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2006/06/01

W杯の熱狂を避けて

 スポーツのもたらす熱狂が嫌いである。オリンピックとか、ワールドカップとか、国を挙げて熱狂するのが嫌いである。とりわけサッカーの熱狂ぶりは異常だ。スポーツ番組でも、サッカーとなると、テレビに登場する人は、異常な熱気を帯びている。「絶対」を頻発し、「勝ちます」と強い語調で断定する。野球やその他のスポーツでは見られないことだ。世の中「絶対」なんてものはないとかんがえ、「ぜったい」ということばを使わないよう心がけている私にとっては、まことに聞き苦しい。サッカー族が登場すると、直ちにテレビを消すか、チャンネルを変えることにしている。

 開会日が近づいてきた。すでにこの騒ぎである。これから先、テレビや新聞でワールドカップの話題を避けるのが難しい。国外へ脱出することにした。できるだけ辺境がいいだろう。折良くタクラマカン砂漠旅行の誘いが来た。ただちに誘いに乗って出かけることにした。W杯開会の日、6月9日出発というのがいい。11日間、砂まみれで、らくだに乗ったりしているうちに、日本での騒ぎは収まっていることだろう。

 人はどうしてスポーツに熱中するのか。そのことが分からないでもない。自分が何かのスポーツに興じ、技の向上に努力し、成果が出てくるのは、苦労もあるが楽しいことだ。素人の及びもつかない、プロのスポーツマンの高度の技を見て、すばらしいと感じる。個人個人の身体的能力は極限を目指し、超人的な境地に達し、そのような人々がチームとして連繋した強さを見せてくれ、最後の栄光に輝くシーンなど、何度見てもすごいと思う。人々の輿望を担い、強いプレッシャーを感じながらも、集中し、最高の力を発揮している姿にはゾクゾクする。ルールに従い、ぎりぎりで競い合い、駆け引きをし、その中でヒーローが現れ、最終的な勝利をものにする。まるで人生そのもののようだ。

 代表選手たちは、ある種私たちの代理者になっている。彼らがすばらしい能力を発揮し、結果を出すと、それはまるで自分がそうであるかのように感じる。日頃そんなすばらしいハレの気持ちなど味わう機会がないので、わがことのように喜べる。自分の人生、また自分の属する組織、あるいは自分の国が、勝利したかのような気分だ。その気持ちも分からないでもない。しかし、スポーツに、自分なり、国を、過剰に投影し、一喜一憂するのは、息苦しい。それをマスコミが節度を超えて煽りすぎるのは、あほらしい。新聞やテレビなどが、ほとんど一色に染まると、バカじゃないかとうそぶきたくなる。

 国を挙げて、「ニッポン、ニッポン」と、勝ちを求め、こだわっていくのが嫌いである。スポーツに関しては、誰しもがナショナリストになってしまう。その程度は、まあ許せる健全なナショナリズムではないか、とも思うが、とにかく好きでない。ほんとうにスポーツ好きなら、勝ち負けだけでなく、ゲーム展開の中に見られた神業のような身体能力やチーム力の発揮にもっと注目し、たとえ相手といえども賞賛したらいいのにと思う。

 インターナショナルトリビューンの論説者 Roger Cohen が、政治の話題を離れ、W杯のことで論説を書いている。[Globalist: Playing field as symbol for global conversation - Europe - International Herald Tribune(06/5/31)]

その最後にこんなことを書いていた。

               
 As Bill Shankly, the acclaimed manager of the English club, Liverpool, once said: "Some people believe football is a matter of life and death. I can assure you it's much, much more important than that.

 Of course it is: No truth could be more self-evident.

 リバプールのShankly監督は、こういった「サッカーは生きるか死ぬかの問題だという人がいる。断言するが、それより、もっと、もっと大事なことなんだよ」。Cohen はこう付け加えている。「もちろんそうだ。それはどんなことよりも自明な真理だ」。

 サッカーは、これだけ人を熱くさせる。そこには何かがあるのだろう。その熱狂も、その空しさも、分かった上で、このようなもの言いを楽しんでいる人は、それでいい。私は何も言うことはない。ただ私は、誰しもが熱狂する中で、冷めていたい。天の邪鬼でいい。冷めている、は、「醒めている」に通じると私は思っている。

 4年前も同じことをした。W杯は日韓共同開催だった。何しろ地元である。日韓の気分的競り合いもあった。日本中が沸き立つだろう、全期間日本にいない方がいい、と考えた。5週間スイスアルプスの麓で、山を眺めて過ごした。計算外だったのは、最終日、たまたまジュネーブにいて、決勝終了とともに、ブラジル優勝を喜ぶブラジル人たちの騒ぎに巻き込まれたことだった(HP本館の記事参照、ここと、ここ)。ジュネーブはブラジル人の町なのかと思うほどのものだった。私たちもお祭り好きである。ナショナリズムを超えた喜びの輪に加わった。帰国してみると、W杯の騒ぎはすっかり収まっていて、静かだった。今度もそうあってほしい。虫がいいが。

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コメント

私もニッポン、ニッポンというあの熱狂の声を聞きたくないと密かに思っているものです。残念ながらというべきか幸いにというべきか仕事に繋がれていて、あまりゆっくり見ることもかなわないでしょうから、タクラマカン砂漠からのメッセージを楽しみに待つことにいたします。フンザの裏側というか中国側にいらっしゃるのですね?

投稿: 猫犬事務所 | 2006/06/02 00:15

フンザの裏側、そのとおりです。フンザではグルミットまで行き、その先、フンジャラブ峠を超えれば、そこは中国。カラコルム・ハイウェイは、タクラマカン砂漠を迂回して、カシュガルまで通じている。行ってみたいな。そのとき、そう思いました。その夢が、思いがけなく実現することになりました。

投稿: アク | 2006/06/02 06:24

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