« 無邪気で無難な科学者? | トップページ | ロシアの核廃棄物引き受け、実現するか »

2006/07/26

合理的考え方を擁護して

風旅さんのエントリをきっかけに、科学のことを論じてきた(前の二つのエントリ)が、今度は合理的なものの考え方について書いてみたい。というのは、風旅さんの科学への疑念の裏に、合理的なものの考え方への批判があるように思えるからだ。風旅さんはそうではなく、「論理」や「科学的」などの言葉をふりかざすことで、ほんらい問題にされるべき事柄が見逃され、安直な結論がまかり通ることを批判しているだけだ、といわれるのではないかと思う。たしかに合理的考え方そのものを直接的に非難している言葉は見られない。だから以下に書く全部か、相当部分は、風旅さんへ向かっていうべきこととしては、当たっていないかもしれない。それを承知の上で、この機会に合理的なものの考え方について、日頃考えていることを述べてみよう。

合理的思考は近代西欧独特? 風旅さんが科学的ものの考え方を問題にするとき、それは西欧科学のことであり、「近代西欧の思考特性を誰にも当てはまるように普遍化しようとするスタンスに、私は猛烈に違和感と反発を感じています」(このブログの7/22のエントリへのコメント)とおっしゃる。科学をわざわざ西欧科学と刻印するのはなぜなのだろう。たしかに近代科学は西欧オリジンではある。それは市民革命、産業革命を経て、自由なものの考え方と、技術的な基盤を備えた、西欧に発達したという歴史的経緯はある。だが、その基礎となるものの考え方に、特段の地域性があるとは思えない。宗教的呪術的な影響から解放され、絶対君主的政治権力からも自由になり、自立した人間として世界に向き合うことができたとき、近代人が自覚的に取得してきた考え方ではないだろうか。それを「合理的思考」とか、「合理的精神」とか、まして「近代合理主義」などとよぶと、何か手垢に染まったニュアンスがして、あまり使いたくないが、ともかくそういう考え方は、今や西欧独特とは受け取られてはいない。日本にいるわれわれも、ふだんそんなに違和感を感じない。

江戸時代にもあった、合理的考え方 科学的思考は、明治の文明開化以後どっと入ってきたが、今でいう合理的なものの考え方は、外国移入とは必ずしもいえない。江戸時代をとってみても、当時の儒学者たちだけでなく、道をわきまえた武士たち、そして商人たちなどに、共通にあった考え方ではないだろうか。修得した知識と自分たちの経験にもとづいて、自分が納得のいく考え方・実践の仕方をするという生き方。それが人々の考え方としてすでにあったから、あれだけ急速な近代化を違和感なしに成し遂げることができたともいえる。

合理的・自立的考え方ができないことが問題では 逆をいうようだが、合理的なものの考え方は、私たちの日常では、それほど普遍的でなく、自明でもない。むしろ日常的に見られるのは、情に流されがちで、冷静に主体的判断ができず、周りの動向に影響され付和雷同するような考え方ではないか。たとえば今でも日本人の政治的判断などの局面でそれを感じる。合理的にものを考えることは、それなりの人間的陶冶がないとできない。経験に学びながら、決断的に選び取ることを繰り返してやっと到達できる考え方で、それができていない(中途半端にしかできない)人が多いのではないか。世にいわれる「賢い人」とは、そういう合理的判断力を持ちながら、それをあからさまに表に出す(智に働く)ことなく、控えめに理にかなった判断ができる人のことではないか。しかも自分の判断を絶対視せず、強引に主張せず、他人の違った考え方も許容する。合「理」には、各人の「理」と考えるところに違いがあることを、互いに受け入れる寛容性も含まれている。

割り切れない部分を許容する合理的態度 風旅さんが7/20のエントリで書いておられた「高速道路を作るために樹木や神社の裏山が削られるとき、不吉だな、なんだかいやだな、という気持ちを持つ、それをロジックが押し切ってしまう」という例。人にそのような割り切れない情の部分があることまで含めて、どのような解決をするかを話し合い、みなで納得のいく方策を得ようとするのが、本来の人間の「理」なのではないか。合理的態度ではないか。

西欧に見られる非合理の思潮 合理的ものの考え方が、お手本ともいうべき西欧社会でそれほど普遍的に通用しているか、というと、歴史は必ずしもそうでないことを教えてくれる。近くはヒットラーの台頭を許したり、2度の世界大戦を引き起こした。スターリニズムに行き着く共産主義思想を生み出したのも、西欧であった。今、内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」を読んでいるが、ユダヤ人を巡る数々の問題を生み出したのは、ユダヤ人側の問題というより、西欧社会の持つ非合理的情念のようなものなんだなと、私は感じながら読み進めている。科学技術文明が極度に発展したアメリカ合衆国で、キリスト教原理主義を奉じる人々が現大統領の大きな支持母体となり、そのために最近でも幹細胞研究を進める法案に大統領が拒否権を発動する、などという状況がある。こういう場合、乗り越えがたいほどの非合理なるものの厚い壁が存在し、それが彼らの生きることと深く結びついているのかなと感じる。人間は理性に軸足を置いて自立するよりも、何か盲目的に信従できるものに寄りすがり、自立を放棄したがるもののようだ。合理的なものの考え方は、そのようなあり方から人を解放してくれるものではないか。人間的なもの重視の考え方がさまざまにあるが、それを科学的・合理的な考え方と対置する傾向がよく見られる。私はそれは違うと思う。

抑制のきいた合理的精神 と、私が勝手に名付けている考え方が大事ではないか、と思っている。人間がしばしば非合理に走りがちであること、いや人間が本来的に非合理なものであることをわきまえた上で、そのあたりに目配りしながら、できるだけ理に依ってものを考えていこうとする態度である。何もかも合理的に割り切れない弱さを人が持つことを自覚しながらというか。あるいは空疎な理屈に走るのではなく、経験に学びながら、考えを修正していく以外に、理屈の上での根拠などどこにもないことをわきまえている態度、といおうか。

東洋・日本的考え方は救いとなるか 東洋的・日本的世界観を西欧的思考に欠落しているものを補完するものとして見直し、西欧的思考を包括するより大きな世界観を与えるものとして求めるのはいいだろう。たとえば「肌感覚」とか、論理を超えたデリケートな関係性などの、手がかりとなる言葉を風旅さんは書いている。それは論理や言葉を超えたものであるにしても、世界観としては最終的には、言葉にしなければならないだろう。いや、言葉にすること自体、論理に毒されることで、西欧思考に絡め取られる、とするのだろうか。

