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2006/08/03

科学は生の問題に答えない

 ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で、もっとも有名なフレーズは、最後の一文「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(論考.7)であるが、私には、その少し前に書かれている次の一節(6.52)がいつも頭にある。

 たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。

 科学の道を選び、物理学科に学びながら、科学と生の問題との狭間に悶々とするものを覚え、科学哲学の門を叩き、そこで出会ったのが、大森荘蔵先生であり、ウィトゲンシュタインであった。1957年。大森先生は、当時2度目の米国留学から帰ってまもなく。耳新しい分析哲学のエースとして知られていた。まだウィトゲンシュタインが何者であるか、日本ではほとんど知るひともなかった(「論考」の和訳が1968年)。先生は、わずか数人の学生を相手に、タイプ印字ガリ版刷りの "Blue Book"(「青色本」) をテキストに、ウィトゲンシュタインがケンブリッジでしたように、行きつ戻りつの思索を、私たちの面前で、見せてくれるのだった。

 ジイドの「地の糧」の「ナタナエルよ、・・・」を、ちょうど自分に向けられた言葉のように感じ、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などを読みふけっていた私にとって、ウィトゲンシュタインの語ることは、自分の問題に縁遠く見えた。しかしたちまちウィトゲンシュタインの精緻な思考スタイルに、そして大森流の哲学の仕方に魅了された。それ以後、それが私の思考の座標軸となった。

 一年間大森先生に学んだあと、科学研究の現場に戻った。私程度の才能で思想の世界で生きるなどできるはずがない。これはみずから悟った。科学の現場でまずしゃにむに仕事をする、何か考えるならそこでやればいい、というのが、物理から哲学へ転向して苦労された大森先生のアドバイスだった。哲学だけが考える場ではない、人生では考えることに事欠かぬ、別に専門化することはない、そのように私は受け止めた。この寄り道のあと、科学と生の分裂という根元的な疑問とウィトゲンシュタインを抱えて、科学者として生きてきた。

 今回の風旅さんとの話し合いは、私のこの古傷とも言うべきものにいたく触れるものだった。風旅さんの反科学ともいうべき主張に、おっとそれは違うよと口出しして、科学擁護のサイドに立ってしまったが、それは不本意でもあった。私だって、科学が人間にとって何なのか、疑問を抱えっぱなしなのだから。

 さて、最初のウィトゲンシュタインの言葉。科学がどれだけ極めようと、手つかずのまま残ってしまう「生の問題」。風旅さんが言われるのもほぼ同じことだろう。心を脳の働きとして記述することは進むだろう。しかしそれがどこまで極められようと、このように感じ、考え、悩む、この私というものは、説明し尽くされないと思ってしまう。膨大な数の神経組織の部分部分が、階層化され、複雑に絡み合いながら並列処理をし、内部でせめぎあい、最後には統合されて意識となる。客観的には、いずれ説明がつく。そのときに、この主観というのは、単なる思いこみに過ぎないのか。最後まで謎として残るのか。

 科学の言葉、思想の言葉、感性の言葉、そして私たちの日常の言葉、それぞれの言語のレベルの違いとして考えればいいと、私は思うが、それとて、しょせん説明である。自分が生きている、世界が存在する、このことはいつまでも解けない謎としてとどまる。ウィトゲンシュタインは、生涯その問題を悩み抜いた。哲学者としては、「語りうるもの」に踏みとどまったが、自身は、語りうるものの限界の彼方を求める求道者であった。「こちら側」の限界を明らかにすることに思考の限りを尽くしたように見えたが、じつは「あちら側」を求めることが彼の究極の関心事だった。「こちら」というより「あちら」の人だった。残された遺稿、特に日記の類が、赤裸々に彼の内面を明らかにしている。

 根元的な謎のあるところに、神、宗教、スピリチュアルな存在、究極的なもの、無限、などなど、表現はいかようにもありうるが、超自然的なものの出番がある。私にはそれは分からない。いまのところ分からないと言うしかない。今は、何も拠りすがるものがないというニヒルな心境に、あっけらかんとしてとどまっている。「生の問題」は疑似問題かな、という理解の仕方まで含めて考えている。その考究をさらに深めていきたいと思う。

