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2006/08/20

短く簡潔な語りを危惧する

 短いセンテンスで、簡潔に語り、書くこと。自分の主張を明解に相手に伝えるさい、まずは心がけるべきことだ、とされている。ほんとだろうか。昨今、それがいき過ぎになっていないか。私たちのなかに、私たちの間に、現実にある問題は、きわめて複雑に絡み合っており、スッキリとは割り切れない。複雑・多様な現実の中で、短く簡潔に語る。その狭間に捨てられる現実の含み。それはきわめて大きいし、そこにこそ人の生きることの多様さがある。その含みへの眼差しを失い、粗雑な単純化をおこなってものをいう。そういう風潮が支配的になっていないか。

 信濃追分の山荘(前のエントリ参照)に友人達が集まっての楽しみは、ごちそうを食べることと、酒を飲むことはもちろんだが、何よりの楽しみは、おしゃべりである。女性連は料理を準備しながら、そしてその間に男どもはベランダの緑陰で涼風に吹かれながら、あるいはみなで食事をしながらと、何かにつけて、話しが弾む。夜ともなると酒がさらに饒舌にさせる。しかし、何年も同じメンバーで話し合ってくると、各人の主張の傾向は互いに承知しきってしまう。対立点も分かっている。最近では、とりとめのない無難な会話が多くなった。そんななかにも、新しい話題が少しはある。その一つとして記憶に残っているのが、昨今の「語りのスタイル」についてだった。話し合ったことを自分なりにまとめて書いてみよう。

 山荘の主人Aは、とりわけ話しずきである。手持ちの豊富な話題から、時に応じて話を切り出す。語りぶりは、さほど切れ味が良くない(ごめんね、Aさん)。まず何かをモゴモゴと話しはじめる。最初の1,2分は何を話そうとしているのか、見当がつかない。5分聞いても分からないことがある。たいてい私が、こういうことなのですか、と割って入る。そうなんだ、といいながら、話は続く。枝葉にそれる。また私が割って入る。いつもこの調子である。一度こんなことを言ったことがある。あなたの話は、行き先も決めずに航海に出るみたいだと。

 この人はジャーナリストである。あるテレビ局で報道番組を担当していた前歴がある。そんな現場での体験がこのような語り口を生み出したのだろうか。漠と感じた問題状況を、まずはそのまま提示する。結論を先取りしない。受け手に考えてもらう。それがいいのだ。この人の番組作りはそういう方針だったのだろう。ジャーナリストとしての基本的な姿勢だったのかも知れない。ここまで書いて、気がついた。同様なことをかつてこのブログに書いたことがある。『デジタル型とアナログ型』(04/8/10)である。

 私は、どちらかというと対照的だ。言いたいことをズバリと簡潔に語ろうとする。相手の受け止め方などあまり頓着せずに、ビシッという。少し過激に言い切った方が、話しが面白くなるというねらいもあるのだが、ユーモアのつもりが単なる毒舌になったりする。軽井沢から水戸への帰途のドライブ車中は、いつも反省会になる。連れ合いから、あなたの言葉は人を傷つける、もっと気を遣わなければいけない、とたしなめられる。自分でも反省しきりである。

 そんなふうに語り口のちがう友人Aと私とが、昨今の簡潔明瞭な語りをよしとする風潮はおかしいと、めずらしく意見が一致した。別に小泉さんのワンフレーズ・ポリティックスのことが念頭にあったのではない。最近の若い人たちのものの考え方、話し方に、短く単純に断言するをよしとする傾向があるようだと、私たちの世代は漠然と感じているのだ。Aは、放送業界の人として語りの早さをいう。かつてのアナウンサーの語りのテンポと、最近のそれとを比べると、ほぼ2倍のアップテンポになっているという。早く語り、それを分かってもらうには、短くセンテンスを切り、語尾に含みを持たせず、断定口調にする。文章で言えば、従属節をともなった、複文節文ではなく、単文節でワンセンテンスとする。これこれの問題については、こういうこともありますし、ああいうこともありますが、私は今のところこう考えるのですが、いかがでしょうか、というような冗長な語りを避ける。こういうこと、ああいうことへの配慮は思い切って割愛し、こうです、と語る。そこでは事態そのものの記述や、それを扱う論点分析に、著しい単純化が行われる。枝葉やあいまいな含みは切り捨てられる。

