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2006/07/24

無邪気で無難な科学者?

 先のエントリ(『科学について風旅さんとの会話のために』06/7/22)につづいて、風旅さんの問題提起を考えてみよう。先のエントリに、当の風旅さんからコメントをいただいた。風旅さんがブログで当初提起した問題をきっかけに、一部の問題点について書いただけだったのだが、コメントでまた問い直されてしまった。私はぐずぐず考える方だから、断片的にしか思考が及ばない。それを勘弁していただいて、つづきを書いてみる。最初から自覚しているのだが、風旅さんの発言をきっかけとして、自分の考えていることを書いても、それはいっこうに風旅さんに答えたことにならないということだ。すれ違ってしまう。それでも会話は続けたい。

風旅さんの大きな問い 先のエントリへのコメントで、風旅さんが書いてきたことの中にこうある。

 科学についても、科学の置かれている状態を解説するのではなく、何をどのようにすることで科学が未来につなげていくか、自分の考えを述べるべきだと私は思っています。(・・・)。科学がどのような未来を開くか。そして、それを阻害するものは何なのか、ということを述べることが、自分のカードを切るということ。自分なりの次の一手を示すことで初めて、対話する相手も、自分なりの次の一手を示すことになる。

大きな問いを科学者は不問に 大部分の科学者は「何をどのようにすることで科学が未来につなげていくか」、「科学がどのような未来を開くか。そして、それを阻害するものは何なのか」という大きな問いに答えようとしないだろう。彼らは科学研究が、人間の知の境界を拡げ、将来人々に幸せをもたらすだろうという、一般的な科学観を楽観的に受け入れるだけで、そのように大きな問いが自分の日常的な研究生活に関わりがあるなどとあまり考えない。彼らは個人としての、あるいは研究グループとしての研究戦略は真剣に考えるが、科学の未来などほとんど念頭にないだろう。むしろそんなことを考えるのは苦手で、時間の無駄とするだろう。自分の専門領域での研究の進展を予想し、自分はどのような方針で取り組んでいくか(研究計画)を必死に考え、その研究が役に立つことを訴えて研究予算を獲得する努力はするが、外の世界との接触はそこまで、あとは日々の研究に没頭し、その進展に応じて次の一手を考えるという、研究室生活に閉じこもる傾向がある。

無邪気で危険? しかし彼らの研究していることは、社会と縁が遠いかというと、近年では社会にすぐに影響をもたらすような研究もある。科学者は、自覚しているよりはるかに力を持っているともいえる。科学者のそういう生態は「無邪気で危険なエリートたち」(竹内啓、1984、岩波)と批判されるが、彼らはそれに比較的無自覚である。風旅さんの指摘(7/16『なぜ、「編集便り」を書くのか』)にあるとおり「科学の危うさに自覚的で」ある人は少ない。だが、それが問題かというと、私は必ずしもそうとは考えない。科学者は、がいして無邪気で楽天的である。ひねくれたものの考え方をしない。しかし、それでいいのではないか。「無邪気で無難な生きもの」で。もちろん科学者にもいろいろな人がいる。一視同仁にするわけにいかないが、風旅さんの先の問いを自分の問いとする人はほとんどいないだろうという意味では、共通するのではないか。

俯瞰的に答えるのが得意な人々 科学全体を俯瞰した視点から、科学がどのような未来を開くか、などと考えるのは、科学評論家、科学界の政治家、科学技術行政の専門家、最前線を退いて偉そうなことをいうだけの大先生、マスコミなどの寵児になっている科学者、風旅さんのいう「西欧科学の死骸にすぎないものに胡座をかくひと」、などで、そういう人たちは、真面目に仕事をしている科学者からは、本来の科学の世界の住人であるとは見なされない。そして、そういう人たちのほうが、風旅さんが問題とされているさまざまな科学の害毒を社会に向かって垂れ流しているように思う。

 皮肉なものである。本ものの生きた科学をしている人たちは、科学がどのような未来を開くかをトータルに考えているわけではない。自分の目の前しか見えていない。科学の未来について大きなことをいう人は、本来の科学の世界の住人とはいえず、科学の死骸の切り売りをしている。私が風旅さんに向かって強調してきた科学の本来的なあり方と、科学の実態の間には乖離があり、それが風旅さんのいう科学の危うさであることは認めよう。

個別が自動調整されて調和的トータルを 科学者がトータルな見方をしようとせず、自分の研究分野というミクロな世界に入り込んでしまっている、そういう専門化が問題なのだといわれるかもしれない。しかし科学の仕事はそういうもの。個々の科学者が個別問題にアタックし、個別成果が相互作用し、その集積が科学全体の活動となる。科学者ひとりひとりには、自分の関わる分野は別として、科学全体の現状も未来もしかと見えていないが、それをサムアップした科学は、予定調和的に未来を作り出していく。全体としては誰が計画したわけもなく、コントロールすることもなく、自動的に調整されながら、現時点からは予測もつかない地点へ到達する。科学の営みには、そのようなメカニズムが自然とビルトアップされているみたいだ。これはおめでたすぎる見方かもしれない。

暴走する面も 思いがけないところまでいってしまい、社会にとっての問題を生み出すことがある。たどり着き生み出すものの中には、原爆とか、遺伝子操作とか、クローニングとか、社会に大きな影響をもたらすものもある。知りたい、実現したいという科学内部での動機付けから出発して、結果としては、科学の内部では手に負えないところまでいってしまい、社会として問題を調整しなければならない局面も出てくる。結果を予測して、自ら研究の手を縛るというようなことを科学者はしない。むしろ他の研究者に先駆けてそこまでいってみたい、という動機で動く。科学者は自分の研究の必然性にしたがって仕事をしてしまう。これが科学の危うさの一つであろう。

あらためて風旅さんの問い ここまで書いてきて、風旅さんが7/9のエントリへのコメントツリーの中で書かれた

 私が「科学」のことを書く時、「科学」の分野の人がくださるコメントは、「科学はそういうものではない」という言い方がほとんどですね。ならば、どういうことが科学なのか、その素晴らしさはどこにあるのか、何がどう素晴らしいから自分はそれをやっているのか、科学によって人間の現状は変えられるのか、科学によって人間の未来はどう切りひらかれるのか、自分の研究はどのように世の中を変えていくのか、ということを自分の言葉で明確に語った方がいいのではないでしょうか。

の中にある「科学はそういうものではない」との答え方にしかなっていないのに気づく。また後半の問いかけには、そんなこと普通の科学者は考えないよと、応じてしまった。さんざん書いてきたが、これでは、風旅さんとはすれ違いである。ただ、風旅さんの大きな問いに答えようと考えてみたことが、科学の実態をある意味あぶり出してくれたようにも思える。

「西洋」科学、次の一手は科学か、など、コメントでいただいた問題は、また。

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