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コメント

 アクエリアンさんの今日のエントリーを読んで、なるほど、やはりそうか、という思いになりました。
 私が生まれる以前に、大森荘蔵先生から学ばれていたとお聞きし、なんとも感慨深いものがあります。
 「科学」と「生」の間の軋轢や葛藤について、どのように決着をつけていくか。アクエリアンさんがこの問題を自分ごとして深く考えておられることは察しておりました。
 私も、科学を批判しながら、ただ安易に「超自然的」なものを擁護するという立場をとるつもりはありません。超自然的なものを主張している人たちの言説を聞いても、けっきょく概念的な言葉で説明しているにすぎず、心に響くものではありませんから。
 けっきょくそうしたものも、自分自身でモノゴトを探究していくというスタンスを放棄して、既に誰かがつくっている概念を借りてきて(それが仏陀やキリストであっても)、その概念を味方にして自分を正当化して胡座をかいているにすぎず、そうしたスタンスはどうも信用できません。
 既にできあがっている概念を借りてくるのではなく、自分の生と、自分と世界との関係と、自分と自分が触れあうものの関係などを自分の中で統合し、自分なりの方法で世界を理解し、自分の生の固有性を取り戻し、世界のなかの様々なモノゴトとの関係に折り合いをつけていく絶え間ない努力を自分に課していくこと。といって、肩肘を張るのではなく、自然に、自分の感じ方や考え方や世界の解釈を開いていくこと。
 そうした試みが私にとって「風の旅人」であり、そのスタンスの自由度と濃度を高めるために、時に、手前勝手な宇宙論を展開しているわけです。
 そして私が時に「科学」を批判するのは、上に述べた超自然的なものを信仰する態度と同じように、固定した知識やデータなど既にできあがっている概念の上に胡座をかいて、それを正当化するような態度をよく見るからです。それが、松本先生も困っていると仰る、「科学的根拠だけに基づく治療」でしょう。さらに問題なのは、超自然的信仰の盲信による害については、今も若い女性をターゲットにした教団のことがニュースになっているように、まったくないと言えませんが、それでも多くの人は、その胡散臭さを嗅ぎ分けることができる。
 しかし、「科学的根拠」をふりかざした様々な言説については、なぜか多くの人はうまく丸め込まれてしまっているような気がするのです。医療もそうでしょうし、食べ物や健康、そして教育もそうです。
 こちらの方の問題が根深いのは、マスコミがそれに乗じるからです。「宗教行為」には敏感に反応し批判をくわえるマスコミが、「科学的根拠」には、からきし弱い。「論理的説明」を権威のように感じ、またそれに対するコンプレックスのあるマスコミ人が、専門家の発する科学的根拠を簡単に流布させてしまうことに問題があるのだと思います。
 「プールで少女が亡くなった事故」を伝える大手新聞の記事に、「プールの事故に詳しい○○大学教授の○○さんのコメント」が、もっともらしく掲載されるわけです。「プール事故に詳しい」などという形容が笑ってしまいますが。そしてそのコメントは、「管理するものがきちんと管理しなければならない」という程度のことで、それが社会面に堂々と掲載される。
 こうした「科学的根拠だけ重視」+「安易な客観的説明」+「権威ある人が言った間接的情報を無責任に垂れ流すマスコミ」など、それぞれが自己保身のためにタッグを組んだ構造に、私は強い抵抗を感じます。この時代の権力は、実はここにあり、この部分にこそ目を光らせてウオッチしなければならないと思うわけです。イラクやレバノンに対する感傷的な報道に目を曇らされていてはいけないのです。
 レバノン問題にしても、何人死んだかという「数」とか破壊シーンばかりで、レバノンという国の微妙で苦しい立場が、誰にも伝わらない。遠いところで何か悲惨なことが起こっているなあという感慨だけしか伝えられていない・・・・。
 話しが逸れました。
 いずれにしろ、私はアクエリアンさんと「科学」と「生」の狭間の葛藤と軋轢について、対話していると自覚しています。「科学知識」の得意げな披露を目的とする人との話は不毛で、次の一手に対する啓示は何も得られませんが、たとえば1月のアクエリアンさんとの対話を通して、私は、「風の旅人」の18号と19号に私なりの魂を吹き込むことができましたし、20号の流れもできました。そして、今回の対話で、21号以降もまた、何らかのものを反映させて形にすることができると思います。
 私は1人で編集をしています。何人かの編集者と編集企画会議をするという形式で何かが深まるとは考えておらず、アクエリアンさんのように私とは立場の異なる人との真剣な対話こそが、新しい「思考の層」になるのだと思っております。有り難いことですし、楽しいと思っています。