限界を知りつつ、限界の中に踏みとどまる 論理というか、知識・体験として獲得できるものごとの外に、直感でしか感得できないものとか、語りえないもの(悟り、指し示すしかないもの)があるとの主張があるのは知っている。そのような見方は西洋・東洋の閾を超えて昔からある。しかし、私は分からない、としかいえない。もしそれが非合理なものだとすると、いささか危うさを感じると思っている。合理的ものの考え方には限界がある。合理ですべてを貫徹することに無理がある。人間そのものがそもそも非合理なものだから。しかし限界を知りつつ、限界の中に踏みとどまっているべきではないか。そう私は考える。人と人との間では、合理的な考え方でやりとりし、身を処していくべきと、私は考える。非合理的な主張は、たいてい熱い。私はそれを避ける。クールに知性に訴えてくるものに耳を傾け、そこにとどまりたい。

|

« 無邪気で無難な科学者? | トップページ | ロシアの核廃棄物引き受け、実現するか »

コメント

 西欧が全世界に伝播させた近代的合理主義と、たとえば江戸時代の「合理的な精神」は、別ものだと思います。
 とりわけ重要なことは、感覚や感情を始めとする人間の「心」に帰属する全てが、西欧科学から合理的に排除されたことです。
 そういう意味で、西欧近代合理主義精神は、クールと言えるかもしれません。
 結果として、人間自らも、科学的に厳粛な世界のなかの素粒子の構成物として理解される。
 科学は「心」もターゲットにしているかもしれませんが、それは、生きた物としてではなく、物理的に、もしくは素粒子的に、または電気的に、脳のメカニズムとして機械的に論じられようとしているのではないでしょうか。
 そのように、「世界」と「心」を分離し、物理的な側面で合理的に事を進めてきたのが、西欧の近代合理主義ではないかと私は理解しています。
 そのようにして分離されて排除された「心」には、「手触り」とか「空気感」とか「気持ち悪さ」とかが含まれます。それらの主観的印象にかかずらうことを「不合理」とみなす「物理的合理主義」を私は批判しているのです。
 「心」というものに拘泥しやすい発想は、近代合理的な発想から見れば、非合理で熱い、ということになるかもしれません。
 しかし、その熱さもまた、自然界の気流の乱れのようなものかもしれない。気流の乱れは、未だ合理的に説明しきれない側面もあると思いますが、説明できないからといって、存在しないものではない。
 合理的にそのメカニズムを説明できなくても、何とどう関連しているかは、辿っていくことができるかもしれない。辿っていくと、論理的に説明できなくても、森羅万象が複雑に関連し合っていることは、肌感覚でわかるかもしれない。そして、自分の心もまた、物理的なメカニズムを理解できなくても、森羅万象との繋がりの中で未だ私たちには理解できない方法で、つながっていることが、何となくわかるかもしれない。
 そして、それを文字で表現することは、アルファベットでは難しくても、トンパ文字のようなものなら可能かもしれない。(例えばの話しですが、実際にトンパ文字は、そういうことをニュアンスとして伝え、ニュアンスとして理解する文字です。伝達方法としては曖昧すぎるかもしれませんが、事の本質は充分に伝わるので、それで良しとされる文字表現です。)
 人間の論理力で答えはでなくても、経験を通した得た肌感覚に配慮した上で、世の中で「理」を求めていく態度は、確かに江戸時代にもありました。
 しかし、西欧近代が推し進める合理性は、肌感覚という灰色部分を殺ぎ落とし、物理的な側面だけで捉え、その法則の外のモノゴトをクールに殺してしまう特性があるように思うのです。
 その特性に基づいた「開発」(例えばダムなど)が推し進められてきた結果として、様々な歪みが生じているのだと私は感じています。
 いろいろ書きましたが、問題は、「心」をどう捉えるかです。
 西欧的合理主義の論法が、人間の「心」にも充分に配慮したところで、合理的にモノゴトを行っていく性質を持っているものなのかどうかです。
 「心」を実態のない印象的なものとしてみなし、計算の外に置いているとしたら、それは、江戸時代などの「合理」とは異なっているのではないかと私は思います。

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/07/26 22:54

いろいろな意見が出ていますね。自然科学をやっておりますが、おもしろいことに研究の現場ではデータの表面よりそのまま読み取れる単純な結論よりも、風の旅人さんが書かれているような「悪い予感がする」とか「何かこのような感覚がする」といったような感覚的な仮説や感覚が大きなブレークスルーを生むことがよくあります。というか、単純な表面上でので解釈しか出来ない科学者は科学者とは見なされず、我々の業界では技術者もしくは研究補助と呼ばれています。
 しかしながらそのような曖昧な感覚を物質世界の中の方々に納得して頂くためには、そのアイデアを単純化した物質社会のルールによって辻褄があうようにうまく説明せねばなりません。如何に出来るだけ簡単に労力をかけずに多くの方に納得して頂けるか、この点が難しいところです。
 心の問題とのことですが、確かにそれは重要な点だと思います。科学者はこの遺伝子組み換え食物は安全だという。しかしながら消費者は遺伝子組み換えという名前が付くことでどうしても安心出来ない。しかし科学者は安全だから食えと押し付ける。このようなことは歴史的に繰り返されてきたように思います。

投稿: Aurora A | 2006/07/27 03:39

風旅、佐伯さん。早速のコメントをありがとうございます。またご自分のブログでこのコメントを敷衍して「合理と不合理」をお書きになったのも読みました。

Aurora A さんも、コメントをありがとうございます。

一つの例をお話ししましょう。お医者さんの松本進作先生のことです。このブログを読んでくださり、コメントも寄せてくださっています。お許しをいただいて実名を出したこともありますから、今回もそのほうがいいでしょう。以下先生からうかがったお話です。松本先生の直接の書き込みも期待しながら、紹介をしておきます。

長年内科医を務められ、今でも先生を頼り診察を受けたいという患者さんを診ておられます。先生が強調されるのは、「経験に基づく医療」です。「五感に基づく医療、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚に基づき、患者の訴えをよく聞き、感情を加えた全人的な医療」を主張し、実践しておられます。一人の患者の診察に30分はかけるというアメリカの医療現場を経験され、日本の医療が検査重視に偏っていることが問題だと訴えておられます。病気の判断には、あらゆる感覚を駆使して得た情報と経験を総合し、ほんのちょっとした兆候からある種のひらめきまで得て、診断を下す。それが名医なのです。検査漬けと一律の医療報酬制度は、名医の存在を不要としているようですが、それを嘆き、すべての医者に名医を目指そうと呼びかけています。

