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2006/02/25

アジア系外国人にとって住みづらい国・再論

 風の旅人の佐伯さんが「送迎殺害事件について」を書いておられる。名指しされていないが、私が書いた「アジア系外国人にとって住みづらい国・日本」も批判の対象になっていると思われる。批判には応えなければと思う。まず私が書いたことと、佐伯さんが批判していることとに、ずれがあると感じる。ちょっと待ってくれよ、私はそんなことを言うつもりではなかったんだよ、という感じ。それとともに、佐伯さんと私とで、こういう問題を論じるときの視点の違いを感じる。少し書いてみよう。

 佐伯さんは、「二度と同じ事件を起こさないために、外国人を日本人社会で孤立させないための心構えとか取り組みが必要である」というような「今回のような事件が起こった時に必ずといっていいほど出てくる立派で正当な意見」と私の書いたことを総括しておられる。【以下では、佐伯さんの批判の対象が私のエントリだというつもりで書く。あるいは別の人の意見に矛先を向けておられるのであって、私のものではないとすれば、とんだ見当違いだが、そうだとしても、この件についてさらに考えてみることは、私にとっても、読者にとっても何かの役には立つだろうと、書いてみる】。

結論の姿勢は反省、だが たしかに結論の部分で、そのような「識者」ぶった書き方をしてしまったようだ。あの部分は私にとっても、書いたすぐあとから、高いところから警鐘を鳴らす典型的な物言いだとの自覚があって、後味悪く感じていた。こういうブログで何事かをとりあげると、結論として何かもっともなことをいいたくなる。ついそのような言い方をしてしまう。それは反省しよう。「国際化への意識改革」が必要だと書いたが、「国際化にともない、いろいろな問題がこれからも出てくるだろう。その中で学びながら慣れていくしかない」という程度にしておきたかった。最後のパラグラフで「このようなこと(日本が急速に国際化の時代を迎えようとしていこと)と、今回の事件とを直ちに結びつけるのは、行き過ぎだろう」と書き始めている。今回の事件の真相は未だ明らかでない。私は犯行者の心の奥に、自分を異なるものとして受け入れてくれないことへの身勝手な恨みがあるのではないか、と想像した。しかし恨みの気持ちを持つからといって、あのように極端な犯行に走ることは普通ではない。特異な例で、片づけられてしまうかもしれない。それですめばいいのだが、ひょっとすると、と「取り越し苦労」をしてみたわけだ。

外国人を受け入れるか、日本、それが論点 事件の原因への私の想像はあたってないかもしれないが、この事件をきっかけに、私が考えてみたいと思ったのは、1)アジア系外国人がたくさん入ってくる社会が目前に来ていること、2)ところが日本社会というのは、他の国と比べて特異で、これから到来する国際化に慣れていないし、3)外国人からみて、日本社会がどれほど溶けこみにくいものであるかが、大部分の日本人に分かっていない、大丈夫だろうか。ということであった。そのことをある程度具体的にデータを拾って指摘することが、私のエントリの主な内容だったわけで、佐伯さんにあのように総括されると、いいたかったことと別のことで、思わぬ方向から矢が飛んできたような気持ちになる。

理不尽が人生のおもしろさ 次は佐伯さんとの視点の違い。佐伯さんは「理不尽」というキーワードでこの問題を論じる。外国に来てなじめない世界に住むということに限らず、自分の周りの世界には理不尽なことがいっぱいある。「元々、世界は理不尽極まりないもの」、それを承知で、その「わけの分からないさが、人生のおもしろさ」であるという。理不尽なことがないかのように思いこんで我慢するとか、周りが配慮して軽減してあげるとかいうことはいいことではない、とおっしゃる。いわんとすることは、私にも理解できる。場合によっては、私もそのように言うかもしれないくらいだ。しかし、これは強い人が、自分と同じ強さを人に求める言葉のようだ。佐伯さんはご自身の外国滞在経験を書いておられる。私も同じような体験を持ち、同じように自分なりの住まい方をみつけることができた。しかし、佐伯さんや私が何とかしたように、日本に入ってくる外国人に、たとえこの社会が理不尽に感じられたとしても、自分のことは自分で何とかしなさいよ、それがよその国に住むものの覚悟でしょう、とは私は言えない。そのようにあってほしい、あるべきだ、という個人の生き方への励ましとしては、それはそれでいいだろう。しかし、そのように強くあることのできない人がいるだろう。あるいは、理不尽を自分に対する周囲の攻撃として、ストレスだけを溜め込む人もいるだろう。その人たちが問題を起こすかもしれない。それをどうするかという社会的問題は、理不尽を楽しむなどという個のレベルとは別のことで、私はその面を心配して書いた。

