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2006/02/02

風旅さんと会う

 「風の旅人」編集長、佐伯剛さんが投げかけた問題、20世紀科学は根本的なところで間違っているとの漠とした疑問、そのいくつかの例として個別に投げかけた疑問のかずかず、また、科学の伝言ゲームへの疑問など、を直接会って話し合いましょう、ということで、お会いした。結果はどうだったか。かなり長い時間、真剣に話し合った。せっかくの美味な料理とお酒は、喉を通るには通ったが、そんなことはそっちのけの話し合いだった。あれこれにわたったお話は密度が濃く、私にはとても興味深く、刺激的であった。しかし、こと科学の問題に関しては、佐伯さんが疑問としてあげた個別問題についての私の説明に、佐伯さんは終始怪訝な表情のままだったし、私も説明が届かないもどかしさを感じたままだった。

もどかしさと怪訝な表情とのすれ違い もともと、佐伯さん(前回は「風旅さん」と書いた。今回お会いしたあとでは、「佐伯さん」と呼ぶのが自然になった)は、前回の記事でも書いたように、科学に限らず、あらゆる分野で「社会を覆うモノゴトのお約束を疑って」、もっと「根元を求めよ」う、とされている。その一つとして、このところ科学をターゲットにしてみたわけだ。疑ってかかる手がかりとして、太陽のコロナとか、地球を取り巻くプラズマ空間とか、身近なところでは気圧と温度などを取り上げたようである。だが、根本のところに、大きな疑問があるのだから、個別に取り上げた疑問を解こうと、いくら説明しても、納得するわけがない。しかもそれぞれについて専門的な言葉で言おうとすればするほど、佐伯さんにとっては、それは科学の約束事でしょ、となってしまう。説明の届かないもどかしさと、怪訝な表情とがすれ違ってしまうのは、仕方ないことのようだ。

科学への根元的な疑問とは 佐伯さんの科学への根元的な疑問。それは科学という西欧文明が創り出した人工世界を、人間と対置したときに感じる、何かこれっておかしい、と感じる疑問なのか。それとも科学という営みの社会の中でのあり方に対する疑問なのか(たとえば、佐伯さんがしばしば書かれ、当日も話題になった「伝言ゲーム」、すなわち、科学を既知として教え込むやり方)。また佐伯さんが、今回いくつか発せられた個別の疑問なのか。そのあたりが、佐伯さんの中で、渾然一体となって投げかけられるので、何に答えたら納得してもらえるのか。こちらと思えば、あちら、という具合に掴まえどころがないのである。

モノゴトのお約束を疑う 佐伯さんにとっては、現在の世界と人間のあり方が間違っている、ということが、雑誌「風の旅人」で、このところ投げかけようとしている問題意識である。その中で、科学だけは別でしょう、とはできない。科学は、人々に、世界、生命、心などについての知識をもたらしてくれるものだ。それらについて、こうなんですよと、既知のように思いこまされたくない、というわけなのだろう。その意図は私も分かるのだが、佐伯さんの投げた球が、急所を射ているとは思えない。それをやろうとすれば、専門家と同じ、あるいは専門家を超える、知識や勘が必要だろう。意図をある程度理解するだけに、その点が残念だ。佐伯さんも、科学については、今回の問題提起でよしとして、これくらいでやめようと書いておられる。

行き詰まりを超えられるのか あれこれ話した中で、印象に残ったのは、芸術や思想の行き詰まり感のことだ。おめでたい進歩史観ではうまくいかないことは、とうの昔みな気がついている。だからといって、行き詰まりを超える大きなブレークスルーは見えない。そういう状況にまともにぶつかるのでなく、自分の世界に閉じこもることで、お茶を濁しているような芸術家、思想家が、佐伯さんは歯がゆいらしい。私は、芸術にはまだまだバリヤーはないだろう、しかし思想に関しては、行き詰まりを乗り越えたところで何もない、そのことに気づいたのが、現在ではないか、といってみた。佐伯さんは、超えたとか超えていないとか、「ある」とか「ない」とか、そのような言葉では捉えられない境地を暗示された。このあたりは、佐伯さんの言葉を正確に反映した表現になっていないが、私にも共感できるものがあった。

