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2006/05/29

『ユダの福音書』の受け止め方

 最近「ユダの福音書」が発見され、話題になっている。これは、とうに異端とされていた文書の再発見に過ぎないと、簡単に片づけることもできる。私には、キリスト教とその正典とされる新約聖書の成り立ちについて、また正統と異端について、さらには現在のキリスト教のあり方について、ひいては宗教なるもの一般について、あらためて考えるきっかけを与えてくれた。そこまで大きく論点を広げてしまうと、論じきれないが、少々考えの筋だけでも書きとめておこうと思う。

 『ユダの福音書』が発見された、というニュースが伝えられたのは、06年4月のはじめだった。ナショナル・ジオグラフィックは本年(06年)5月号で、その発見の次第と一部の内容を伝えた。つい最近『ユダの福音書を追え』(日経ナショナル ジオグラフィック、2006)が出版された。発見にいたる数奇な出来事を書いたノンフィクション本だ。どういうわけか、書店では『ダ・ヴィンチ・コード』ものと同じ場所に、平積みになっている。アメリカでは、専門家によって解読された本文と解説とが出版された。日本でも出版が予告されている(『原典 ユダの福音書』[日経ナショナル ジオグラフィック])。さて、この発見にどのような意味があるだろうか。私なりの見方を書いてみよう。ナショジオの雑誌と上記ノンフィクション本以外に、NYTimes にいくつか載った記事が参考になった。特に NY Review of Books 6月8日号に載った書評 ”Betrayer's Gospel" が参考になった。これは、プリンストン大学のコプト語を専門にしている研究者3人が共著で書いた長文の書評である。発見に関わり翻訳をした二人の学者(「原典ユダの福音書」の著者)とは別個にコプト語本文の翻訳をし、著者らとは違う見解を表明している。

護教論と無関心の間に
 注意しなければならないのは、宗教の原典に関わるこの種の問題では、専門家といえども、教会内にいるひとが多く(特に日本では)、その人たちの見方は、最終的に護教論(キリスト教の標準文法を擁護する)に傾くことだ。標準文法の立場から、しょせんこれは異端でしょう、というひとことで片づけられてしまう。もともと聖書やキリスト教会、またその成り立ちや歴史に関心を持つ人は、日本では少数である。その少数はほとんど護教論に傾く。大多数の日本人にとって、キリスト教は関心事ではない。少数の護教的な人々と大多数の無関心層との間に、ごく少数のキリスト教批判者がいる。私は素人だが、多少聖書学も神学もかじり、興味を持ち続けてきた。批判者というのは、おこがましいが、そのような立場からこの新発見をどう捉えるか、考えてみよう。

異端と片づけるのは安易 まず、これは異端とされたグノーシス主義の文書が発見されたに過ぎないと軽く考える、それは大部分の、特にキリスト教会の側の、考え方だろうが、それに、ちょっと待った、といいたい。原初のキリスト教徒には、いろいろな信仰の持ちようがあった。神、世界、人間、悪の存在、死などのことをどう捉え、その中にイエスの教えとその生涯、特にその死をどう意義づけるか。さまざまな考え方が、多様に生み出され、論争があった。その中で徐々に正統とされる考え方が形成され、それ以外が異端とされた。しかし正統の中にも、異端とされた中にも、さまざまな考え方が併存していた。

新約聖書の正典としての成立は4世紀
 イエスという人が活動し、さまざまなことを語り、そして死んだ。紀元後30年頃のことである。残された少数の弟子たちを中心に「ユダヤ教イエス派」と呼ばれる運動が始まり、イエスの活動と言葉が、口づてに伝承された。やがてパウロという、生前のイエスに接したことのない活動家が加わった。彼はさまざまな手紙を残した。私たちは、イエスの死後、すぐに、今私たちが知っているキリスト教が成立したように考えがちだが、じつは長い歴史があった。伝承をまとめる形で、4つの福音書が書かれたのは、たぶん70年から100年頃のことである。イエスから、2、3世代あとのことである。その後も数々の文書が書かれ、伝承された。今度発見された「ユダの福音書」は、150年頃だろうと推定されている。現在私たちが知っている4つの福音書だけが、正統だとされ、「福音書」の名で呼ばれるようになったのは、2世紀半ば。そのころ、やっとキリスト教という宗教形態が成立した。パウロの書いた手紙、その他を含めて、27の文書が正典とされたのは、4世紀も後半のことである。このあたりの事情については、たとえば、佐藤研「聖書時代史・新約編」(岩波現代文庫、2003)や、加藤隆「『新約聖書』の誕生」(講談社選書メチエ、1999)に詳しい。