投稿: 風の旅人 佐伯 | 2006/08/04 11:15

 たぶん読んでおられる方が、おもしろがりながらも、少しははらはらして、風旅さんと私との話し合いの成り行きを見ておられるかと思います。このエントリと風旅さんのコメントに多少安堵されることもあろうかと思います。

 私も対話が深まって、ここまで来たことを嬉しく思っています。異質のもの同士と感じていますが、話し合うことで、思考を刺激されています。そうだ、そうだ、と安易に分かり合えるより、きついですが(ほんと)、こうして緊張関係をたもって、真剣な対話を続けていきたいです。

 中程に書かれていた、『こうした「科学的根拠だけ重視」+「安易な客観的説明」+「権威ある人が言った間接的情報を無責任に垂れ流すマスコミ」など、それぞれが自己保身のためにタッグを組んだ構造に、私は強い抵抗を感じます』は、私もしばしば問題だと思っていることです。

 個別の問題はそれはそれで問題ですが、科学がなぜそのような役割を演じてしまうのか、構造的な問題があるのでしょう。それを風旅さんは感知して、鋭い問いを発しておられることはある程度分かっています。専門的な知識とボキャブラリーが、権力と差別をもたらすということを、もっと考えてみましょう。


 

投稿: アク | 2006/08/04 19:46

こんばんは、横から失礼します。
おふた方の議論を拝見して、とても良い刺激を頂いております。インタネットが無ければ、なかなかこのような貴重な対話を拝見するチャンスには巡り遭えなかったのではと思います。この混迷の世の中にあって、さまざまな学問が互いに深く関連し合い、統合されていくような、新たなる「知性」ともいうべきものが誕生するのではないかと、私自身は期待しております。
それは、以前編集長さんが語っておられた第三の道(方法)がキーワードになるのかもしれませんね。(ふと、思いだしました。)

さて、仏教では、八万法蔵という膨大な仏典の中にあっても、科学的なものに対して不確かなことは一切載せられていない、という事がしばし言われておりますが、これは「生」の問題を取り上げる宗教という全く対極にある立場としても、同様に(科学的な分野について)「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」に通じるものがあるのではと興味深く拝見致しました。仏の悟りについての膨大な仏典類が残されつつも、特に科学の分野である不確かなものに対しての言及がされていなかったということは、私たち仏教徒にとって、かえって誇るべきことでもあるのです。仏教にとって、理と文と論との三つの証が相即しなければ仏法とは言えず、何よりも「妄語(虚偽)」こそが一番の罪であるとしているからかもしれません。しかし同時に、実はこのお経文の存在自体も科学的説明が出来ない不可思議なこともあり、学べば学ぶ程奥の深い世界であると感じております。ご参考までに…
これからの対話も楽しみに致しております。

投稿: 梅吉(木曜の女) | 2006/08/04 23:27

梅吉(木曜の女)さま

コメントをありがとうございます。
仏教に、学ぶべき何かがあることは感じているのですが、そこまで手を伸ばせずにいます。身近に読みかつ考えなければならないことをいっぱい抱え、しかも考えたり書いたりがスローにしかできないからです。ときどき教えてください。木曜の女はRSSリーダーに登録してあります。長めのエントリを書くブロガーとして同類と認識しています。

投稿: アク | 2006/08/05 16:51

拙ブログに関心を持って頂きまして恐縮しております。
私こそ、先生のブログにて科学、哲学、諸々について学びたいと存じております。今後ともよろしくお願い致します。
さて、三証についての記述が間違っておりました。(汗。)
文・理・現でした。(論は誤りです。)
失礼しました。

投稿: 梅吉 | 2006/08/05 23:24

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 数日前、このブログで科学に関する対話を行ったアクエリアンさんと、その後、アクエリアンさんのブログで対話を行っていた。 科学について対話のために http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2006/07/post_5080.html 無邪気で無難な科学者? http://aquarian.cocolo... [続きを読む]

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