「経験に基づく医療」(Experience-based medichine, EBM)の対比されるのは、「科学的根拠に基づく医療」(Evidence-based medichine, これも同じく EBM)です。各種の検査と症状から患者の問題点を抽出し、過去のデータベースと照合し、患者の病気と治療方針を立てる、最近よく見られる医療です。一見科学的のようですが、松本先生は、それでは不十分だと主張して、「経験と科学的根拠に基づく医療」(Experience- and evidence-based medicine)の必要を強調しておられます。

松本先生の話を持ち出したのは、私が「合理的」と考えることの、最適例だと思うからです。先生ご自身もご自分のしておられる医療を、私のいう「合理的」なものとお考えのことだと思います。合理的な考え方、やり方は、別に、経験や、勘や、感情を排したり、対立したりするものではないのです。むしろそれらもひっくるめ総合して、合理的な判断が生み出されるのが正しいのでしょう。

Aurara A さんも同様なことを書いておられるように思われます。科学の現場は、私も経験がありますが、理詰めだけではありません。発見に至る過程では、むしろ非合理ともいえるようなひらめきや勘がものをいいます。理詰めでは、既知から演繹できることしか分かりません。創造的な仕事は、それを超える何かが必要です。ただそれは、何か超自然的なものからくるのではなく、これまでの経験や知識の記憶から、頭の中で何かの結びつきが生み出され、それが勘となるのでしょう。いつか風旅さんの書かれた「無意識」というのもそれでしょう。

風旅さんは、合理的なものの考え方の幅を狭く考えすぎていないでしょうか。またかなり偏った例から、科学全体を、また合理的なものの考え方を攻撃しているように見えます。

投稿: アク | 2006/07/27 10:15

>>風旅さんは、合理的なものの考え方の幅を狭く考えすぎていないでしょうか。またかなり偏った例から、科学全体を、また合理的なものの考え方を攻撃しているように見えます。>>

アクエリアンさん、上記のようなまとめ方は、少々、強引すぎませんか。私の文章をきちんと読んでいただければわかりますが、私は、<経験>とか<心>という曖昧なものを最初から除外したところから始めている<合理>とか<科学>を批判しているのであって、私がイメージしている真の意味の<合理>とは、<心>とか<肌感覚>とか<経験>を含んだものです。普通に読めば、そのように読みとれるのではないでしょうか。
 もしくは、アクエリアンさん自身が、科学を攻撃されることに対して防衛過剰になり、経験に基づいて<科学>に付加されるものも含めて全て科学だという答弁で、<科学>を正当化する論を組み立てられています。

 私は、決して偏った例から攻撃しているのではなく、事実として、ロボットを使った武器とか、遺伝子組み替えとか、経験を無視して科学的根拠だけに頼った医療が行われていることを指摘しています。「こうしたものを真の科学的なものとみなさない」という言い方は詭弁であり、これもまた近代科学の根底にしっかりの流れてきた発想で、それに基づいて今も活動をしている科学者は大勢いることを、科学者は認めなければならないでしょう。そうした間違ったものは自分の専門でなく、自分の専門こそが真の科学であるということではなく、近代科学の出発点で、既に今日の様々な科学的な問題を孕んでいるということに、立ち返って考える必要があるでしょう。
 近代合理主義と科学の発生時点から派生的に広がっていき、様々な経験を通して痛みを知り、修正が行われたものと、修正がなされていないものがある。
 修正されているものは、<科学的根拠>に頼りすぎる傾向に疑問を感じ、他の感覚を柔軟に取り入れたものでしょう。
 <科学的根拠>に頼りすぎることの危険性を感じることが大事であり、それは<科学>を冷静に見つめる眼差しがあってこそできることです。その修正も含めて<科学>だからといって<科学>を正当化していても、<科学的根拠>に頼りすぎて修正できない人たちに対する牽制にはならない。
 例に出された松本先生のことは、とてもよくわかりますし、まさしく、私が考えていることと同じです。
 しかし、松本先生が行われている「経験に基づく医療」も、「西欧科学」の一貫だと主張すると、だから科学は素晴らしいということで終わってしまいます。
 「五感に基づく医療、すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚に基づき、患者の訴えをよく聞き、感情を加えた全人的な医療」というのは、近代合理主義的な発想に基づくものではないと私は思います。
 そうした発想はすばらしいし、それこそが長い目で見て真の合理であると、私も文章で既に言及しています。
 しかし、「感情をくわえた全人的な医療」というものは、科学が重視する普遍的な視点ではなく、個人の固有の感覚を重んじる視点だと思います。
 近代合理主義の発想には、一つの普遍的な価値観であり幸福感が、全ての人間を万遍なく幸福にする、という狂信があった。だから、風土に関係なく同一の物やサービスが世界中に広がった。
 そして、もしそれがそうではないとわかり、個人の固有性に基づいた発想をするようになったとしたら、それは近代合理主義の終焉であり、異なる視点での「合理」を目指す運動ということになると思います。
それを具体的に行おうとする人は、「科学的根拠」に基づいた発想だけだと、無理があると自覚している人でしょう。
 そして、そうした望ましい運動も「科学」の一貫だと主張して「科学」を正当化するうえで、一つ大きな問題があります。
 それは、「心」をどう扱うかの問題です。
 近代西欧合理主義に基づく「科学」のロジックのなかで、「心」を、どう説明していくのか。
 「心」を物質的メカニズムではなく、異なるメカニズム(例えば”気”など)のなかで捉えていこうとしているのか、そうではなく、あくまでも、それを主観として排し、脳生理学的に捉えるのか、です。
 ”気”という発想がどこかにあってはじめて(例えば”病は気から”など)、全人的な医療が行えると思いますが、”気”というものを科学的に説明できない非科学的なものとして排除すると、「科学的根拠」のみに頼る傾向を抜け出すことができないでしょう。
 果たして、”気”もまた、近代西欧合理主義科学の発想に含まれるのでしょうか?

