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2006/02/14

「罪なき者は、石をなげうて」

 極東ブログで、finalvent さんは、ブログで見かけた「あなた方の中で罪のないものが、まずこの女に石を投げるがよい」との引用のされ方を問題にしている(「罪のない者と罪を犯したことのない者」06/2/12)。私も、姉歯問題を論じた中で、その言葉を引用した(「姉歯を責められるか、耐震強度偽装証人喚問を聞いて」05/12/14)。私たちは、聖書の言葉を、もとのコンテクストや意味を抜きにして、一種の警句のように使ってしまう傾向がある。そのことへの警告なのだろう。ただ、「あれれ?という感じがした」と書くだけで、引用がどう本来の意味から離れているかを、直接いうことなく、上記引用タイトルにある「罪のない者」か「罪を犯したことのない者」か、とか、原始教団における罪概念のこと、さらには石打の刑の共同体における意味などに話を転じている。そこで、もう少しこの問題を考えてみよう、と思った。

姦淫の女の物語 まずもともとの話は、ヨハネ8章1-11にある。イエスがエルサレムの宮で、集まってきた人々に教えていたところへ、学者たちとパリサイ派の人々が一人の女を連れてきた。姦淫の現場をおさえられたのだという。姦淫はモーセの十戒の一つで、「殺してはならない」の次に置かれた「姦淫してはいけない」に反する重罪である。「モーセの律法では、このような女は石打の刑に処するように命じられています。あなたはどうしろとおっしゃいますか」と問うた。その通りにしろといえば、何だ、愛と赦しを説いているイエスだってやっぱり、となる。石打ちをするなといえば、律法に反したことを指示したと、彼を訴える口実になる。イエスを追い込むいいチャンスだと、彼らはこの女を連れてきたのだ。イエスは、問いを無視し、しゃがみこんで黙って地面に指で何かを書いていた。それでもしつこく彼らが尋ねる。とうとうイエスは立ち上がっていわれた。「あなた方の中で罪のないものがまず彼女に石を投げよ」と。それを聞いて、年取ったものからはじまって、一人、また一人と去っていき、イエスと女だけが残った。イエスは女に言った「私もあなたを罰しない。お帰りなさい。これからは、間違いをしないように」(以上、最近の新共同訳を持ち合わせないので、前田護郎訳(中央公論社)、岩隈直訳(山本書店)などを参考に、適当に意訳した)。

イエスによる倫理の深化と赦し イエスが「罪のないもの」と言ったとき、何を念頭においていたのだろうか。イエスは、当時の宗教的指導者と闘っていた。律法に書いてある一言一句を表面的に解釈して、弱い立場にあるものをしぼりあげ、いじめることばかりしている偽善的な宗教指導者に激しく対抗して、弱者の側にたって、彼らに対する「赦し」を説いた。宗教指導者のいう律法解釈に対抗して、倫理を、行為だけでなく精神面にまで厳格化して説いた。「欲情をいだいて女を見るものは誰でも、その女に対して心の中で姦淫を犯したことになる」とまで言った。そこまで罪の本性を極めることによって、誰もが罪を犯さざるを得ない人間のあり方を自覚させた。イエスだって周りに女性が見え隠れしている。自分の欲情の自覚だってあったろう。その上で、それでいいんだよ。みんな赦されているんだよ。そのことさえわかっていれば。というのがイエスの教えだった。それを古代人イエスは、神の国は近づいたとか、神の国はあなた方の心の中にある、と表現した。

人間現実を直感させたイエスの言葉 姦淫の女を連れてきた者たちは、イエスの「罪のない者」をどう理解したのかわからない。おそらくイエスが気迫をもって「あなた方のうち罪のない者は」といったとき、自分に罪がないと、自信をもっていえる人は誰一人いなかった、ということだろう。イエスの言葉は、彼らの心を貫き、他者を傷つけ盗み取り姦淫することなしに生きているなどあり得ないという人間現実を、直感させたのであったろう。

罪なき者の原語 finalvent さんが、語源的なことを問題にしているので調べてみた。「罪なき者」はギリシャ語では一語(αναμαρτητος)で、意味(Abbott-Smith:  A Manual Greek Lexicon of the New Testament) は、1. without missing, unerring; 2. In moral sense, faultless (Platoの用例あり), without sin (用例としてこの句がひかれている)である。この前に定冠詞(the)に相当する一文字(ο、これには上に、ひらがなの「く」の字のような記号、spiritus asper が付され、hoと発音する)が付き、the one without sin の意味となる。