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コメント

 このブログでは、アクエリアンさんとお呼びするのが自然なので、そうさせていただきます。 先日は、楽しい時間、どうも有り難うございました。アクエリアンさんには怪訝な顔に見えてしまいましたが、そうではないのです。
 私は、科学者のアクエリアンさんの言葉を聞きながら、私が「風の旅人」で表現すべき言葉を探っていたのです。科学の根底にあるものを、科学の約束事(それを理解できる人たちの)の言葉で、一般に伝えてもだめだろうと思うからです。
 ただ、ここが肝心なところですが、私が考える科学の根底というのは、科学が究明した事実ではなく、なぜ人間は科学的思考と行うのか、ということなんです。
 科学であれ何であれ、人間は、自らの認識の外に立てないので、科学的認識をつくり出すものは何なのかということを、ずっと考えていたわけです。
 それゆえ、私は、今日の”科学”を否定しているわけではないのです。”科学”もまた、人間の思考特性の必然でしょうから。私が非難していたのは、アクエリアンさんにもお話ししたたように、真理探究の科学的精神ではなく、固定した認識の中で安住し、その認識を疑いのない事実のように(錯覚させながら)伝えていく今日の知識界のスタンスなのです。人間の行うことは、どんなことでも、「現在、わかっている範疇ですよ!」という但し書きが必要な筈なのに、その部分があまり強調されることはありません。解明した、と思い込んでしまうとダメなんではないかというのが、私の一貫した問いであり、その思い込みが、世界に対する驕りにつながるのだと思っています。
 いずれにしろ、ここ暫くブログで考えたことと、アクエリアンさんとの話しを経て、私の方は、ようやく4月号のONE LIFEというテーマをまとめ上げることができました。
 科学雑誌でない「風の旅人」が、このたびの様々な自己問答を通じて、どのような形になったか、ご覧になってください。
 といって、そこに”解”はないです。私が求めているのは、新しい”解”ではなく、新しい”世界の問い方”ですから・・・。

投稿: 風の旅人 佐伯剛 | 2006/02/02 22:14

 佐伯さん、ふたりで話し合ったことについて私が一方的に書いたことに、コメントを寄せてくださって、ありがとうございました。これで、双方の見方を対として、ブログ読者に提供したことになります。
 私は、佐伯さんの意図は分かっているつもりです。このコメントで書かれた、「固定した認識の中で安住し、その認識を疑いのない事実のように(錯覚させながら)伝えていく今日の知識界のスタンス」、「どんなことでも、『現在、わかっている範疇ですよ!』という但し書きが必要な筈」、「解明した、と思い込んでしまうとダメなんではないかというのが、私の一貫した問い」など、よくわかります。
 分かっているというけれども、こんなことは、分かっていないのではないかと、具体例を挙げて問いかけて見せたのが、あの個別事例だったのですね。
 科学者たちは、分かっていることと、分かっていないことの境界に立ちながら、未知を探求しているわけですが、分かっていること、あるいは分かっているはずのことについて、いっけん戸惑ってしまうような問いかけを受けると、それはこういうふうに分かっていることですよと、説明したくなるわけです。佐伯さんの問題意識は別のところにあるわけで、それはあまり意味のないことだったかも知れません。
 ただ、分かっていると思いこんでいることを、別の視点から問うことで、意外な未知があることに気づくこともあるわけで、その点では、佐伯さんの個別の問いも、いい線を行っていたのかも知れません。急所を射ていない、などと書いてしまいましたが。

投稿: アク | 2006/02/03 11:14

ご両人の“すりあわせ論戦”とても有意義でおもしろいです。でも、わたし、理解しつくしたわけじゃない。数度読み返しましたが、いまだに理解がご両人に届かないもどかしさがある。

“視点を変えてみる”というお言葉がある。
で、少し、視点を変えてみます。

禅に“恁麼”という言葉がある。
この言葉も、わたし、未だに理解しつくせないでいるが、ご両人が言わんとするところは、どうやらこの“恁麼事”に近いようだ。これって、言葉に出して語るのは難儀でっせ。内田樹氏でも難儀するのじゃないかな。
生半可なコメントでごめんなさいね。 <(_ _)>

