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2006/07/22

科学について風旅さんとの会話のために

 風旅さんは、ご自分のブログ『風の旅人・編集便りー放浪のすすめー』で、しばしば科学を問題視したエントリを掲載している。7/16のエントリ「なぜ、編集便りを書くか」のコメントのやりとりの中で、「私は敢えて西洋科学の悪口を言う確信犯です」と公言している。文系によくある単なる科学嫌いかとおもっていたが、それどころじゃない。科学と科学的思考は、現代社会に生きる私たちの思考をスポイルしていると、真剣に科学攻撃に乗りだしているようだ。半年ぐらい前だったか、私との間に科学を巡ってやりとりがあった(『風旅さんの想像科学』06/1/25、『風旅さんと会う』06/2/2)。最近またひと波あった。私は、風旅さんが何を考えているか、およそ分かるし、何かをいって説得しようとしても巨石は微動だにしないことも分かっている。今回は無難なコメントでやりすごそうとした。しかし、科学についての誤解は見過ごせないと、風旅さんに歯向かうかたが現れた。もっと勉強してから科学についてものをいいなさいなどと言い始め、あ、そのやり方ではダメダメ、と思っているうちに、この人も無駄なことをいったと自省して、矛を収めた。

 このままにしておいていいのだが、というのは、しょせん何をいっても、互いに分かり合えるとは思えないからだが、風旅さんの書いたものは、私を挑発し、考えるべき課題をいっぱいくれた。それを放置しては、自分の抱えている問題も滞ってしまうような気持ちでいる。風旅さんは、自分のブログを自分のテリトリーと意識されているようなので、そこに踏み込んで異論を唱えるより、私はこのブログをテリトリーとは思わないが、自分の考えるところは、こちらに書くことにしよう。

 一度に書ききれないと思うので、まず、今回シリーズの書き出しの「科学が未来を作るのではない(06/7/9)」を読みながら、考えてみよう。

 冒頭にこうある。

 科学技術は、未来を作り出しているように思われているが、実際には、未来を奪っているのではないだろうか。
 科学技術は、人間の実際の生活に役立つものを作り出しているかのように言われる。でも、それは、あくまでも今一瞬の便利さと解決に関してであり、少し長い目で見れば、決してそうでないことがわかる。むしろ、今一瞬の便利さと解決が、後の不便や苦しみにつながることは多い。便利なことに頼りすぎて、自分では何一つできなくなることが多いのだから・・・・。

 たしかに身の回りを眺めてみると、科学技術の急速な進歩で、テレビ、パソコン、携帯、テレビゲーム、オーディオなどから、車や飛行機、列車の移動手段、インターネットでの情報交換など、どれをとっても、私たちの生活の利便性はおおきく変わってきた。自分の少年時代はおろか、新婚時代(ワイフは洗濯板を持って嫁にきた)と比べてみても、隔世の感のある生活をしている。それでいて、人間として生きている気持ちの持ちよう、考え方はさして変わっているわけではない。今日(7/22)の風旅さんのエントリで、コメントを受けて、ドストエフスキー「地下生活者の手記」を、現代の科学者に真摯に読んでほしいと書いているが、人間の抱えている根元的な問題は、ドストエフスキーが深い問いを発したあと、科学技術の進歩如何で変わっていないし、変わるものでもない。むしろ、風旅さんは、人間の考え方が本来向かうべき方向からすると、科学技術のせいで、狭められている、バイヤスがかけられている、歪んでいると見ているようだ。それが「実際には、未来を奪っているのではないだろうか」という厳しい問いかけになっているのだろう。果たしてそうか。

 科学は、いろいろな分野でますます発展を続ける。技術への適用は、想像もつかない暮らしの変化を今後ももたらすことだろう。それが明るい未来かどうかはともかく、その流れはとまらない。未来を奪っている、とするなら、どうするのか。「科学技術を止めよ」と、思想運動を繰り広げるのか。それとも進歩する科学技術の支配する社会を避けて、隠遁流浪の生活をめざすのか。前者についていえば、60ー70年代に、ある種の反科学運動があった。カウンター・カルチャー運動と呼ばれた。ヒッピーや全共闘運動もその一環だった。生活スタイルとしての影響は残ったが、科学そのものにも、思想の世界にも大きな影響を残さないまま、波は去っていったように私は記憶する。他方、隠遁流浪を志向する人は、こんなに科学技術が進まない時代にもつねにあった。俗世間を逃れ、自分なりの世界に生きようとする。西行、芭蕉、山頭火、荷風、・・・。