個としては強く、しかし、社会としては弱者を 社会問題は、どちらかというと、弱者へまなざしを念頭に考えなければならない。ニート、フリーター、低所得者、熟年・老年失業者、ホームレスなどの問題を、そのような視点から私は考える。個々の状況の中で、自分が何とか脱出の道を開いていくしかないのだけれども、強くなり、自分で何とかしなさいと放っておくわけにはいかない。やはり社会の問題として、どうしてこういう弱者が出てきてしまったのか、どうしたらその事態を改善できるのかを考えなければならないだろう。個のレベルでの強さと、社会のマクロな視点からの配慮と両面が補い合っていくのだろう。

差別のこと もう一つ、佐伯さんの指摘されたこと。「『外国人対策』(私は直接にはそんな言葉は使わないが)という意識を持つその時点で、差別の萌芽を感じてしまう」ということ。これは、差別のことを問題にする時にいつも出てくるジレンマである。差別の存在することに気づき、それを問題だということ自体が、差別を顕在化してしまう。私は差別は現存するし、誰にも差別意識がある、差別はいつまでたってもなくならないと考える。差別をなくし平等社会の実現を目指すというような理想主義を信奉しない。しかし差別により不幸な目にあう人をできるだけ少なくすることが、大多数の人にとって住みよい社会の実現に必要だろう、その方向にできることをしましょう、というふうに考える。前回のエントリで書いたのもそういう方向への注意喚起のつもりだった。

 日本が国際化に慣れていないと書いたとき、在日朝鮮人のことは、いつも頭にあった。その問題は根が深いし、私の理解は浅い。それを置いておいて、これから到来する国際化は、また違った面から日本社会のあり方を揺さぶることになり、それをこなしながら慣れていくしかないというのは、中途半端であることは自覚している。

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コメント

 アクエリアンさま、トラックバック見ました。
 私が書いたのは、「二度を同じ事件を起こさないために、外国人を日本社会で孤立させないための心構えとか取り組みが必要である」と、自分が傷つかない良識的な発言だけを力説する人のことです。特にテレビなどでは、こうした言葉だけが画面から出てきて、その背後にある逡巡とか、葛藤とか、モゴモゴしたところが殺ぎ落とされてしまい、結果としてスローガンになってしまうように思います。
 こういうことは、スローガンのような「かくあるべき」というメッセージで何とかなるものではなく、まったく別の切り口が必要だろうというのが私の考えです。
 「弱者を保護すべし」というスローガンは、一つの優越意識の現れでもあり、弱者も強者もなく、違うから楽しいんだということのリアルな実感が大切だと私は思っています。
 また、テレビなどにおいて、日本にいる外国人の孤立を強調することは、ごく普通に暮らしている外国人に対して、必要以上の警戒心を抱かせることになりはしないかという懸念があります。普通に暮らしているのに、心のなかは屈折しているのではないかと疑われて、距離を置かれる可能性は大でしょう。
 いくら弱者保護だなんのといっても、それはそれ、これはこれという感じで、幼児関係の施設などで外国人を雇うことは金輪際なくなる可能性があります。
 子供のいる家庭などで、お手伝いさんとして外国人を雇うこともなくなってしまうでしょう。そうならないように外国人が日本に溶け込めるように配慮しなくてはならないなどといっても、それは自分と直接関係ないことに対して言えるのであって、自分の可愛い子供が関係すると、そうは言ってられないということになる人が多いと思います。
 仮に日本の外国人対応が悪いにしても、日本にいる外国人の90%以上は、慣れない環境で普通に頑張って暮らしているのだと思います。ああした例外的な事件によって、外国人が特別視され、日本に住む外国人の心の闇とか孤立とかを強調される方が、まともに暮らしている人たちに対する害は大きいと私は思います。
 だから私は、たまたまあれは中国人が起こしたが、日本人だって充分に起こす可能性のあるものだという視点で書きたかったのと、外国人だ、弱者だ、という特別な意識を持つ必要はないと言いたかったのです。日本社会で孤立感を感じている人数は、日本にいる外国人よりも、日本人そのものの方が多いでしょうから。