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/07/27 13:30

補足

”ひらめき”や”勘”が科学の現場で大事なことは素人の私でもよくわかりますが、”ひらめき”や”勘”も、西欧近代の合理主義や、科学で説明できることなのでしょうか。これらの感覚は、はるかなる昔から人間が重んじていた感覚であり、にもかかわらず、近代以降、疎かにされやすくなったものかもしれないと私は思います。
 だとすれば、松本先生の医療は、近代以前に遡り、人間が潜在的に備えていた感覚を取り戻す努力のように私には思われます。
 それとこれは大事なことなのですが、私は、例えばロボット武器をはじめ、「心」を排した科学的根拠だけに基づく対応を批判する時、「科学が本質的に備えている問題」に思いをめぐらせることで批判するという論じ方をしています。
 それもまた、一種のひらめきや勘によるところが大きく、厳密な実証的根拠を優先させたものではありません。
 それゆえ、その論じ方に対して、「それは科学の一部にすぎない。科学には他の側面もある」と実証的に反論することは簡単なことなのです。
 しかしそうした実証的反論を行ったとしても、過去の辻褄合わせにすぎず、前に進むことができません。大事なことはそこにあるのではなく、例えばロボット武器など、心を排した科学的な根拠に基づく対応を、科学の領域の人がどう思うのかと、それを科学のロジックで批判できるのかということです。
 もし、科学的と称する領域のなかの動きに懸念があるとすれば、「ああいうのは科学ではない」と斜めに見ていても何にもならず、その人たちに異論を唱えなければならないでしょう。その際に、「自分こそが科学者」と自覚する人なら、自分が信じる科学の言葉で批判し、説得を試みる必要があるでしょう。専門外ということで逃げて、逃げた所で「自分は科学者だ」と言っているかぎり、誰もその人の言葉に耳を傾けることはないと思います。
 そして、その際、もしも「科学の力」を信じるなら、心を排した科学的根拠だけに基づいて行動する人にわかる「科学の言葉」で批判しなければならないでしょう。「良心に訴える」ということであれば、何も科学者でなく宗教家でよいし、宗教家の方がボキャブラリーが豊富なのですから。
 「説明するのではなく態度で示す」ということを言う科学者もいるかもしれない。もしそうならそれでいいのですが、そうした人は、私のように「科学の本質的問題」に思いを馳せながら今日的問題を批判する人間を逆批判しても何にもなりません。道を外れた科学者を、その人たちにわかる科学の言葉で批判したり説得せず、沈黙するかぎりは、科学そのものを批判する人たちに対しても、「態度で示す」というスタンスを一貫させなければ矛盾します。
 科学の表層的な正誤を私は問題にしているのではなく、科学を通して、現代の問題を見ようとしている。そして、そのスタンスを「非科学的で主観的なものにすぎない。部分の誇大解釈にすぎない」と逆批判されても、モノゴトは何も意変わらない。
 本質は、科学そのものにあるのではなく、現代の問題です。その問題を科学的に批判しながらクリアする術があるのなら、そうすることの方が大事です。私は、科学的根拠だけに基づく方法だと難しいと思い、「風の旅人」を作っています。「科学の正誤」とか「合理性の解釈や範疇」に囚われる発想は不毛であり、私の眼差しはそこにありません。

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/07/27 15:19

 噛みあうようでいて、なかなかうまくいきません。私が部分的なことしか書いていないからかもしれません。何しろ問題は多岐にわたるものですから。「心」が一つのポイントでしょうか。このエントリや、前のコメントで、それはいずれと思って先延ばししたのでした。

最初のコメントでこう書かれています。
>とりわけ重要なことは、感覚や感情を始めとする人間の「心」に帰属する全てが、西欧科学から合理的に排除されたことです。

その後にも何度か「『心』を排した科学的根拠にもとづく・・・」という言葉を繰り返しておられます。近代科学が「心」を排除している、という結論はかなり特殊で、私はあまり聞いたことがありません。むしろ「心」こそ、脳科学、心理学、心の哲学、認知科学、さらにはコンピューター科学まで含めた現代科学での最前線ともいうべきおおきなテーマで、私もその分野には素人ですが、大いに関心を持ってその進歩を追っているところです(脳についての書籍紹介を、HPとこのブログに書いています)。そのあたりは、コメントにある

> 近代西欧合理主義に基づく「科学」のロジックのなかで、「心」を、どう説明していくのか。
 「心」を物質的メカニズムではなく、異なるメカニズム(例えば”気”など)のなかで捉えていこうとしているのか、そうではなく、あくまでも、それを主観として排し、脳生理学的に捉えるのか、です。
 ”気”という発想がどこかにあってはじめて(例えば”病は気から”など)、全人的な医療が行えると思いますが、”気”というものを科学的に説明できない非科学的なものとして排除すると、「科学的根拠」のみに頼る傾向を抜け出すことができないでしょう。
 果たして、”気”もまた、近代西欧合理主義科学の発想に含まれるのでしょうか?(以上引用終わり)

にお答えすることにつながります。

「心」を物質的メカニズムで説明できるというのは、大部分の脳科学者が信じている仮説でしょう。その方向にむかって解明が進みつつあるとはいえ、道なお遠く、実証し尽くされているわけではありません。科学はこれまで何度もいってきましたが、「とりあえず」という但し書き付きで成り立っている知識体系ですから、実在を正確に写しだしているから絶対正しい、という言い方はしません。間違っていることがわかるかもしれないのです。にもかかわらず、大部分の科学者は「自然的なもので」、すなわち、何か神秘的とか超自然的とかいうものを持ち出さなくても、「心」にしても「世界」にしても説明できるという「信念」のもとに科学を進めてきているのです。

 ”気”とは、いろいろありますね。「病か気から」の気は、物質的メカニズムで説明がついていくでしょう。人間の情動は物質的メカニズムがかなり分かってきているようです。たとえば、ジョゼフ・ルドゥー「エモーショナル・ブレイン」(情動の脳科学、2003、東大出版会)を読むと、「好き、嫌い、怖い、楽しい、憂鬱、嬉しい・・・」などが物質的ベースを持つことが、解説されています。病は気からの「気」も、その気になると、ホルモン系なり、なんなりの脳内物質が、かくかくしかじか・・・と説明されるでしょう。別に科学のレベルを超越したことではないのです。「気功」となると、よく分かりません。気を及ぼす人がどういう作用で、被治癒者に効果を及ぼすか、なかなか説明は難しいでしょう。たぶん心理的な作用として説明されるのでしょうか。

