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2006/03/16

単線と複線

 歳とともに自覚するのは、複線的に仕事ができにくくなったことである。一つの時に一つのことをやり、また別のことをちょっとやり、あれもやれば、これもこなす。これが複線的な活動である。ほとんど並行処理といってもいい。それが歳とともにできなくなっている。仕事に追われる立場にない。いわば遊んで暮らせばいい身だ。しかし遊び方もけっこう忙しく輻輳している。それがうまくさばけなくなってきている。うまく、というのは、自分の思い通りにということだ。

単線を辿りたい、しかし邪魔が 朝起きるときから、寝るまで、ひとときには、一つのことだけを、自分の決めたままにやりたいと思う。しかしそうはいかない。新聞、テレビ、ネットなどからいろんな情報が飛び込んでくる。ついそちらに気を移し、考えたり、やろうと思っていたことからはずれてしまう。電子メールが入る。返事をしなければならない。新しい作業が必要となる場合もある。大幅に予定が狂う。本を読んでいる。こちらを読み、あちらを読み、平行していくつかを読むのが、飽きっぽい性格の私なりの読書法だ。しかし今は、それがあぶなくなってきた。いったん一つの本を離れると、もうそこには戻れなくなってきた。読みっぱなしの本が、身の回りに散在している。ワイフが、今日はあれをしたい、これをしてほしいという。それも聞かなければならない。たいていは、ずっと前に頼まれていて、そのうちにやるよと棚上げしておいたことだ。もう放っておけなくなって、仕方ないやるか、と予定を変更する。一日の予定がすっかりくるったと機嫌を損ねる。

考えごとの脈絡を失う あることを考えている。何か神経を使う仕事をしている。そこに別の線からの邪魔が入ると、たちまち思考の脈絡が乱れてしまって、もとの考えに戻れなくなる。それがいやで、外部からの干渉を断つよう心がける。時にはいっさいの外からの情報を断ちたくなる。そんなことに容赦のないワイフが、口を挟んでくる。たいていは日常のくだらない些末事だ。そんなとき、何か言葉が聞こえただけで、大声でさえぎる。あとにしてくれと。

仕事時は自在にさばけた複線 昔、仕事をしていた頃。仕事場というのは、複線的にことが進む場だ。何本もの線が走っている。あれやこれやの仕事を、ある時はこちらに、別の時にはあちらにと、頭の切り替えが利いて、さばけていた。そのときそのときにそれぞれのことに集中し、終われば、別の仕事に向かった。どんな割り込みにも自在に対応できた。そうでないと仕事が務まらなかった。

柔軟にさばけない しかし歳をとると、そんなに融通が利かない。一つのことには集中はできるが、短時間にそれができない。若いときよりずっと長い時間をかけないと、集中度が深まらない。終わると、別の仕事に器用に乗り替えていくことができない。まあ一日の前半に一つ、後半に一つできればいいところである。めまぐるしく時間を切って、あれこれと飛び回れない。脳のキャパシティが乏しくなっているからだろう。

それでいて複線に漂う意識 それでいて、注意力は漂う。本を読んでいる。目は活字を追っているのだが、何かをきっかけに別のものごとを考えている。それがさらに漂っていく。放っておけば、意識はむしろ複線的に動いている。歳とともに、その傾向がひどくなったような気がする。むずかしい本ほど、文脈をしっかりと辿るのに努力が必要になる。意識は読んでいることから別の記憶の中の文脈に飛んでいく。読むとは、ある意味そういうことだ。しかし、著者の考えと自分の記憶とを照合して、読みかつ考えながら、著者の文脈を辿るのが読書だろう。それがしっかりできにくくなる。

小島信夫の複線のおもしろさ 突然話題が変わるが、小島信夫の小説のおもしろさは、何本もの筋が複線的に走り、それがさらに分岐し、ある線は尻切れトンボになり、ある線は、再び本線に戻ってきたりする、そのあや(文、綾、彩などを当てられる)の、ある意味放漫な展開にあるのではないか。それでいて、部分部分が面白いだけでなく、複線が互いに照合しあっているあたり。いや、これはいずれ書こうと思っていることを先取りしてしまったが、このエントリで考えていることに関係するので、ちょっと。