投稿: 佐伯剛 | 2006/02/26 01:27

佐伯さん、コメントありがとうございます。日によって頭が雑ぱくな状態になり、ものを書く気になれないことがあります。それで返事が遅れました。
 あの事件を引き起こしたものが何かというとらえ方が、そもそも佐伯さんと私で違うことが、ふたりの意見の違いを導いているように思えます。もう繰り返すのはやめておきます。
 知人の家庭に介護を必要とする方ができて、家政婦さんを介護の団体に頼もうとしたら、時給4000円といわれたそうです。年寄りふたりで老いていくのが常態になりつつある中で、他人の手を借りなければやっていけない事態が起きる、しかしそのための費用がとても高い。他方ではアジアの国から介護関係に人を出したいという要望がある。やがてこの分野で多くの外国人が働くのが普通になってくるでしょう。今後いろんな問題が出てきそうです。外国人だからという不安、彼らには安い人件費でいいのか(ダブルスタンダード)、それはそのような外国人への差別の公認(すでに多くの職場でダブルスタンダードを採用)ではないか、などなど。そんな中で日本社会での低賃金労働外国人の問題と、彼らが引き起こすであろう問題を予感します。今イギリスやフランスでの起こっているアラブ系住民の問題と類似のことが、やがて日本での問題になるのではないかと。

>「弱者を保護すべし」というスローガンは、一つの優越意識の現れでもあり
とのご指摘は、鋭いと思います。自分をひとまず脇に置いておいて、世の中を上から見おろすような視点に立って、ものを考えたり、言ったりする。そういうことをついやりがちですが、佐伯さんは、そういう視点でものを考えことを拒否しておられるのだと、今度のやりとりでよく分かりました。

投稿: アク | 2006/02/27 11:32

 私は、介護会社のPR誌を二ヶ月に一度制作していて、取材などで頻繁に、要介護者の自宅におうかがいするのですが、
 「介護を必要とする方ができて、家政婦さんを介護の団体に頼もうとしたら、時給4000円」というのは、ちょっと途方もないですね。何か特別なことでもお願いするのででしょうか。
 現状の介護保険法では、介護者の状態によって、要支援 61,500円、要介護① 165,800円 要介護② 194,800円 要介護③ 267,500円 要介護④ 306,000円 
要介護⑤ 358,300円と、一ヶ月の金額の上限が決まっていて、個人は、上記の金額の10%負担です。90%が保険金です。
 この金額の範疇で民間の介護会社は、家事の他、様々な介助も行っていますので、現場は、労働超過のうえ、その労働に比べて賃金が高いとはいえず大変です。正社員比率も低く、10%くらいになっています。それでも、大勢の人が、ヘルパーとして生き生きと働いており、その働きぶりは感動ものです。にもかかわらず、一つでも事故があると、マスコミなどが大騒ぎする。施設でのいじめなど確率で言うと、0.0・・%であっても、大騒ぎするのです。
 その大騒ぎして深刻ぶっているマスコミや評論家が、どれほど親身になって考え痛切に感じているかといえば、実は、全然そうではなく、事件を好き勝手に分析するだけなんです。実際の現場を知らず。
 今回の送迎にしても、0.00・・・%の人の事件を、外国人を取り巻く普遍的な共通原因があるように分析されることで、その他大勢の外国人が、そういう目で見られる可能性の方を私は懸念するのです。日本人であってもおかしくない事件だと思いますから。
 ただ、私も行っていることですが、ブログなどで、いろいろな背景をモゴモゴと考えていく場合は、そこにいろいろな思いが詰まっていますし、読む方は文脈を通して感じてくれるだろうし、ある程度、自分の頭でモノゴトを考える人が読んでくれるので、書かれていることは鵜呑みにされないと思います。あくまでも、意見交換の場であり、刺激し合える場だと思います。
 しかし、テレビや新聞などにおいては、扇情的なタイトルで人心を煽り、かつ内容を簡略し、しかも、それを見たり聞いたりする側が、寝転がって、何も考えず、ぼんやりとメッセージを受け取っていたりします。だから、間違った認識でも鵜呑みにしてしまう可能性がある。
 そういう現象に対する危惧と懸念として私は書いたのであって、アクエリアンさんと意見が違うかどうかは、あまり意識していません。
 あくまでも、大きな声で、大勢の人にモノゴトを伝える人たちの、伝え方に対する無神経さに、時々、憤りを感じるだけです。

投稿: 佐伯剛 | 2006/02/27 20:34

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