 しかし、世の中のほとんどの問題は、そうスッキリと割り切れない。たとえば、靖国問題。小泉首相は、心の問題と、きっぱりと言い切り、自分の主張のどこが悪いのだと開き直る。しかし、靖国問題は、その歴史にしても、歴史問題との関わりにしても、現在の政治的意味合いにおいても、きわめて複雑な問題だ。たくさんの人が多種多様な意見を持っている。ブログ上でもさまざまな意見表明を見る。問題を自分勝手な論理で単純化し、明解に結論づけた意見が多い。単純に賛否を問えば、相半ばしているようだが、賛成、反対の理由について細部を聞けば、意見分布はじつに多様だろう。モゴモゴと言うにいわれぬ感情をともなっていることも多かろう。

 簡潔な言説がまかり通る一つの原因は、自分で考えようとしないで、世に流布している定型的な意見をそのまま借りてきて自分の意見にする、という場合が多いからではないか。何かのテーマでエントリを書いたとき、トラックバックすべきエントリはないかとキーワード検索をしてみることがある。たくさんのエントリが引っかかる。ほとんどのエントリは、誰でもが取り上げる問題に、ありきたりの感想を書いている。短く、借り物の言葉で、反射的に書いている。自分で考え、論点をさらに展開する努力をしていない。

 私のブログエントリは長文に過ぎると、いつも自己反省している。しかし、このぐらいの長さでないと、意を尽くせない。一つの問題を取り上げれば、このこと、あのことに触れずして、自分の考えをのべ尽くせない。ついつい長くなる。部分部分は簡潔に短い文章で。しかし論旨を尽くすために、文を重ねる。枝葉はできるだけ避けるが、枝葉や、蛇足も時には必要になる。

 簡潔に短く言葉を交わし合うだけでは、民主主義は機能しないのではないか。多様な考え方のあることを互いに受け入れ合う。相手の意見をよく聞く。自分の考えも言葉を尽くして語る。そのうえで、互いに話し合いながら、妥当なとりあえずの一致点を見つける。そういうプロセスを繰り返す。絶対に正しい結論など、どこにもないというのが前提だ。間違っているかも知れないが、当面これでやっていこう、その程度にしか結論が出ない。そういうのが民主主義だ。テレビの政治討論を聞いていると、短兵急に相手の意見を切り捨てようとする発言が多い。意を尽くしてものをいう人、相手の言い分をまともに聞き、しっかり真正面から反論をする人は少ない。巧みに相手の弱点をつき、声高に紋切り型の罵倒をする人が、テレビ向きの論客として重用されるようだ。ネット上の意見交換も不毛なものをよく見かける。相手をウヨだのサヨだのとレッテルづけをしたり、罵倒したりしてこと足れりとする。とくに一行で斬って捨てるような、乱暴なコメントが乱れ飛んでいる。

 茂木健一郎の「クオリア日記」というブログにこんなことが書いてあった。パソコンがうまく動作しないことに関してなのだが(「その他」06/8/16

 ソフトウエェアの動作に影響を与えるパラメータが多すぎて、モグラ叩きには時間がかかる。ただでさえ忙しいのに、消耗するから、適当に付き合っているに限る。

 すっきりしないけど、コンピュータととの付き合いというのは土台そんなものだと思う。

 すっきりしないことこそが、生命活動の源泉になる。そんなところが、人間との付き合いの感覚に似てきている。

さらにその先に、

 John Lennonは、

Life is what happens while you make other plans.

と言いました。○○(関係ないので伏せ字、引用者)も、人生も、「その他」にこそ本質がある。

 このエントリで論じていることと直接対応しているわけではないが、昨今のものの考え方、語り方について、私がここで書きたかったことに通じるものがある。「スッキリしないこと」「その他」にこそ本質のある世の中。短く簡潔な語り口では、人生も世の中も語り尽くせないのである。

 Aさんの行き先を決めずに航海に出るような語りがどのような展開を生み出すか、私もこのごろは、端的に結論を導こうとせずに、じっくりと聞き、会話の進行を楽しむようになってきた。やっと私も大人になったのかも知れない。

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