話題の転轍機 ワイフに向かって、あなたは話題の転轍機(てんてつき)だと、よく文句を言う。こちらが何かを言いはじめる。途中からワイフが、センテンスを引き取って、こちらがいいたいことと全く違うセンテンスにしてしまう。そうなると、あらためて最初いいたかったことに戻る気がせず、口をつぐんでしまう。こちらの言葉が重く、つい言いよどんでしまうのが悪いのだが、この人はひらめきが早く、しかもユニークで、こちらの言い出しから、ぱっと思いもよらない方向へと話を転じるのが得意技である。話題の転轍機と呼ぶ次第である。転轍機といっても分からないかな。鉄道のレールのポイントの切り替え機である。こちらは東京へ向かって走るつもりで電車に乗ったら、駅を出たところでポイントが切り替えられて、いつの間にか仙台に向かって走っていた、というような具合である。

複線的な会話のおもしろさ 人との会話も一本で流れているようで、複線的に進行する。何人もいれば、話題はつぎつぎと複線を辿り、あらぬ方向へ走る。それが会話の楽しいところでもある。しかし、こちらがあることを話題にして、何かを話したいと思っているうちに、会話は別の線に流れ、こちらの言い分を完結しようにも、こちらの線に引き戻すことができないほど、会話の流れは遠くを走っていることがある。歳とともにそのような会話についていけずに、疲れるようになる。会話にも積極的に加わろうとせず、黙り込みがちになる。頭が硬直化したしるしだな。

複線に漂うゆえに単線を求める 話が漂ってしまったが、最初に戻ろう。歳とともに複線は苦手になる、ということだった。考えてみると、対応できぬゆえに複線を苦手とする面だけでなく、じつは老いゆえに複線に漂いがちになり、それをうまくさばけないので、努めて単線を辿ろうする面と、両面があるようだ。単線を心がけないと、とりとめのない過ごし方になる。そういうことへの自戒があるのだ。このブログにも反映しているように、私の興味は複線的に拡がっている。それでいて、今や能力的に単線しか辿れなくなっている。そんな繰りごとを述べたかったようだ。

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コメント

アク様

こんばんは。

今回はモゴモゴと語ってくださってて、勝手に親近感を感じ(させていただいてます)ております。
風旅様のブログからこちらにたどり着いたときには、それ以前もっていたブログのイメージが一変してしまいました。そしてツンノメリながらちょいとコメントを、でも何の内容もないものでしたので、なんとなく恥ずかしい想いをしてました。アク様のサイトはまさに理想の老後生活ってものにうつりました。
でも、なにかと逡巡されたり、それなりのご意見を述べられたり、とにかく「目指すべき老後の理想的な過ごし方」みたいな~
でも、今回みたいにいろんなことを率直につらつらと語ってくださってることに、なんかいいなぁ~ありがたいなぁ~みたいな気分が立ち上がってきます。ありがとう、です。
そしてもうひとつのお礼としては、「内田樹の研究室」にたどりつけたことでした。
私は今小説としては、小島信夫氏、保坂氏なのですが、その他の読み物としては今まさに「内田氏」なんですよね。「町場のアメリカ論」「町場の現代思想」「レヴィナスー愛の減少学」
「他者と死者」等々、なにかと触れさせていただいてます。

投稿: ハルちゃん | 2006/03/16 19:26

ハルちゃん、ちょっとご無沙汰いたしました。コメント欄であまり対話を繰り返しても、と思ったのでした。今日のエントリは、書こうと思いついたことを、すらすらと一気に書いたので、たぶん読みやすく、「率直に」と感じてくださったのだと思います。でもそんな話題はそうたくさんはないです。
 私が模範にしているのは、吉村昭のエッセイですが、自分の日常を書いて、あれほど自然にユーモアの感じられる文章を書くのはむずかしいですね。
 小島信夫。「菅野満子の手紙」は、少し前に読み終えました。保坂さんは、読んでいてこれほど楽しいものはない、それでいて、読み終えると、何も残らない、というようなことを書いていたと思うのですが、私は、どのように構成されているか、どのような書き方に小島の工夫があるのか、どこまでがフィクションで、どこまでが真実なのか、そもそもそのように読者に考えさせることに小島の小説の醍醐味があるのか、いろいろと考えてみたくなり、読み終えた本を、まだ返せずにいます。そういえば、先日、国立に知人を訪ねたおり、小島信夫宅の前を通りました。いい場所にありますね。夕方暗くなってからでしたが、電気がついていて、いらっしゃるのだな、と親しみをおぼえました。
 内田樹のブログはいいですね。読みに行って、考え方にも語り口にもいつも感心して読み終えます。むずかしいことを苦労して読む必要もなく、日常を語りながら、その鮮やかな切り口に感心する、いちばん楽しめるブログですね。あのように書けたらいいなといつも思います。
 ではまた。