 風旅さんが、科学の何を問題とするかを見、考えてみよう。会話を交わすことによって、人間の根元的な生き方を別の方向に求める風旅さんが、そんなに科学を敵視せず、背を向けず、共生する気になる着地点が見つかるかもしれない(と一応書いてみるが、望み薄だろう)。さて、先の 7/9のエントリでは、次のパラグラフで、こう書いている。

 そもそも科学というのは、私たちが生きるこの世界を、人間の解釈可能なものにする努力のことを言うのではないかと思う。
 解釈というのは、人間の意識で行うものだから、科学というのは、世界を人間の意識の範疇に閉じこめること。意識できる範疇が世界で、意識できない範疇は世界ではない。「科学の恩恵で世界が広がった」という言い方は、世界そのものが広がったということではなく、人間が意識できる範疇が広がったということにすぎないだろう。
 意識できる範疇が広い状態=世界の広さという認識は、意識の領域だけを重視している人の言い分であり、無意識の領域の広がりを世界そのものだと感じている人は、まったく違う尺度の広大深遠な世界に生きている。

 意識、範疇、無意識など、使うボキャブラリーには不慣れだが、およそ分かる。意識を持ち出すのは、後段の「無意識の領域の拡がり」を、科学によって意識の中に閉じこめられた狭い世界という考えと対比するためなのだろう。しかしそうなのだろうか。

 科学は、世界を、人間の言語で説明しようとする営みである。複雑な世界が見せるさまざな姿を、試行錯誤を繰り返しながら、言葉(概念)を磨き上げながら、できるだけ単純でつじつまのあった説明をしようとしてきた。さまざまな分野・分科で成功した説明は、相互依存の関係にあって、いうなれば、ネットワークをつくっている。知識システムといってもいいだろう。それはまだ発展途上にあるシステムである。発展途上にあるということは、暫定的に成り立っているに過ぎないということ。今後の新しい発見や理論の展開で、抜本的に作り替えられることもあるということ。未知の外界とつねにふれあいつつ、未完成であることを承知の上で、具合の悪いところは、部分的にあるいはかなり全体的な調整を行いつづける、オープンシステムである。これまでのところ、世界解釈としてとりあえず成功しているとして、科学者のコミュニティーでは受け入れられている。しかし、科学が、世界なり実在を正しく反映している真理として受け入れられているわけではなく(そのように根拠づけることのできる拠り所は何もない)、とりあえず、科学者たちにとって共通に信じるに足るものとして受け入れられているに過ぎない。

 このことを、「世界を人間の意識の範疇に閉じこめること」といわれるなら、「閉じこめる」という表現にネガティブ評価を感じるが、そうなんですよ、科学は、それしかできないんです、とこたえるしかない。科学者は、科学の方法をもってする世界の説明に成功感を覚え、誇りを持っているが、他方、科学の方法だけで世界記述が尽くされるものでない(科学の方法ではこぼれ落ち、掬い取れない事柄がある)ことは十分承知で、その意味では謙虚でもあるのだから。「世界を人間の意識の範疇に閉じこめ」、それ以外に人と社会にとって大事なことはない、などと不遜に考えている科学者はいない。むしろ人間の文化活動の特異な一部を担っているにすぎない、と考えているだろう。

 科学を、世界を人間の意識の範疇に閉じこめるものと、決めつけた上で、風旅さんは「無意識の領域の広がり」に、科学を超えた世界を求め、そちらのほうが人間にとって本来的なものだと主張しようとしているようだ。無意識というのが的確なとらえ方か、あるいは言葉を超えたものというような意味合いかな、とも思うが、私もそれは分かる。科学の世界の外に、言葉で言い表そうとしても出来難い、人間存在について根源的規定のようなものを感じ、畏れる。しかし求めつつ、どこにもたどり着かないでいる。探求は続けるが。

 まだ風旅さんの7/9エントリの書き出しの部分だけしか取り上げていない。その先には「論理」を「経験」に対置し、論理より生き方だ、という大事な、しかし私にとっては気になる論点も出てくるが、長くなるので、1,2付け足し的なことを書いて、今回はひとまず終わりにしておこう。

 それは科学の専門性と、それが外見上見せる閉鎖性についてだ。風旅さんが科学の悪口を言いたくなる一つの訳がそのあたりにありそうだ。さきに引用した7/16「なぜ、編集便りを書くか」のコメントのやりとりの中でこう書いておられる。