成立の過程での変容 キリスト教の成立してくるのには、3、4百年年の長い歴史があったのだ。その間、伝承と論争の中で、生前のイエスの言葉と事跡は、さまざまな教義的解釈の衣を被せられ、変容した。イエスがもともと主張し、目指したものと、長い歴史を経て立ち上がってきたキリスト教とは、ストレートにつながっているわけではない。私などは、生前のイエスと、その後のキリスト教とは、別物と考えた方がいい、とさえ考えている。もしイエスが、現在のキリスト教、とくに法王を中心とするカトリック教会や、アメリカの原理主義キリスト教を見たとしたら、「え! これが私のはじめたことの、なれの果てなの?」と、驚き、あきれるのではないか、と想像する。あくまでも個人的感想だが。

グノーシス 正統だとされるキリスト教が成立する過程で、さまざまな考え方は異端として切り捨てられた。異端の代表は「グノーシス」(Wikipediaを参照)である。グノーシスという呼び名も概念も後付けでできたものだそうだ。グノーシスと十把一絡げに呼ばれ、異端とされた考え方は、じつは多様である(先にあげた二著のほか、大貫隆「グノーシス考」[岩波書店、2000])。同じ多様性は、正統とされた考えの中にもある。新約聖書を読んでみれば、すぐに気づくことだ。四つある福音書の間に、細かい記述についても、全体を貫いている強調点にも違いがある。ヨハネとそれ以外は明らかに違う。ヨハネは、グノーシスに近い。後のグノーシスの源流の一つともいわれる。そのほかの新約文書について、細かいことはいわないが、こんなものが正統なの、と思えるような文書や文章表現がある。たとえばヨハネ黙示録、あるいはヘブル書。今度見つかったユダの福音書と、その宇宙観、終末観の記述など、五十歩百歩だともいえる。

正統から異端までの多様な考え
 正統とされたもの、異端だとされたもの、その歴史については、いろいろと語られている。私は細かい学術的議論はよく知らない。少しかじった程度で、大胆にいえば、正統な文書と、異端とされた文書は、その主張において、グレーゾーンを介して、連続的につながっていると思える。そんなに画然と黒と白とに分けられない。それほど、原初のキリスト教団には、多様な考え方が併存した。それは自然なことではないか。イエスのことを伝承を通して知り、霊的な経験をし、それをどのように言い表すか。それぞれなりに、いろいろなとらえ方があったろう。多様でいい、といえる。

正統と権威は人工物? しかし、宗教としての教団はそれでは保たない。あの考え、この考え、それぞれにいい、とはいえない。それではまとまりが保てない。信じるものの中に権威がうち立てられ、権威の上下が生まれる。そこに宗教が組織となるときに避けられない欺瞞が生まれる。人間の考えの上に権威を置く。権威を根拠づけるレトリックがうまれる。イエスからの命を受けたとか、天国の鍵を授けられたとか。しょせん神話だが、説得力を持つ。正統とはそのようにして、人工的に産みだされたものに過ぎないのではないか。こんな言い方をすると身も蓋もない。信仰あつい人々は、霊の導きによってとか、正典は「神の言葉」であるというだろう。