風旅さんが、近代科学が「心」を排除しているというとき、科学は主観的な観点を排している、ということを意味していいるのかもしれません。たしかに科学は、客観的な、すなわち誰が観察しても同じ結論になる法則性を追求しようとしますから、そうお考えならその通りということになりましょう。しかし科学についての見方が近年変わりつつあり、かつて客観的真理として揺るぎないものと見なされていた科学が、人間の言語ゲームの一つと相対化され、文学や思想などと画然と区別できるものではないとの見方も広がってきています(私は、そのように見る立場にいます)。ですから、以前、科学は「これまでのところ、世界解釈としてとりあえず成功しているとして、科学者のコミュニティーでは受け入れられている。しかし、科学が、世界なり実在を正しく反映している真理として受け入れられているわけではなく(そのように根拠づけることのできる拠り所は何もない)、とりあえず、科学者たちにとって共通に信じるに足るものとして受け入れられているに過ぎない。」と書きました。あまり使い慣れない言葉ですが、「間主観的」に成り立っているに過ぎない、との見方もあるわけです。そこから主観的な見方へと道筋はつながっていて、思想や文学とも、現在はボキャブラリーが画然と分かれているけれども、いずれもっと広いボキャブラリー(そこでは、主観・客観の区別が乗り越えられているのかもしれない)で、越境した会話が成り立つというような未来も想定できるのです。私が最近よく読んでいる哲学者リチャード・ローティは、科学を「連帯としての科学」と理解しています(Objectibvity, Relativism and Truth, 1991, 未翻訳)。そこでは、客観的真理というある種の権力をもって、科学の正しさを押しつけるのでなく、みんなで科学の成果の当否を批判しあい、納得しあいながら受け入れていく、科学と社会のあるべき姿が主張されています。

そういう考え方から、風旅さんが、科学に反撥し、それを退ける方向ではなく、科学を社会の一つの営みとして、その問題性を糾弾しながらも(今回はいちいち書きませんが、私も風旅さんと同様、様々な問題について、ブログにも書いてきています)、ご自分の世界観、知的世界の枠組みの中に取り込んでくれたらなあ、とこんなコメントを書いている次第です。

また、問われたものの一部しか書けませんでしたが、とりあえず。

投稿: アク | 2006/07/27 17:55

うーん、困りましたね。
「心」を科学的なターゲットにするかしないかではなく、モノゴトを根拠づける時に「心」を通した説明がなされるかどうかということを私は申し上げています。
 世界の事象を客観的事実として受け止め、分子や原子レベルに分解するのと同じ発想で構成要素を細かく分けて、電気的、幾何学的、運動学的に語る科学の語り方は、人間の心が排除されていると思います。
最終的に根拠づけを行って論理的に説明される際、人間の手触りとか質感など言うに言われぬものは、主観的印象として徹底的に排除される。”ひらめき”とか”直観”は、モノゴトを進めるきっかけになることがあるとしても、世界を説明する際に盛り込むことはできない。それを盛り込むと、科学ではなく、文学であるとみなされるのではないでしょうか。
 そうした説明もまた「文学」の専売特許でなく「科学」でもある、ということであれば、「科学」の定義がそこまで広がったということになると思います。
 そして、それはやはり「科学」ではないというのであれば、「科学」の定義には、やはり”ひらめき”や”直観は含まれない。ひらめきや直観でモノを言うと、「科学的でないから科学的な根拠を示しなさい」と批判されるかぎりは。
 ”ひらめき”や”直観”が、モノゴトの創造に大切なポイントであるのは、科学に限らず、芸術だってビジネスだって、何だってそうなのです。
 それは、科学が登場する以前から人間が備えていた肌感覚であり、その肌感覚に基づいて生き抜いてきたのですから。
 そして、”ひらめき”と”客観的根拠”の両方を選択できる状態にある時は、何も問題ない。しかし、極限において、”ひらめき、直観、主観的印象”か”客観的根拠”のどちらかを選びなさいという状態になった時が問題なのです。
 そして、私が科学を批判するのは、”ひらめき、直観、主観的印象”を、”客観的根拠の下位に置いて、場合によっては切り捨てて、判断がくだされる場合です。心を排するというのは、そのように客観的根拠だけを最終的に優先させるスタンスです。
 そして、その思考の延長が、兵器ロボットや、遺伝子工学や、抑止力としての原爆という考えにつながっていると思います。
 科学の論理説明のなかに、”ひらめき”や”直観”が正当なものとして取り込まれ、ある場合には客観的根拠よりも大事なものとして扱われているのなら、私も問題ないのです。
そうなっているのであれば、私の勉強不足ということでしょう。
 科学者が”心”を持っているのは当たり前のことで、その”心”の働きを、科学的論理の中に記述できて、モノゴトを判断する根拠にできるかどうかです。
 近代科学が心を排除したところから始まったと私が書いたのは、科学的論理のなかに、心の働きを含ませて記述することを非科学的だとみなしたところから始まっているからです。そうでないのなら、単純に私の勉強不足です。
 でも、感覚的性質は人間の主観的印象に属するという理由で科学的考察から排除されて、宇宙や生物の構造など様々なことが分解され組み立てられてきたのではないでしょうか。
 「心」のことを、以前私はバッティングフォームのようなものではないかと書いたことがありますが、イチローのバッティングフォームを科学的に分析しても、イチローのようには打てない。フォームも「心」も客観的な存在ではなく、自分だけの諸々の関係性の中で築かれる唯一で固有の「主観的実態」だと私は思います。
 心を排除しない思考というのは、「普遍性」よりも「唯一性」を重視する態度ではないかと思います。
 科学が「唯一性」を重視するものになればいいなあと思います。

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/07/27 21:40

アク様

コメントするのは久々なのですが、こちらに場違いみたいに乱入して以来全く進化なしのまま、ごくごく普通の読者として風旅さんとの論戦(それ以前のエントリも)興味深く読ませて頂いてます。なるほど、根負けでなく根疲れなさることでしょう。思えばこちらのサイトにたどりついたのも、かつて風旅氏のブログに実にペイシャントにコメントを繰り返されてる「科学者」なる方に興味を覚えたからでした。今回再び静かに白熱した論戦を傍観する部外者としては、お二人ともいかに真摯に考え、言葉の限りをつくそうとされているかの態度に感銘しています。どちらのご意見にも、ただただフムフム、そうだよね、そうなんだよね、と思いながら結局、多分究極の果ての果てにはお二人の行き先は多分似通ったものであるのではないかとほとんど確信できるのではないか、と。
などとまたまた場違い読者なのですが、「私家版・ユダヤ人論」読んでいらっしゃることをキャッチしたとき、あ、私一週間前に読み終えてますのよ、いろいろ考えさせられました的感想しか今のとこないのですが、ちょっと前「ダ・ヴィンチ・コード」についてのエントリありましたよね、そこでちょこっとコメントしたかったのですが、というのも私は3、4年前アメリカでベストセラーになってるペーパーバックをしどろもどろに読んであの学者ロバート・ランクドンに思い入れがあったので映画化される際トム・ハンクスはないよな、(いかに彼がすばらしい演技者であっても)と思ってたのに上映されたのはそのヒトでした。
なんだかトンチンカンな読者の乱入でした。お許し下さいね。