投稿: 波平 | 2006/02/06 09:51

波平さま、コメントありがとうございました。
「恁麼」とは、読み方もわからない言葉で、すみません、答えようがないです。
風旅さんとの話し合いは、当事者にとって、意味があったことでしたが、こうしてブログに書いても、ほとんど???かな、と思っていました。反応がうれしいです。風旅さんは、ここらで矛を収め、次へと向かっているようですが、私はもう少し、この問題を考え続けてみたいと思っています。

投稿: アク | 2006/02/06 10:39

ごめんなさい。
恁麼(いんも)です。
そうように、このように、とか、そのような、このような、とかの意に使います。
恁麼事とか恁麼人とか言ったりする。
いわゆる悟りの境地・意味を言うらしいです。わたし、いまいちわからんですがね。

投稿: 波平 | 2006/02/06 11:00

 アクエリアンさんと私は、それぞれ個人として生きており、利害関係も何もなく、ただご縁だけで邂逅したわけですから、すり合わせは必要ないのです。
 ”解”を導く必要はない。”解”という不自由な固定した結びは不要。
 この世には、誰か見知らぬ人が定めた”解”が溢れている。しょせん、生きて死ぬさだめの人間一人が、なにゆえに、人間が定めた”解”の中に自らを押し込めなくてはならないのか。今日の、行き詰まるような不自由さは、その”解”に縛られすぎているからではないか。その不自由さが蔓延するがゆえに、言論の自由と言いながら、敢えて自らの価値観を省みる自由ではなく、他者を嘲笑し、貶めるために言葉を使用するのではないか。
 ”解”ではなく、”問い方”こそに、人間一個のありようが示される。そして、今日、政府を問うことはさして難しいことではないが、問うことが一番難しくなっているのは、われわれのなかに擦り込まれている”科学的思考”ではないか、というのが、私の問いであり、そのことに”解”は必要ないのです。

投稿: 佐伯剛 | 2006/02/06 11:01

波平さん
続けてのコメントありがとうございました。
「いんも」、調べてみます。

佐伯さん
コメントで思い出しました。あの折りに話し合った一こま。
あまたの雑誌が氾濫している中で、『風の旅人』のユニークなこと。他の雑誌は、問いかけと同時に、解き方も、答えまでもワンセットで与えている。なんだかわかったような気にさせるようにできている。
『風の旅人』は、編集者佐伯剛の問題意識のもとに、選び、考えられてレイアウトされた写真を中心に構成されているが、問いかけも「テーマ」と画像群で指し示されるだけで、そこから何を考えるかは読者にまかされている。まして、解き方や、答えなどは用意されていない。この前のコメントで佐伯さんが書かれたことが、そのまま具現されたものなのだ、とつくづく思います。

投稿: アク | 2006/02/06 11:53

はじめまして。「風の旅人」一読者です。
お二人のやりとりをずっと拝見しておりました。

そうなんですね~。「解」に縛られすぎている。納得。
確かに「解」にあぐらをかいてしまいがちです。反省。
「風の旅人」に惹かれたこと、視野が変わってく気がすること、それは、そういうわけだったのかと納得。
そして「風の旅人」を問うという視点も持ち続けようと思います。

ただ、自由に問う、ということは、とても息苦しい気がします。
目の前のことで手いっぱいだったり、単純に楽な方がいいという方が普通だと思うからです。
それに鞭打つ必要は確かにあるとは思いますが、飴も必要かと・・・
何というか、笑いが少ない気がします。大事だと思います。
ユーモラスなテーマがないのは、やはり理由があるんでしょうか。
そういうのが世間に溢れているとはいえ、洒落や笑いによって鞭打たれるようなミスマッチな表現も面白いと思うのですが。
ウーンと唸らせられるのもいいけど、ニヤリと唸らせられるのもいいといいますか・・・
こちらに書くのもなんですが^^;

投稿: 006 | 2006/02/07 20:47

「とても息苦しい」、これは佐伯さんに考えてもらわなければいけませんね。私は、いつもぼやーっと眺めています。佐伯さんの投げる問いかけが、風のようにすぅーっと通り過ぎる中で、何かが引っかかって残ればいい。おっ!、これは何だ、と眼にとまる画像があれば、立ち止まって考える。引っかかりがなければやり過ごせばいい。
「ユーモラス」。佐伯さんは、今のところ、問いかけに懸命ですが、そのうちに、「大いなる肯定」という面が出てくるのではないかと、私は話していて感じました。並のユーモラスを超えたものが、テーマにとりあげられることもあるでしょう。期待しましょう。