みごとな作り話か この話は、他の福音書にはなく、ヨハネ福音書にしか出てこないのだが、元来のヨハネ福音書にはなかったのだそうだ。古い写本にはなく、後世の写本ではじめてのるようになったものである。たぶん断片的な口伝伝承として伝わっていたのが、この部分に挿入されたらしい。ただし伝承そのものは、非常に古いもので、イエス自身の歴史的事実にまでさかのぼりうるとの学説がある。田川建三は、「そこまで言い切れるかどうかはわからないが、作り話だとしても、イエスの思想をこれほどみごとに解説した作り話は少ない」と書いている(「イエスという男」三一書房、1980 、現在は作品社から増補改訂版が出ている)。

一億総告発者の時代に このところ、姉歯ーヒューザー、ライブドア、東横インなどなど、次々に出てくる問題について、一億総告発者になって、彼らの罪を責める。イエスの時代の宗教指導者の役割を、マスコミが果たしているように思える。不正は不正である。法を犯せば罰せられる。法ぎりぎりで何でもやっていいかと言えば、モラルが要求される。それは当たり前のことだが、いったん問題が持ち上がると、みんなで寄ってたかって叩く。イエスがこの世にいたら、やはり、「あなた方の中で、罪のない者がまず、・・・」と、同じことを言うのではないか。それは犯罪行為がどうでもいい、といっているのではない。もっと根元的に社会の成り立ち、人間存在のあり方にまで思いをいたして、このような悪が絶えることなく出来(しゅったい)する現実を見よ、といっているのだろう。

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コメント

 人が既に悪だと認知していることを、「悪だ! 悪だ!」と騒ぐことは簡単で、自分は傷つかないし、勇気も判断も決断もいらない。モノゴトを右から左に移しているだけなのに、信念の行為のように振る舞う嫌らしさがある。
 人々が悪だと気づいていないこと、善だと認識違いをしていること、風当たりの強いこと、勇気がいること、苦しい判断や決断が必要なことを実行して初めて意義があるのでしょう。
 モーゼの時代、姦淫を誰も罪だと認識していなかったのではないでしょうか。
 ライブドアは、罪行為が公的に明らかになる前に、極端な株式分割とメディアを利用した売名行為で異常なほど株価を上げていたわけです。メディアは、明らかにその手助けをした。にもかかわらず、メディアは、今回のライブドアの騒動の中で、自らを反省する気はないようです。
 世の中が戦争ムード一色の時は、戦争を批判できず、平和ボケの時にだけ戦争反対と言うメディアのスタンスは、昔も今も変わりません。
 非難しやすい相手を非難するばかりでなく、非難しずらい相手を非難してこそ、ジャーナリズム宣言だと思うのですが、朝日新聞をはじめ、そういう自覚はないのでしょうか。
 

投稿: 佐伯剛 | 2006/02/16 01:49

佐伯剛さん、コメントを寄せていただいてありがとうございます。風潮におもねらず、根元を問い続けようとされる「風の旅人」の佐伯さんでなければいえないジャーナリズム批判であると思います。
 ふつうの生活人にとって、善か、悪か見分けることは、容易ではありません。人がそれを決めてくれて、それに乗っかって、悪だ悪だ、と言うことは楽だし、たぶん快感すら与えてくれるのでしょう。世の中、何かおかしなことが多い、うまくいっていないじゃあないか、そう漠然と感じているときに、悪いやつが挙げられる。堰を切ったように、情報が噴出する。それを悪い悪いとマスコミが言い立てる。このごろはブログもやいのやいのという。ふだん漠と感じていた世のからくりの不透明な部分が、にわかに明らかになり、これさえやっつければ、という気にさせられる。これが大衆社会の実相なのでしょう。大部分のマスコミやジャーナリズムもその大衆社会にどっぷり浸かり、迎合することで存在している。大衆の判断力や感情を、マスコミがそのまま反映している。また大衆はマスコミによってふだんに教育されている。善や悪の基準も判断もその仕組みの中に置かれている。
 「あなた方の中で、罪のない者は、・・・」とのイエスの言葉は、そのようなあり方の根元を揺るがす、と私は見るのです。表面的に善だ悪だというレベルの偽善性を揺さぶっている、と思うのです。
 ユダヤ社会の場合は、それが律法でした。おっしゃるようにモーセ以前には、土俗的信仰が支配し、倫理的にも乱れていたのでしょう。モーセは、そこに、神との契約としての十戒を持ち込み、唯一神を指し示し、そのもとに厳しい倫理原則を設けることにより、神の選民としてのユダヤ民族意識を確立したのでした。しかし、時代がたつとともに、原則から細則が生み出され、その解釈が細密化され、日常生活の隅々まで適用されて、人を縛っていったのでした。たとえば、「安息日を守ること」は十戒の4番目にありますが、それを実践するために、安息日に何をしていいか、いけないか、くわしくは、何歩までは歩いていいとか、井戸から水を汲んでいいとか悪いとか、何杯までいいとか。本来の精神から離れて、限りなく細密化していくのです。
 イエスは、そのように既成宗教の仕組み(それが当時の人にとっては社会そのものでした)が人間を縛っている状況から、もともとの神対人間関係の原点を示すだけでなく、人間社会が生み出すあらゆる非人間的なものごとに疑問を投げかけたのでした。またどのように人々は救い出されるかを、真剣に考え教えたのでした。イエス自身の古代的世界観とその後の宗教的粉飾から、イエスが救いについて何を言おうとしたのか、それを現代の私たちが理解することは容易でなくなっています。私は神とか救いとかがわからないものですから、人間社会のとうてい救いがたい実相を見通した上で、駄目さに徹することによって、赦しを見いだす、というふうにいい加減に理解しています。その赦しという言葉も、本文に書いたように、それでいいんだよ、というほどの意味です。