投稿: ハルちゃん | 2006/07/28 22:33

ご両人とも暫くコメントがないところを見るとお疲れでしょうか。
横やりのようですが、補足させてください。現在の科学が「ひらめきや直感」のような心の現象を客観的根拠の上に置くか下に置くかというお話が風の旅人さんからありました。現代の研究現場ではどちらが上におくかというものではなく、正確な記述をするならば同列に扱われていると言えると思います。客観的事実だけしか認めないという行為は、それは何の創造性を持たない単なるデータの採取、すなわち試験であり、科学ではないと思います。データに現れないものは存在しないというような盲目的な読み方では人間の疾患のように複雑なものはとても理解出来ないでしょう。一方、感性だけに頼っては時には重大な診断の過ち、ひいては思い込みによる間違った診断に至ることになります。客観的根拠も十分に検討し、それにとらわれることなく自分の五感を総動員して感覚的な側面からも分析する。感覚的側面と客観的事実の両面から解析、統合的な仮説を立てる。仮説を検証する新たな客観的事実を得る努力を行い、その仮説を検証するというようなバランス感覚が重要なのではないでしょうか。感覚的なものと客観的根拠は車の両輪のようなものであり、その両方がうまくバランスがとれていないとおかしなことになってきます。具体的には、
1) 客観的事実に偏った例
 水俣では過去にメチル水銀による汚染に多くの健康被害者が出ました。客観的事実(工場排水による毒性実験)によって証明されるよりかなり前から、工場から排出される廃液が原因ではないかと多くの関係者から指摘されていました。しかしながら会社は客観的根拠がないと主張するだけでなく、自社の研究所で得られた毒性データまでも隠蔽しました。会社側はもっと直接的ではないにしろ、状況から得られる客観的事実、印象を重要視し、先回りした行動に出るべきでした。薬害エイズも同様の例であります。これらを良い例として遺伝子組み換え食品もしくは医薬品の安全性についても慎重に検討されるべきと思います。

2) 心や直感に頼りすぎる例
 野口英世という医学者が過去にいました。この研究者は梅毒の研究を初めとして多くの医学の貢献をしました。しかしながら野口博士は非常に多くの間違った結論の論文を出版しています。例を挙げるなら、彼は小児麻痺の原因は梅毒の一種であると結論しました。小児麻痺はポリオウィルスが原因であることは現代では明らかなのですが、彼は梅毒での研究で成功していたのでそこからの直感を重視するあまり、自分の仮説にうまく符合する事実を繋ぎ合わせ、普遍的事実として発表したのです。また彼は科学を自分の立身出世のための道具と見ていた節があり、現代で問題となっている科学における不正行為のはしりにあたるのかもしれません。恐ろしいことにこの研究はノーベル賞の候補にもなりました。同様の例として自然科学者を語ったおかしな宗教家がはびこっています。

 風の旅人さんが書かれている合理主義というのは何か一昔前の19世紀後半に、心霊現象や宗教などは非科学的だと短絡的に決めつけていた時代の科学を指しておられるように感じました。しかしながら現代の科学はそのような宗教的もしくは心の活動まで解析の対象を広げています。具体的に一言で述べるならば、そのような心の活動は脳における神経回路の電気的興奮と化学的な蛋白質の変化の累積現象です。死を恐れる心は種としてより有利に生き残るために遺伝子に刷り込まれたプログラムです。また見知らぬものに対して恐れや不安を感じることは、自己を守るために必須な自己防衛本能であり、このような感情を持たない方がかえって不自然と思います。現在の先端科学は心の問題を非科学的と切り捨てるのではなく、ヒトが感情の動物であることを前提により高度に解析しようとしていると個人的には理解しています。良心のある科学者ならばこのような点を十分に理解した上で、社会の方々の理解を得ようと努力していると思うのですが如何でしょうか。
 科学が世の中の方々を幸福にしてきたかどうかについては幸福の定義から始めなければならないのでもっと難しくなりますね。

投稿: Aurora A | 2006/07/29 02:15

ハルちゃん、お久しぶりです。

 続いてお読みいただいているそうで、ありがとうございます。ハルちゃんがコメントをよく書いてくださったころ、関心を持ち読んで話題にした小島信夫は、れいの「日記」は読んだのですが、「寓話」は保坂さんが努力して刊行した本を買ったきり、まだ手つかずです。それより「作家の遍歴」を読み始めたいと思いながら、時間を取れずにいます。そのころ話題にしたレヴィナスもなかなか本格的に取りかかれずにいます。むしろ風旅さんとのコメントのやりとりで書いたローティを学ぶのにしばらくかかりそうです。

 今回の風旅さんとのやりとりは、真摯に深く人間や世界のことを考えようとしている点で互いに共鳴しあうものがあるのですが、立ち位置とか、志向が違うのでしょうか、言葉が行き違ってしまうようです。しかしこうして言葉を交わすことで、少なくとも私の方は、自分にない考え方を知ることができ、自分の考えを深めなければという刺激をもらい、ありがたいことだと思っています。読んでくださっている方も、それぞれ何かを受け止めてくださるでしょう。

 このブログには、ますますかたく難しいものを書くようになり、ワイフすら、読んでくれないほどですが、自分の関心のおもむくままに書いていてこんなになっています。コメントしようとしても、取っつきにくかろうと思いますが、ときどき気軽に書いてください。

投稿: アク | 2006/07/29 10:16

Aurora A さん、長文のコメントをありがとうございます。

疲れて、そろそろこの話題は、行き着くところまでいったかな、といった状態です。ご覧になったかと思いますが、風旅さんはご自分のブログにも書いておられ(トラックバックの項目にあります)、そこに私は昨日コメントしています。二人の会話は、風旅さんの7/9のエントリから始まり、そこにいろいろな意見が寄せられていたのですが、それがひとしきり終わったころ、私がこちらに書きはじめ、エントリやコメントの連鎖が続いたのでした。Aurora A さんのコメントも含め、結論など出たわけではないのですが、いい会話ができたと思っています。

Aurora A さんが書いておられる、科学の研究における、直感的なものと客観的事実との関係ですが、上下を問題にするようなことではなく、直感が導き、事実で確かめる、そのくり返しだと思います。ただ、最終的には事実で確かめるというのが科学の方法でしょう。水俣の例は、まだ客観的事実がないということを何もしない言いわけに使った、科学の悪しき使用例でしょう。地球温暖化問題が似たような例となるかもしれません。野口英世の例に似ているのに、軍医長森鴎外が、脚気のビタミンB原因説に否定的に対応したことがあります。人命を与る判断をするとき、実証を待つては遅くなる、その時得られる限りの手がかりをもってどう決めるか、そこでも科学者としての勘が問われるのでしょう。