 科学的なことであれ、政治的なことであれ、知識の多い少ないに関係なく、人は自らを偽らず私見を述べることができる状態を保たなければならない。
 政治的なことに対して誰かが自らを偽らず私見を述べる時、「きみの言っていることは正確な知識に基づいておらず、専門家の領域を侵している」とか、「きみの知らないこの知識に基づいて考え方を変えれば、きみはもっとマシになる」などと、政治的な情報知識を管理する人が、私見を封殺したり修正する時代を想像してみればよいでしょう。
 私は極端なことを言っているのではありません。科学も政治も同じです。言いにくいことに対して言えるような状態を保っていなければならない。
 現在社会においては、政治の悪口を言うのはさほど難しいことではない。しかし、西洋科学においては、学校などでもそうですが、非常にいいにくい雰囲気がある。それは、西洋科学が専門知識という壁を作っていて、それを登ってきてから意見を言いなさいと威張っているからです。だから私は敢えて西洋科学の悪口を言う確信犯です。
 知識の階段を登るのも自由だし、登らないのも自由。たとえ登らなくても、感覚に応じて私見を述べることができる。それを許し難いと考える知識偏重の頑迷なヒエラルキーの方が、人間世界を滅びに導くかもしれません。

 科学的なことと、政治的なこととを並列させて、政治について誰でもものがいえる。それと同じく、科学についてものがいえるはずだ。それだのに何か言うと、専門的知識が足りないといわれてしまう、これはおかしいのではないか、といわれる。なるほど。政治は誰もが関われるもの、民主制の下では、そうであるべきだ。科学はどうか。政治に対して政治学がある。政治学に相当するのが科学ではないのか。政治と政治学は違う。政治現象を対象にする知識システムが、政治学。政治学の中で何かものをいおうとすれば、君はまだ基礎素養がない、基本文献のあれこれを読んでいなくては、基本的な議論の仕方はこう、等々といわれしまう。やはりそこには専門知識という壁が存在する。政治と政治学の対応に相当するのは、実際の経済と経済学などがあるが、科学の場合は、自然と科学、なのではないか。それでも、自然と科学を対置したときに、政治と政治学はまだずっと近い。経済と経済学も近い。それに対して自然と科学は分野によるが、かなり遠い。自然といっても、私たちにとって日常的な自然もあるが、感覚的に捉えがたいミクロな自然もある。後者を扱う科学は、私たちにとって日常的な自然とは遠い。科学の先端分野ほど遠くなる。政治と政治学に近いのは、科学の分野では、たとえば気象と気象学がある。海の男や山男は、経験的に知っている気象現象について、気象学が一般化された説明を与えるとき、首をかしげ、おかしいよ、ということができる。しかしたとえば高エネルギー物理学の最先端の探求について、感覚に応じて私見を述べるなどということは出来ない。それを「知識偏重の頑迷なヒエラルキー」のせいだと悪口を言うのは、あまり当たっていない。それだけ科学の先端は、人間の日常から遠いものになっている。人間の日常感覚からかけ離れた知識システムなど、無意味ではないか、というのなら、それも一つの意見だ。しかし、世界を説明するという営みの先端はそんなところまで行ってしまっており、それがわれわれにとって無意味かというと、そのような探求からわれわれの日常に戻ってくるものがあるかもしれない。コペルニクスやガリレオ・ガリレーの時代に、望遠鏡で星の動きを追っている天文学者たちは、その時代の日常感覚からいかに遠かったか。しかし彼らの観測が、地動説をもたらし、宇宙観の変革をもたらした。

 もう一つ、科学は、もっともオープンに、フェアに、自動的に、真偽の選択が行われるシステムであることを言っておきたい。これが正しい、これでよし、ということの決定がこれほどフェアに行われる制度は、他の社会的制度、文化構造の中にないのではないか。知識の上でバリヤーは大きいことをもって、閉鎖的だといっても、どうしようもない。富士山の頂上には、あの登りなしには立てないのである。登りさえすれば、誰でもが自分の発見を報告することが出来る。それが正しいかどうかは、科学者のコミュニティの中で自動的に判定され、淘汰される。力による強制、権威による押しつけなどやっても意味がない。科学者はそれぞれたこつぼのように狭い専門領域で仕事をしている。アルキメデスやレオナルド・ダ・ヴンチのように、広範な領域にわたって博識ぶりを発揮する普遍人は、今の科学の時代にはあり得ない。すぐ隣の関連分野といえども、その先端事情を的確につかむのは難しい。しかし、他の専門分野の成果を信頼しているのは、どの分野でもフェアな選別が行われていることを信じていることと、ある程度真偽についての直感的判断を持ち合わせているからだ。