投稿: アク | 2006/03/16 20:19

アクさんの今日のブログを読みました。
贅沢な話だと思いながら、最近のアクさん、少し愚痴っぽくなったと感じました。
こんな事を書けば、きっと烈火の如く怒るかもしれませんね。
アクさんのお気持ちもわかりますが、女は母親という立場を経験すると、そういう自己中心的な暮らしはもともと無理だと分かっています。
夫や、子供が寝てしまったか、或いは、夫は留守で、子供も何かの都合で家にいないというような時間でもあれば、もうけもの。主婦にとっては、何より貴重な有り難い時間なんです。
そんな一時こそ、自分だけの考えごとにもひたれるって訳です。
何時だって時間や心を家族に占領されているのが女です。
男は、仕事以外では、他者のために邪魔されるような人生(時間)を過ごしてないから、贅沢が言えるんだと、私は思います。

今日はすこし意地悪を書いてみました。たぶん、奥様への同情からかもしれません。でも、老いの心境は充分伝わってきましたよ。

投稿: 美千代 | 2006/03/19 00:39

美千代さん、日常の大激変の中で、妻・主婦として奮闘しておられることは承っています。その美千代さんからすると、私の書いたことは、きわめて脳天気に見えるでしょう。烈火のごとく怒るどころか、ひと言ひと言、ごもっともと平伏するばかりです。意地悪どころか、まっとうな直言です。
 愚痴については、愚痴っぽくなったのではなく、もともとあった愚痴を、ここに少し書くようになった、ということです。我が家ではずっとワイフが勝ち組で、私は鬱屈しながら、ひそかに心の中で自分を慰めながらやってきたのです。そんな私のあり方を多少客観化して見て、笑いとして書けるようになったのです。書いたものの中だけで、私は自己中かつ亭主関白なのであって、実態は反対なのです。いやそうでもないかな。まあご想像ください。
 ワイフは、私の書いたものを、せいぜいブログなどでガス抜きをすればいいわ、と笑っています。ここに自分で出て反論を書くのは、はしたないと思っているでしょうから、美千代さんの応援はありがたかったでしょう。私が変なことを書いたら、美千代さん、大いにとっちめてください。

投稿: アク | 2006/03/19 09:32

はじめまして!

「風の旅人」に誘われて、こちらにたどり着きました。

「風旅」には、茂木健一郎先生のクオリア日記から飛んでいきました。
(そちらではTOMOははです)

最近自分のブログを始めたこともあり
アクエリアンさまのお話の、深く広くチョッと枯れた言葉に
ふと目が留まり、恐る恐るコメントしています。

一人息子は、今度小3ですが
歳のいった母親と、通信制の大学生の2足のわらじと
ネットに足を入れかけて、夫はいることはいますが
ほんとうに、家の中は片付きません。

憧れの「悠々自適」のアクエリアンさまの呟きが

ほほえましくも、うらやましく感じられます!

先日茂木先生が、小島信夫氏、保坂氏の対談を聞かれたと
3月26日のブログに書いていらっしゃいましが
なんだかとても興味をそそられますね・・・

また、アクエリアンさまのお話を伺いたいです!!