ユダは裏切り者? そのようにして正統が確立されると、疎外された人々ができる。異端と呼ばれる。この「ユダの福音書」を産み出したグループもそれだろう。イスカリオテのユダは、現在正統とされている福音書の記述からすれば、イエスの弟子でありながら、師を敵の手に渡したとされる。この結果イエスは十字架上で刑死した。ユダは裏切り者の烙印をおされていた。一方キリスト教の標準文法からすると、イエスの死は、神の意図するところであったとされる。神の子がこの世に現れ(「受肉」などという変な言葉で呼ぶ)、十字架上で死ぬことで、すべての人の罪を身代わりに引き受ける(「贖罪」という古代的考えを引きずっている)。それがイエスの生と死の意義である、というのがキリスト教の標準文法だ。となると、イエスの死は、人類の救済のための必然の死であった。神の意図であった。それなら、ユダは、そのシナリオ上の一つの役割を担っただけはないのか。ユダの裏切りのせいでイエスは不本意な死を遂げたわけではない。ユダを裏切り者とすることと、イエスは死ぬべくして死んだ、ということと、つじつまが合わない。なんだかおかしい。

ユダの福音書の成立背景 「ユダの福音書」では、ユダは、イエスの命を受けて、ローマの官憲にイエスを渡した。イエスもそれをよしとした、と書かれているらしい。それどころか、ユダ以外の弟子は、ほんとうのことが分かっていない中で、彼だけは真理を告げられた、とされている。ユダの立場を擁護する、我田引水の勝手な主張にみえるが、イエスの死が神の予定したこととすれば、このストーリーもありうるだろう。正統とされる福音書に描かれている弟子たちの姿はみっともない。互いに功名争いをし、自分こそ最愛の弟子だと争う。イエスの最後にあたっては、裏切ったり、離れていったりした。ユダだけを責められるか、と思える。しかし、伝承の中で弟子たちは、使徒としてあがめられ、ユダは裏切り者扱いされた。「ユダの福音書」の成立の背景には、正統とされた教団から、疎外され、離反したグループが、ユダを見直すことで、自分らの正当化を図った事情があるのだろう。

贖罪の死ではない ユダの福音書は、イエスの十字架の死に、贖罪の死という神学的意味を押しつけない。むしろ、イエスの魂を肉体からの解放する手助けをした、というように解されている(ユダの福音書には、こういう言葉が書かれいるという。「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、・・・」)。正統派キリスト教の標準文法から大きく離反している。それは、グノーシス的で、古代によくある考え方に染まっている。しかし、贖罪の死という考え方自体、古代的思考の枠組みに捉えられていることからすれば、正統も異端、さしたる差はない。

殉教は無駄だ もう一つ、この福音書で特異なのは、殉教の死を無駄死にだとしている点だそうだ。最初にあげた NY Review of Books の書評では、そのことに注目し、今回の翻訳出版で、肝心の点で誤訳があるとしている。この文書が書かれた時代(2世紀前半)キリスト教徒は、激しい迫害の中にあった。多くの教会指導者は、殉教の死は、イエスの死に与ることであり、喜んで死に赴くべきだとして、迫害のもとにある教徒を励ましている。「ユダの福音書」に「あなた方(教会の指導者)は、群衆(信者たち)を間違って祭壇の上に連れて行っている」との一節があるそうだ。翻訳者は、祭壇の「前に」と誤訳しているらしい。キリスト教徒たちは、その信仰ゆえに、ローマの異教信仰の慣習に従おうとしなかった。それが帝国の秩序を乱すものとして官憲から目の敵にされ、迫害された。指導者は間違っている。無駄な犠牲は避けるべきだ、信仰を内心に秘め、最後の審判を待つよう、信者を導くべきだと、この文書はいう。信仰と殉教と、難しい判断を迫られる当時の時代状況の中で、このような主張もあったのか。これは新しい発見ではないか。

原初の教団の中の多様な考えの一例 こう考えてくると、単純な異端ー正統、黒と白で論じるべきではなく、原初のキリスト教団の中に多様な考え方があったという、すでに知られている事実の、新たな傍証が出てきたことが、今回の発見で注目されるべき意義ではないか。正統とされる考え方が、どれだけ人々を縛ってきたか。それがその後の歴史のなかで、どれだけ人々に不幸をもたらしてきたか。そして今なお、人々を縛っているか(カトリックや原理主義キリスト教における、中絶、男女平等、同性愛などについてのかたくなな考え)。それを考えると、原初に立ち返り、イエス運動のあとに現れた多様な考えかたの存在を知り、現在のキリスト教のあり方を見直すことが大事なのではないか。

