化なもの、という感じがする。しかし、圧倒的ともいえるレヴィナスの言葉に、教えをひたすら聴くという以上の何かができるか。とりあえず、書きとめて、さらに考え続けていきたい。

 断っておくが、このような考察は、とうてい現実の問題に解決をもたらさない。現実の問題に多少なりと、光を当てる役割をしても、何の役にも立たない。そんなことは分かり切っている。しかし私は、このような方向に、問題を考えたくなるのである。ただそれだけのこと。「なぜ、男は老いに弱いのか」を読む妻との、現実的な問題は、現実的にしか対応しようがないのである。

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