投稿: アク | 2006/02/16 11:13

>私は神とか救いとかがわからないものですから、人間社会のとうてい救いがたい実相を見通した上で、駄目さに徹することによって、赦しを見いだす、というふうにいい加減に理解しています。その赦しという言葉も、本文に書いたように、それでいいんだよ、というほどの意味です

それでいいんだよ、それはこれまでのさまざまな体験から、深い思索からいろいろと紆余曲折をたどられながら、社会的には立派な地位をお持ちになりながら、それでもなお最初の地点にたちかえりながら、ご自分の想いを地に付いた言葉で表現してくださってることに、なにかと、とまあなんと表現したらいいのでしょうか?まさにモゴモゴ、すみません、でもアク様と佐伯さまのやりとりに何か不思議な、モゴモゴを感じさせていただいてます。
本日はどこかで佐伯様が推薦なさってた「脳と想像性」茂木健一郎氏をなんとか読み終えました。でも語るにはモゴモゴ、です。

投稿: ハルちゃん | 2006/02/16 20:42

ハルちゃん、一つ前のコメントに返事しそびれていました。私はいま「手紙」をゆっくり読んでいます。全部読み終わるには、図書館で延長手続きが必要でしょう。ちょっと読んでは考え、面白いなあ、と味わいながらです。
 「社会的に・・」は、経験にはなりましたが、人間としてさして足しにはなっていません。むしろ職から離れて、やっと自分を見つめ、人間と社会を考える境地になれたのがうれしいです。そう「最初の地点」ですね。
 「モゴモゴ」なんとなく分かります。茂木さんの本のことを描いていましたが、彼とか養老さんが書くことは、私にとって「モゴモゴ」です。科学者が科学のことを、科学から少しはみ出した言葉で書きはじめると、私は?です。茂木さんは、クオリアを意味ありげに語りますが、デネット(「解明された意識」)が、とっくにそんなものコッテンパァに論破しているのに、今さらなんで?と思っています。
 それにしても、ハルちゃんは、よく読んでおられますね。
 

投稿: アク | 2006/02/16 21:25

 茂木さんとか養老さんは、科学のことを、科学から少しはみ出した言葉で書いているのではなく、本来、「文」の領域にあったことを、「理」の言葉で記述し直そうとしているのだと思います。
 たとえば”心”を「文」の言葉で語ると、これまでは、「心は心」と、精神論で片づけられがちで、それでは前に進めないので、いったん解体して、新たな言葉で再構築しようとしているのだと思います。
 ただ、その際、”心”を精神論ではなく、科学的分析の対象として捉える「心理学」的な言葉を警戒を示すことも怠っていません。
 心を説明することじたいを目的としていないので、他の誰かが「クオリア」を論破したかどうかという知識的な分別は茂木さんにとって重要なことではなく、心の感じ方(クオリア)に相応しい質感を醸し出して感応できて納得できる「新しい記述」のあり方を模索していると私は受け止めています。
 クオリアの「解」を科学的に答えとして示すのではなく、文章の記述の仕方を究め、「手応えとして納得できる感じ」を目指しているのではないかと私は思います。
 それにしても、私が執筆依頼をした3年前に比べて、お二人ともあまりにも有名になりすぎてしまいました。