キリスト教を見直す 私は、現在のキリスト教は、いずれ立ちゆかなくなると考えている。主流派のキリスト教は、明らかに力を失いつつある。その動向に逆らうように、保守的キリスト教は、ますますかたくなになっている。そうでないと、信仰の牙城は守れなくなっているからだ。伝統にすがり、かたくなになることで、何かが守れるか。無理だろう。それとも宗教現象の新たな見直しから、新しい地平に出て行くのか。この新しい福音書の発見は、そんなことを考える一つの手がかりとなるのではないか。

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コメント

新聞報道を読んだことの域を出ませんが、おっしゃるように一方で護教的な、取るに足らず、といった捕らえ方があり、その一方で「ダヴィンチ」ブームに便乗するスキャンダラスな商業主義があり、バランスのとれた研究が阻害される要因が多いことが残念です。私としては「書物としての新約聖書」などの著書がある田川健三さんあたりが研究に乗り出されると面白そうだと考えておりますが。(ご返事を必ず書かれるのはお考えあってのことでしょうが、私の場合は聞き流していただいても結構です。特に異論があるわけでもございませんし。)

投稿: サム | 2006/05/30 20:07

サムさん、気の向くままにレスしています。気にしないでください。田川建三、高尾利和らが、私らの世代で、影響を受けた人たちです。本文に引用したもっと若い世代が、学問的にはより高いレベルの研究をしているよう見えます。たとえば大貫隆「イエスという体験」(岩波、2003)などいいところまでいっているのですが、最後には護教的になって残念、と私には思えます。

投稿: アク | 2006/05/30 21:01

自己コメントです。

文藝春秋7月号に、佐藤優(鈴木宗男問題で起訴された外務官僚)が、『21世紀最大の発見「ユダの福音書」』を書いています。まあ、面白いから読んでください。

「最大の」は、オーバーですし、今後キリスト教世界に大きな影響を及ぼすだろうというのも、どうかな、と思います。神学者カール・バルトが、この「ユダの福音書」と同じことを「教会教義学」で書いている、というのも、?です。ユダを悪者としないという結論でにおいては同じですが、意味合いは違います。

カール・バルトの数千ページに及ぶ、上記の大作のうち、この部分は「イスカリオテのユダ」(新教出版社、川名勇訳、1963)に翻訳出版されています。手元にある小冊子(懐かしい!)には一度読んだときの書き込みがたくさん残っていました。

もう一度読み直し、このエントリに補足を書けたら、書いてみましょう。その前に、ちょっと出かけてきます。

投稿: アク | 2006/06/07 22:39

ユダの福音書ですがたいしたことないです。公平にいって正統信仰は揺るぎません。180年ころエイレナイオスが非難していたカイン派の福音書の翻訳された写本が復元されたもので、二元論的に価値が転倒していてユダは義人です。ユダヤ的背景もないので歴史的ユダにさかのぼらないと思えるからです。
キリスト教保守派にはイエスセミナーのトマス福音書(アグラファ)を含むファイブゴスペルズ(未訳)や「偽造された聖書」のほうを突きつけたほうが正攻法だと思います。
また、アダムとイブにヘソはあったか?(マーチンガードナー「インチキ科学の解読法」)でもいいでしょう。
佐藤優氏はキリスト教は学問的神学といっていますが、私はライバル宗教の護教的でない学問的法学の進展も願っています。
これからも発見があることを楽しみにしています。

投稿: まさ | 2006/07/16 21:48

失礼します。       
   
 「ビジネスを強くするメッセージ」
       ご笑覧下さい 
    
 http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/
       
(営利活動ではありません)  
    

投稿: あだち | 2009/08/16 11:10

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