投稿: アク | 2006/02/07 22:29

 私は、白川静さんとか前田英樹さんとか、写真家だと野町さんとか水越さんとかサルガドとか、仕事に対して息苦しいほどストイックな人たちが大好きなんです。楽で緩い関係よりも、会って緊張を強いられる人と会うことが好きなんです。
 きっぱりと真面目で清々しい人と会っている方が、私にとっては楽なんです。誰しも楽な方がいいのですが、楽と感じたり、ユーモアを感じる状況は、人それぞれ異なるのです。
 こんな感じで、執筆者や写真家に依頼していきますから、残念ながら、「風の旅人」の方向性は変わらないでしょう。緩い人には依頼しませんから。
 でも、ミクシィというコミュニティサイトの「風の旅人」の読者がうまいことを言ってくれました。「風の旅人」と少年ジャンプの二つだけがあればいいと。私は、そういう感じでいいのではないかと思います。一つの媒体は、一つのことに特化していればいいのです。いろいろな要素を入れようとするから、どれも中途半端に似てしまう。
 そして、もし、この社会に自分の理想とするものがないと不満のある人は、決して楽ではないけど、自分で作ればいいのです。同人誌でも、インターネット雑誌でも、ブログでも何でもいいのです。その中で、自分が大事だと思うことを実現していけばいいのではないでしょうか。
 自分でやってみなければ、何をどこまで表現できるか、わかりませんから。
 

投稿: 佐伯剛 | 2006/02/08 01:56

佐伯さん、引き続きこちらにコメントを寄せてくださって、ありがとうございます。「息苦しいほどストイック」で、「真面目」に徹するという方向性は、「風の旅人」の性格として、それでいいと思います。
 私は「緩い」という表現とはちがう、「寛さ」というのかな、先のコメントで「大いなる肯定」とあいまいな言葉で書いたような地平が見えてくることを期待しています。そこに様々な人のあり方をよしとし、くつろぎを感じ、ユーモアも出てくるような境地です。
 たとえば、創刊から数号前まで続いていた白川静先生の自筆をそのまま巻頭に掲げていたこと。あれは先生の鬼気迫るような言葉を生のまま伝えたいとのことでしたでしょうが、私は、その筆跡を拝見しながら、巧まざるユーモアを感じてもいたのでした。

投稿: アク | 2006/02/08 10:29

 アクエリアンさん、有り難うございます。
 そうなんです。白川先生は、徹底的に真面目を極めておられますが、私もユーモアを感じます。しかもそのユーモアは、人に媚びた緩いものではなく、清々しい気持ちにさせるものです。意図的にユーモアをやろうと思ってやるユーモアなんて、私には面白くも何ともないのです。実は野町さんの写真でも、そうなんです。厳しい写真が多いですが、人間の営みのなかに妙におかしいことがたくさんある。へえーという思いで、笑ってしまうことは多々あります。そういう至高のユーモアの境地に至るまでには、あと最低でも20年は修業が必要でしょうね。そこまで「風の旅人」が続けば、枯れた、いい味が出るかもしれませんね。たった三年では難しいです。
 アクエリアンさんのホームページの書斎の写真も、なんだか恐くて可笑しいです。その可笑しさというのは、やはり長い歳月、愚直を極めてこられることで生じるものではないか、と私は思います。
 仕事というのは、本来そうだったし、それがいいのだと思うのです。ユーモアというのは、一心に仕事を極めた人から生じる妙味のようなものではないか、と私は思います。
 だから昔は、お年寄りはみんなユーモラスだった。そして尊敬された。
 小手先のコンピューター操作で何億円も儲かったり失ったりの風潮のなかで、「仕事の深い妙味」が失われ、ユーモアも、単純に楽な方に流れ、上辺の楽しさとか、下手な洒落とか、明るさとかお気軽さに成り下がっているのかもしれません。

投稿: 佐伯剛 | 2006/02/08 11:53

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