投稿: 風待人 | 2006/03/31 14:32

風待人さま、ようこそ。
 茂木健一郎→小島・保坂対談→風の旅人→アクとつながってのご縁とは、うれしいですね。
 茂木先生は、多才な人で、専門の脳科学を超えて多様な事柄を語っておられますね。私は「クオリア」概念を理解できずにいますので、ちょっと遠ざかっています。
 小島信夫に興味を持っていることは、このブログやコメントのやりとりを読んでくだされば、あちこちにでていますし、これからも出てくるでしょう。小島・保坂対談は、保坂さんのホームページに写真がでていたのを見ました。行ってみたかったのですが、かないませんでした。もっとも今は、読むことだけを通して接していればいい、という気持ちもありました。
 風の旅人は、ずっと愛読者です。佐伯さんとはブログで何度か意見交換をしています。もっともごらんのように、意見はすれ違いますが、それも仕方のないことでしょう。
 お子さんを育て、通信制の大学を受講し、ブログをはじめと、人生の最盛期を生きておられる。うらやましいことです。私などは、ときにはぼやき、ときには何か考えたことをつぶやき、ときにはすこしばかり楽しみ、老いていくさまをここに表現しているだけです。
 これからも、よろしく。

投稿: アク | 2006/03/31 21:12

お返事、ありがとうございます!

小島信夫氏、保坂氏は、気になりつつも
今すぐには、手に取る余裕がなさそうです。

人や本との出会いにも、何かちょうど良いタイミングがあるように思いますが
いかがでしょうか?

茂木先生は、純粋に科学的思考を基本にしながらも
もしかしたら、その枠にとらわれない世界も否定はなさらないような
自由な姿勢を持っていらっしゃるように、私には感じられて
とても、興味を持って注目しています。

アクエリアンさまは、どのような考え方をなさっていらしたのか
また、お話伺ってみたいです。

私自身は、薬学を学びましたが
科学ではまだ説明できない世界の存在を、どう捉えればよいのか迷いがある自分を

素直に認めてしまっている状態かと思っています。

思うことが上手く表わせない気がして、もどかしさを感じておりますが
また、お話をお聞きしたいです!

投稿: 風待人 | 2006/03/31 23:41

風待人さん、風旅さんとの対話では、私は不本意ながら、科学の言い分をいわざるを得ない立場になっていますが、科学は人間活動の一面にすぎないことは、人一倍分かっているつもりです。私は、研究の世界を離れてから、それが一面的であることが分かっているゆえに、それまで見ることのできなかった、それ以外のものに目を向ける方向へ、生き方を変えてきています。それは私のHPやブログを見ていただければ、分かっていただけるかと思います。世界の中で、科学の言葉と方法は、むしろ特殊なものです。「科学ではまだ説明できない世界の存在」ということについては、科学者の考え方は謙虚だと思います。ただ、科学の言葉と方法が有効な範囲では、できるだけ明解でありたいとも思っています。
 科学の外に思考の及ばない科学寄りの人は不幸、科学の神髄に接する機会がないゆえに科学に不当ないかがわしさを感じている科学の外の人がいることも問題、と思っています。
 すべてを包含する便利な世界観などありようがないのも分かっています。自分の立場を絶対化せずに、世の中には様々な考え方があり、それぞれに尊重し合い、批判し合うことで、少しはそれぞれの見方がいい方向に変わっていけばよい。それが世の中に向かって何かを書き、主張するときの願いです。

投稿: アク | 2006/04/01 22:37

「便利な世界観などありようがない」

・・・アクさまが、思い描いていらっしゃるそのままには
私に理解できはしないとは思いますが

おそらく、その言葉を確認したかったことに気づきました。

多様な価値観のあることを認めながら
そのうえで、つい確かな未来図を、手っ取り早く何か求めてしまいたくなりますが

より良き方向を想うとき、その不安定さにも耐えられる
強さが必要なのかもしれませんね。

また、お話伺いに参ります!

投稿: TOMOはは | 2006/04/02 01:27

この前のコメントのTOMOはは・・・は、風待人です。

“はは”としての自分と
ひとりの人としての私を意識しようと思っていますが

やっぱり、どこかでつながっていて、まだごっちゃになってます・・・

ところで、アクさまの奥様とのやり取りで面白く、思ったことがあります。

ウチも、私の中の思考が言葉となって出たことに対して

夫がいつも「・・・それ何?どこから、そうなるの?」と
全然ついてきてくれず
私の話し方が悪いように、言われています。

どうも、思考の仕方が男性・女性で少し違うのでしょうか?

投稿: 風待人 | 2006/04/02 01:39

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