 なんだかあれこれ書いたが、風旅さんの書いたことのほんの一部だけしか取り上げていない。しかも私の書いたことは、風旅さんにとっては、見当違いだろう。カテゴリーミスマッチとでもいおうか。まあ、これを書いておくのは、風旅さんの挑戦が、私の内部に放置できない刺激をもたらし、自分のために考えてみ、書いてみる必要があったからだ。それでもこんなすれ違いを繰り返しているうちに、意外に話が通じるかもしれない、と願ってもいる。

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コメント

アクエリアンさん、こんばんは。トラックバック有り難うございます。コメントと違い、トラックバックは自分をあからさまにすることになるので、フェアですね。
 異なる識見にもとずく議論は、コメントではなく、トラックバックくらいの距離感が、本当はちょうどいいのだと思います。
<<人間の根元的な生き方を別の方向に求める風旅さんが、そんなに科学を敵視せず、背を向けず、共生する気になる着地点が見つかるかもしれない(と一応書いてみるが、望み薄だろう)<<。
 とアクエリアンさんが書いておられますが、一つ誤解があります。私は科学を敵視していないし、背を向けていないし、共生もしています。実際に隠遁生活を送っているわけではないし、背を向けていたら、科学に対する関心はまったくもたないし、こうしてパソコンをはじめ、科学技術と共生している。
 私が言っているのは、”次の一手”は科学ではないだろうな、ということです。そして、次の一手も科学だ!!、というスタンスで強要してくるものを批判しているのです。
 私は常に次の一手の為の新しい思考の仕方を探しています。そこに、「あなたは間違っている」と入ってくるので、「放っておいてください」ということになるのです。
 私は、次の一手は科学ではないという確信で自分のブログで自分の考えを展開している。もし、「次の一手も科学だ」という信念を持っていれば、自分のブログでその考えを展開すればいいわけです。未来については、誰しも自由に考えることができ、自由に作っていくことができる。「未来も、西洋科学の延長でいいのですかどうですか、本当にそれで幸福なのですか」というのが、私の問いかけです。
 「いや西洋科学の延長ではいやだ」と答えたら、「じゃあ西洋科学の恩恵の全てを捨てて隠遁生活を送りなさい」という極端な詰め寄り方をするのもおかしな話です。
 科学と非科学の原理主義者のような威厳をかけた戦いという構図にすぐになってしまいますが、私は全然そういう感覚はなく、あくまでも、次の一手をどうしましょうか、というスタンスで物を述べています。次の一手に関係ない言葉上の真理には興味がないのです。さらに、次の一手のために考える時に、それを曇らせるものに対しても嫌悪感を感じ、批判しています。その一例が、学校教育であり、メディアです。
 それは、私が、編集者というより、経営者的な感覚を持っているからかもしれません。経営というのは、分析よりも、次の一手が大事。それは多分、どんな生き物でもそうでしょう。

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/07/22 21:28

補足。
私が「科学」という時、それは近代西欧の科学を指します。
古代から人間は様々な方法で探究を行ってきており、その探究の姿勢そのものを私は批判するつもりはありません。近代西欧の思考特性を誰にも当てはまるように普遍化しようとするスタンスに、私は猛烈に違和感と反発を感じています。「世界観」は、風土など生活環境によって、各種様々であることが、望ましい。

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/07/22 21:37

早速のコメントありがとうございます。科学とその成果を享受している実態は、それはそれとして、別の道を求めていこうとする、そんなところが基本のスタンスでしょうか。

私は、ゆっくりしかものを考え、書けないほうですから、残っている大事な問題、新たに書いておられる「次の一手」という考え方など、またあらためて書いてみます。

「次の一手」は、かつて実存的投企との言葉でいわれた考え方に通じているのかな、と思います。個人としてのものの考え方を求める場面、ビジネスでの方針選択の場面、研究の段階段階で次をどうするかを思案する場面、・・・、それぞれで違うでしょう。このところお気に入りの言葉のようですが、私はいろいろな考え、価値観をぶつけ合って、会話の過程を経て、グループとして、コミュニティとして最善の選択をしていくといった常識的な処世を好みます。この点もゆっくり書いてみます。