投稿: 風の旅人 佐伯剛 | 2006/02/16 22:13

 でもよく考えてみると、私は、養老さんの本は、「バカの壁」以前の古いものしか読んでいません。茂木さんに関しても、有名になってから、テレビや週刊誌をはじめ、いろいろ登場されているようですが、私は、それらのほとんどを見ていません。だから、もしかしたら、それらの中で、科学のことを、(クオリアも含め)、科学の言葉を少しはみ出した言葉で、書いたり語ったりしているのかもしれません。
 あれもこれもやってしまうと、仕事は粗くなってしまうのですが、「クオリア」というデリケートなことを粗く扱ってしまったら、その瞬間、クオリアとは無縁のものになってしまうので、そうならないことを願ってます。

投稿: 風の旅人 佐伯剛 | 2006/02/16 23:05

佐伯さん、どうも書かでもことを書いてしまったようです。ハルちゃんが茂木さんの本のことに触れられたのをきっかけに、日頃思っていることがつい口に出てしまいました。それは佐伯さんが「私が執筆依頼をした3年前に比べて、お二人ともあまりにも有名になりすぎてしまいました」と書かれたこととも関連しますが、二人とも書きすぎです。これが日本の出版界の異常なところでしょうが、いったん売れる作家を捕まえると、どんどん書かせる。書くという行為を考えてみると、中身のあるものがそうそう多産できるわけがない。れいの「バカの壁」にしても、あれは養老さんの書いたものではない、そうあとがきに書いてあります。養老さんが記者相手にしゃべったものを、もと週刊誌の記者だった人が、週間誌風の大衆受けする読み物にうまく仕立て上げたものです。その仕立てが当たって、売れたのでした。私はあれを読んでばかばかしくなり、それ以来養老を読むのをやめました。「唯脳論」の頃は、よく読んで刺激も受けていたのですが。茂木さんは、現役の科学者ではもうなくなっているのでしょうか。科学者なら、その世界で、先端を切る仕事にもっと集中すべきでしょう。あんなに書いていては、研究ができているとは思えません。
 多田富雄は「免疫の生命論」で、思想界に大きな影響を与えました。免疫学の新知見を科学の世界を超えて、思想の言葉で書くことで、科学の知見に無縁だった思想界の人々の考え方を震撼させるほどのすごい本でした。こういう本を一つだけ、あるいはせいぜい何年かに一回書く。ほんとうのもの書きはそうあってほしいです。長年の蓄積があるとはいえ、現時点で考えをあらためて深めて、じっくり書く。同工異曲は書かない。そのような節度を知の領域にある人には望みたいです。今の養老や茂木はバブルですね。たぶん何年もすると、養老も茂木も何の影響を残すことなしに忘れられ、「バカの壁」「クオリア」現象があったな、ということだけが記憶される程度になるのではないか、そう思えるのです。
 「文」の領域にあったことを、「理」の言葉で記述していくこと、これは、脳の科学、心の哲学の専門分野で起きていることです。「理」のことは、その分野の言葉で、発見として語られるのです。科学では語り尽くせないと感じることを、新しい記述法を見つけようとするのは、分からないでもないですが、さて成功するでしょうか。私は最近のものを読んでいませんので(手に取る気もしないから)分かりません。
「クオリア」は主観的実感ですが、その科学的側面は、脳の中で様々のサブシステムが分担しあい、複雑に相互作用しあって行われている意識状態を、もう一つレベルを上げて意識し直しているだけのもので、別に特別の格を与えるべきものではないでしょう。それにクオリアは茂木さんがはじめて言い出したことではないです。彼はそんなことを言っているようですが。ただ「クオリア」を追求していくことが、脳科学にブレークスルーをもたらすと、いまさら考えている人は少ないようです。それは佐伯さんも書いていることでした。科学の解を求めているのではなく、別のことなら、ああそうなんですか、どうぞ、というしかないです。

投稿: アク | 2006/02/17 09:12

「クオリア」を追究する、と言った時点で、「クオリア」を粗く扱うことになるかもしれません。もしくは、「クオリア」という記号が一人歩きした時点で、「クオリア」は、「クオリア」でなくなる。本来、「クオリア」なんて言葉は不要だったのでしょう。もともと、私たちの中にあった様々な関係性の、その微妙な記述そのものこそが大事で、そうしたスタンスの上に、芭蕉や良寛や道元など、様々な先人の仕事があったのですから。
「クオリア」という言葉が一人歩きして、週刊誌やテレビなどで、「クオリアって何ですか?」などと問い、それをわかりやすく解説しはじめた時点で、もう違うことになってしまっています。
 でも茂木さんは、「風の旅人」の中では、クオリアとか世事になったこととは別の時点で、新しい”仕事”を試みてくれているように私は思っています。

投稿: 佐伯剛 | 2006/02/17 10:08

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