投稿: アク | 2006/07/29 10:46

 客観的根拠と、肌感覚のどちらも大切なのは当たり前なのですが、「最終的に」どちらを優先させるかというところで、立ち位置が違っているだけです。
 そして、どちらか一方だけでモノゴトを行っていて、その狭間の葛藤がない判断例は、科学の分野にも宗教の分野にもあることも、多くの人が既に知っていることでしょう。
「そういう科学や宗教は、正当なものでないと言ったところでしかたがなく、科学も宗教も、そういう状態を続けているものも、山ほどあるわけです。

>>風の旅人さんが書かれている合理主義というのは何か一昔前の19世紀後半に、心霊現象や宗教などは非科学的だと短絡的に決めつけていた時代の科学を指しておられるように感じました。しかしながら現代の科学はそのような宗教的もしくは心の活動まで解析の対象を広げています<<

 これはただ、解析の対象、つまりメスを入れる場所が広がったというだけのことであり、トラックバックで述べたように、判断に心を介入させないという部分において、本質的なスタンスは変わらないですね。
 
 宗教的なことを外から解析して理解するのと、そのなかの経験を通して理解するものとでは、全く異なる。中に入って、その状態になりきって理解しようとしないかぎり、わからない。
 人類学者が、外から机上の論理で少数民族を理解するのと、その中に入って理解しようとして足掻きながら、最終的にやはり理解できないのではないだろうかと葛藤する態度では異なる。川田順造さんとか、レヴィー・ストロースをはじめ、そうした葛藤を知り尽くしている人はいますが、その葛藤からの一歩こそが、科学だけに依拠しない新しい方法論だと思います。
 科学の人は、よく「現代の研究現場は・・・・」という言い方をするのですが、現代の研究現場も、最先端からそうでないものまでいろいろある筈で、最先端でないものは科学でない、というのは、可笑しいと思います。
 それよりも、「自分は・・・・」でいいのではないでしょうか。 「科学」を批判されようが、「それは間違った科学で、自分は違う」ということを態度で示せば、それでいいのではないでしょうか。実際に、おかしな「科学」というのはたくさんあるわけで、「それは科学でない、それらと一緒にしてくれるな!!」というのは、何とも不思議だなあと思います。そういうことの真偽は口で言ってもしかたなく、自分の仕事で示すしかないわけですし、もしも間違った科学があるというのなら、その両者の間で議論をして、どちらが正当か、やりあえばいいのですから。
 科学の外の人には正しい科学か間違った科学か、という権力争いのようなことはどうでもいいのです。間違った科学によって実際に何か問題が生じた時に害が及ぶのは自分たちなのですから。
 その時に感じるのは、「科学の害」であり、「間違った科学の害」だとは思いません。
 実際にそう感じる部分があるから、私はいろいろ「科学の害」を述べているわけで、それに対して、「それは不完全な科学だ」と、科学の領域から反論しても何もならないのです。その反論は、問題の解決に至るものではなく、自らのアイデンティティをかけた言葉にすぎないのですから。
 もちろん、自分が所属する組織とか場に自らのアイデンティを求めるか、自分自身の仕事にそれを求めるかの違いはあるでしょうが。
 

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/07/29 12:23

アクさん、風旅さんお二人の科学論争を興味深く読ませてもらいましたが最後はそれほど差がないように思いました。途中で私の名前「松本進作」が出てきましたので医療の現場からコメントさせていただきます。科学とは何かは別において我々の現場では科学的根拠なる用語が汎用されています。科学的根拠すなわち科学的データのみを重視することから血液や尿の分析データのみを信じて医療をおこなう若い医師が多いのに苦慮しています。私は科学的根拠は重要であるが、診断においては診察室にての表情、会話と視診、触診,聴診などで七割、残る二割が臨床検査で補っておりますがそれでも分からない部分が一割ぐらい残ります。その様な理由で最近マスメデイアでも普及している科学的根拠に基ずく医療(evidence based medicine)ではなく経験と科学的根拠に基ずく医療(experience and evidence based medicine)でなければ医療が崩壊すると考えています。数値データ以外の患者さんが発する信号や情報は経験を積み重ねなければキャチできません。聴診器は有力な武器であるが軽視される傾向があります。最近ある心臓病の患者さんを某大学病院循環器科へ紹介しましたが、先生はコンピュータ画面のみをみて聴診器をいちども当ててくれないのでイヤになった、他のところを紹介して欲しいと泣きつれました。おそらくその病院は電子カルテになっており、コンピュータのデータのみを重視していたのかもしれませんが、電子カルテの普及は本来の医療破壊になると恐れています。また、最近は医療
レベルの均一化のため各学会がやたらにガイドライン、ガイドラインーーーーを出していますがこれまた患者のためより医療訴訟に備える意味も否定できないとおもっています。今や循環器専門医と称する医師にも聴診器をまともに使えない人がいますが大学で教えられる教師が少なくなったからと思い、心配しています。科学技術はす晴らしとおもいますがまだまだ未熟で万能ではなく風旅さんはそのことに警鐘を発したものと思います。アクさんは元物理学研究者でニュアンスは風旅さんと少しことなりますが近いと感じています。コメントにならずながながと自説を述べることになり、恐縮です。  松本進作

投稿: 松本進作 | 2006/08/02 07:41

松本先生、コメントのやりとりの中で、思わず呼び出しをかけたりして、申し訳ありません。それに応えて、ご自身の言葉でお話しくださって、ありがとうございます。
 風旅さんとの話し合いの中で、科学の実践の場で、感覚で受け止め、感情をも交え、断片的な evidence の数々を統合して判断を下すケースもあることをいうのに、松本先生からいつかうかがったお考えが、その好例と思い出し、使ったのでした。風旅さんも、松本先生の例については、異存がなく、そのような判断を合理的と呼ぶかどうかの違いだけが(そうなると、言葉の使い方だけになるのですが)、残ったのでした。
 そんなことで、松本先生の科学的根拠と経験とに基づく医療、という実例が、今回の話し合いのまとめをしてくださったというように思えます。
 しかし、やはり残った問題は大きく、日常的な世界を挟んで、風旅さんのめざしている感性的な方向と、科学の実証的かつ専門的な世界にあるものの考え方との違いについては、私が風旅さんの主張が漠然なりとわかるだけに、もっと考えを深めて、どうして分かり合えないかを追究してみたいところです。