「西洋科学」という言い方に、風旅さんの主張は汲み取っています。近代科学は西欧オリジンですが、その方法論は、こと科学プロパーに関する限り普遍的なものと受け取られています。しかし人間のものの考え方まで、科学的・合理的な思考・感じ方に染められることはないだろう、日本・東洋に固有の感じ方・考え方に西欧的なものに欠落している何かを求めてみよう。察するところ、そのような風旅さんの「次の一手」を、編集便りと「風の旅人」で見せていただくのを楽しみにしています。

投稿: アク | 2006/07/23 06:58

 アクエリアンさん、おはようございます。
<<私はいろいろな考え、価値観をぶつけ合って、会話の過程を経て、グループとして、コミュニティとして最善の選択をしていく<<
 もちろん、私もそのように思っています。しかし、このことを実現するためには、まず自分がカードを切らなければならない。私はそう思っています。そうしないと、今日、「価値観をぶつけ合って、会話をする」という場がない。メディアはメディアで自己完結し、文学は文学で自己完結し、科学は科学で自己完結しているのが現状ですから。
 それと、”自分の考え”を述べることも、あまりできていない。私のブログでの議論も、いろいろ会話が行われているような感じではありますが、実際には、相手側にとっての”自分の考え”を投げかけられていない。相手の人が知っている”常識”を述べてくるだけで、常識を述べることは自分の考えを述べることではないと私は思います。たとえば、私がメディアのことを具体的な事情をもって批判する時でも、「凡庸なケースで攻撃する傾向が強い」と、抽象的に述べてくる。そうではなく、反論があるならば、たとえば私が指摘していることについて、自分たちはなぜそれで良いと思っているのか、具体的に解答を示すべきなのです。
 科学についても、科学の置かれている状態を解説するのではなく、何をどのようにすることで科学が未来につなげていくか、自分の考えを述べるべきだと私は思っています。
 科学がどのような未来を開くか。そして、それを阻害するものは何なのか、ということを述べることが、自分のカードを切るということ。自分なりの次の一手を示すことで初めて、対話する相手も、自分なりの次の一手を示すことになる。
 私は、アクエリアンさんの言うように、日本・東洋に固有の感じ方・考え方に西欧的なものに欠落している何かを求め、そこに未来の可能性があるのではないかという考察を行っています。それは極論として西欧を排除して東洋になれ!という原理的なメッセージではない。東洋・日本的な世界観には、西欧的思考も包括する懐の大きさがあると思います。
 そのうえで敢えて私が時折科学を批判するのは、西欧科学のアイデンティティそのものを認めたくないからではなく、西欧科学の死骸にすぎないものに胡座をかく人が多く、(科学的と称して売り出されるおかしな商品が多い。ダイエットから、健康食品、住宅、子どものおもちゃ、・・・・)、そのように「科学的」という言葉の前に盲目的に思考停止状態に陥っていることが、未来の障壁になると考えるからです。

<<世界を人間の意識の範疇に閉じこめ」、それ以外に人と社会にとって大事なことはない、などと不遜に考えている科学者はいない。むしろ人間の文化活動の特異な一部を担っているにすぎない<<
 とアクエリアンさんは書きますが、本当にそういう科学者はいない、と言い切れますか?
 アクエリアンさんは、科学者が本来あるべき定義を示しているのであって、この定義から外れている人は、科学者ではない、と仰っているだけではないですか?
 定義上はそうでなければならないでしょう。しかし、実際には、科学者の肩書きを持ちながら、不遜な人は、ものすごくたくさんいると思います。
 具体的に示せ、と言われればそうしますが、敢えてそうしなくても、様々な科学の肩書きを持つ人の歪んだ行為は、ご存じでしょう。そして悲しいことに、メディアは、そうした人に近づきやすい。
 メディアの人が、真の科学者と対話するためには、努力を必要とする。タレントの女の子がインタビューというわけにはいかない。自分の深い見識も必要。さらに、そういう相手は、メディアを快く思っていないことも多い。
 しかし、モノゴトを科学的に簡単に分析して説明することで売り出そうとする科学周辺の人とは、タレントでも楽に相手ができる。さらに、そういう人は自己顕示欲も強く、メディアに好意的でもある。そうしたおかしな関係によって、「科学的なこと」が、世の中に浸透している。
 私が批判するケースは、ほとんどがこの範疇のことで、批判する理由は、科学とメディアと政府が結託していく構造が堅牢に築かれていくと、非常にきな臭いものを感じるからです。
 

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/07/23 09:51

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