投稿: アク | 2006/08/02 21:11

 松本先生、コメント有り難うございます。松本先生の仕事のスタンスが「科学」・「合理」かそうでないかというのは、言葉上の定義の問題にすぎず、それはどうでもいいことですが、私は、自分の仕事において、ジャンルは異なりますが、松本先生と同じようなスタンスをとっています。
 たとえば「風の旅人」は、いくら高名な写真家や執筆者でも、いっさいプロフィールは記載していません。御本人そのものと向き合うことが大事で、たとえば受賞歴などデータ化された「権威」に目を曇らされたらダメだと思うからです。同じ理由で、マネージャーと通して間接的に話しをして仕事をするということも、行いません。
 出会いは一回一回が固有であり、その対話の際のニュアンスが大事だからです。
 私は、違和感を感じていることは、まさしく松本先生が指摘されているような「聴診器」を直接当てず(つまり自らの身体で経験せず)、科学的根拠と称する頭でっかちにわかっている態度が多すぎることです。それは、いわゆる科学研究の場だけでなく、社会の様々な局面に、同じような傾向で現れています。これはおそらく、この時代の思考の一種の癖ではないかと私は感じ、その原因はどこにあるのだろうと色々考えているわけです。そして、その原因の一つが、科学的な方法論や記述のなかに、既に仕組まれているのではないかと思うことが多いわけです。
 たとえば、
「心の活動は脳における神経回路の電気的興奮と化学的な蛋白質の変化の累積現象で、死を恐れる心は種としてより有利に生き残るために遺伝子に刷り込まれたプログラムで、見知らぬものに対して恐れや不安を感じることは、自己を守るために必須な自己防衛本能である」という記述などを「こういうものだ」という態度で学校などで教えると、大変まずい。
 なぜなら、これはメカニズムの説明になっていても、蛋白質とか神経回路とか遺伝子を生みだしたものの秘密が棚上げになっているからです。その部分はまだ研究中という言い方をするなら、xy=0 の、xがまだ未確定で仮のものにも関わらず、0を確定事項として説明していることになる。
 このあたりの疑問は、私の「編集便り」に書きました。
 http://d.hatena.ne.jp/kazetabi/20060731
 全てを物質的メカニズムで説明する態度の一番の問題は、ならば、その物質はどのようにできたかを説明しきれていないことです。
 もしかしたら「心」は、遺伝子とか蛋白質に従属させられるものではなく、物質を生みだした力そのものに近い崇高な存在かもしれない。
 人(特に日本人)は直感的に、「心」の崇高さを理解している。だから、「心をこめる」という態度が尊ばれる。だから、家庭とか学校で、一つの側面として、そういうことを教える。しかし、一方で、蛋白質に従属させられる説明が科学的になされてしまう。ここに引き裂かれが生じている。引き裂かれた状態で足掻き続けるのであれば、まだいいのですが、人間は楽をしたがりますので、どちらかに軸足を置きたがる。そうすると、言うに言われぬものよりも、説明が簡単な方に流れやすい傾向があると思うのです。聴診器だとニュアンスを読みとらなければならないけど、電子カルテだと、曖昧さがないなどと。 試験問題もそうでしょう。マークシートの方が、採点者の微妙な判断を入れる必要がない、だからコンピューターでも早く合理的に採点できる。今日の社会はそうなっています。こうした傾向は、医療を崩壊させるだけでなく、それ以上に大切な「心」を崩壊させます。
 多くの科学者は、内心、いろいろな葛藤があると言いますが、記述の方法論として、上に述べた「心のメカニズム」のような説明で、とりあえず決着をつけるという方法をとる。つまり、内心はどうだかわかりませんが、とりあえずは、わかったような顔で結論づけるところがある。
 しかし、物質が無から生まれた現場に立ち会ったり、心を外に取りだして手にとって調べた人は誰もいないわけで、見たり触れたり直接知っていないことに対する厳粛な気持や畏れを持てば、そのように根拠づけたり説明することに対して逡巡する気持があっていい筈なのに、その逡巡が弱くなっている。
 その逡巡のなさが、不気味です。
 機械的に淡々と論じられてしまう。感情も、痛みもない言葉が溢れる。私がブログで書き続ける懸念や批判は、そういうことに集約されます。
 もちろん、アクエリアンさんは、逡巡のない人ではなく、逡巡があるからこそ、こうして自分をさらけ出して人と向き合っており、おそらく、科学と非科学を融合した新しい思考と記述が必要だということも察しておられます。そうでなければ、「風の旅人」に興味をもっていただくこともないでしょう。
 そして、そのようにして現れる新しいスタイルもまた、科学者であるご自身の感覚と思考の延長にあるものなら、それもまた、アクエリアンさんにとって科学の延長であることは間違いありません。
 私もまた、素人ながら科学には大変関心をもってきた人間です。そして、「風の旅人」で掲載依頼する科学者は、従来の科学的な「記述」だと問題あるということに自覚的な人なのです。
 賛否両論はあるでしょう。しかし、賛否や正誤よりも大事なのは、しつこく書いていますが、社会の「次の一手」をどう読むかだと私は思います。そして、その読み方は、頭でっかちに解析するのではなく、自分で「社会」に聴診器を当てることだと思います。
 
 

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/08/03 10:20

 最後の方、間違っていました。「風の旅人」で執筆依頼している人は、科学者に限らず、従来の科学的な「記述」に問題ありと自覚して新しい記述方法を模索する人たちです。
 聴診器をあてずに間接的情報に依拠する「記述」は、報道や政治や学校現場や、その他の領域でも氾濫していますから。
 *先ほどのアップ、タイプミス多く、すみません。

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/08/03 10:41

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/36654/11108625

この記事へのトラックバック一覧です: 合理的考え方を擁護して :

» 合理と不合理 [風の旅人 編集便り   〜放浪のすすめ〜]
 人間に限らず、自然界のモノゴトは、最終的に合理的にできているように見える。数億年もの歳月を生き抜いてきた昆虫などを見ても、極めてシンプルで合理的な生存戦略を持っているように感じられる。省エネでなくては、生存競争の激しいなかで、長く生きていけない。だから... [続きを読む]

受信: 2006/07/27 02:03

» 実証主義の呪縛を超えたい [風の旅人 編集便り   〜放浪のすすめ〜]
 先日及び、今年の一月に科学のことについて対話を行い、神楽坂で一度、お食事をともにしたアクエリアンさんのブログで、下記のようなお医者様に関する記述があった。 「長年内科医を務められ、今でも先生を頼り診察を受けたいという患者さんを診ておられます。先生が強調... [続きを読む]

受信: 2006/07/28 12:30

« 無邪気で無難な科学者? | トップページ | ロシアの核廃棄物引き受け、実現するか »