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2006/09/24

イスラムの強さ

 野町和嘉の写真展「イスラーム巡礼」で強く感じたのは、イスラムの人々の信仰の強靱なことであった。会場(吉祥寺美術館、9/16ー10/29)を出て、祝日夕方の吉祥寺駅近辺の雑踏に混じり、メンチカツを求める長い行列の脇をすり抜けるように歩きながら、たった今見てきたライラトル・カドル(ラマダーンの聖なる夜)の礼拝を撮った俯瞰大画像を思い出していた。米粒のようにしか見えない一人一人が、世界中からこの場所をめざして集まり、何百という輪をなして頭を下げている。百万人がこの夜一つ場所で祈りをともにしている。あるいはカアバ神殿を回る巡礼者の渦、ラフマ山で朝日を浴びながら一心にコーランを誦じる姿。同じ群衆、人の渦とはいえ、なんという彼我の違いであることよ。

 私らはイスラムのことをよく知らない。しかし野町の画像を見るだけで、これはただものでないことがわかる。野町独特の写真のアピールの強さによるところもさることながら、写し取られた実体の強さがその元にある。イスラムの強さはどこから出てきているのだろう。具体的イメージを排し、アッラーを念じる心の強さだろうか。世俗的生活と信心とを分けたりせず、信仰と生活を見事に一体化している、制度的な徹底ぶりにあるのだろうか。私たちが持っているイスラムのイメージはずいぶん偏っている。世界各地で起きているテロへの関わり、特に自爆テロ、イラクの混乱を収拾できない宗派対立、アルカイダ、タリバン、・・・そんなことがイスラムの印象を作っている。しかし近代化が遅れている国々に多くみられる信仰だからといって、イスラムのあり方を狂信・迷妄・誤謬とか、後進的だとみなして、軽視したり、侮蔑してすむものではない。

 近ごろよく一神教が間違っているのではないか、との意見を聞く。キリスト教も、その源流のユダヤ教も、イスラム教も、もともとは同じ起源を持つ一神教だ。同じ創造神を信じているといってもいい。それらが互いに仲が悪い。自分らの信仰のあり方こそ絶対正しいと主張しあって争っている。対立とそれゆえの原理主義への回帰が、文明の衝突かといわれる最近のさまざまな問題をを生み出しているともいえる。日本のように宗教に関してあいまいな社会に育ったものにとっては、厳格な一神教が諸悪の根元にみえる。多神教の神社を拝み、仏教の習慣も伝承するという、宗教的寛容性を持ち合わせた日本人的あり方こそ、宗教対立の世界での模範になりうる、という主張もある。靖国問題をあいまいにする理由にも持ち出される考えだ。しかし、野町の写真にまともに対面してみたらいい。あるいはイスラム国を訪ねてみたらいい、そんな甘っちょろい考え方は吹っ飛ぶ。吉祥寺の雑踏では通じても、イスラムの地では一笑に付される。

 先日パキスタンのチトラルでの朝、モスクを望む丘に立ち、晴れるのを待っていた。ドームやミナレットに日が射すのを前景に、その彼方にヒンズー・クシュ山脈の高嶺を写したい一心で2時間は粘った。若者が近寄ってきた。英語が通じるとわかると、ちょっとした自己紹介からはじめて、私に向かって神学論争を挑み始めた。地元の学生で、20歳だという。神を信じているか。この世界に創造者がいないはずはないではないか。時計だって、何だって作った人がいるじゃあないかと、よくある幼稚な神の存在証明論を繰り返す。じゃあ、世界は神が創造したとして、その神は誰が創造したのだい、とまぜ返す。神はもともと存在したのだ、という。じゃあ、世界だってあるがままに存在したとしてどうしていけないんだと、ときどきカメラのシャッターを切りながら、彼と他愛ない対話を続けた。こちらにとっては、軽くいなしているつもりだったが、彼は真剣だった。強く信じておればこそ、私のような行きずりの観光客にまで、同じ信仰を分かち与えたいと思うのだろう。

 カトリックの法王の発言が、イスラム世界から強い反撥を招いている。表現の難解な講演が、マスコミによって偏って伝えられたためこんなことになったと、遺憾の意は表明しているが、講演内容を正確に読んでもらえば、誤解が解けるはずと、謝罪はしていない。私も、「信仰、理性、そして大学」との題の英訳全文を拾い読みしてみた。信仰は、理性と深く結びついたものであり、暴力とは相容れない、というのが全体の趣旨であることはわかるが、部分的には、慎重な言い回し(14世紀の名前を聞いたこともないようなビザンチン帝国皇帝の発言の引用という形)ながら、ジハード(聖戦)をムハンマドと結びつけて非難している。法王は宗教者として、平和をもたらすものとしての宗教を強調したかったようだが、結果としてはあからさまなイスラムへの攻撃になってしまった。前法王ヨハネ・パウロ二世は、諸宗教の融和に熱心だった。イスラムとの協調も図ろうとした。現法王は、保守派の神学者だから、キリスト教教義を絶対化する方に傾いたのだろう。自ら行動で示すよりも、言葉で説得できると考えたのか。

 諸宗教の対立はどうなっていくのだろうか。キリスト教は、世俗化社会の中に存在感を弱めていくことはある一方、アメリカに見られるようなリバイバルが繰り返されよう。イスラムは強い。イスラム国が経済面で多少豊かになったからといって、この宗教が変わっていくことはないだろう。諸宗教が互いの違いを超克して一つの境地に達するなどということもあるまい。世俗化とともに、宗教を脱する方向へ進んでいくというようなことは、個々としてはあっても、全体に及ぶことはないだろう。せいぜい望みうることは、互いの信仰のあり方を排除し合うのではなく、互いの付き合い方を学んでいくことだろうか。他宗教のあり方を、自分らの宗教の言葉である程度理解するようになること。仕方なしでもいい、共存を受け入れることだろうか。力によってでなく、互いの理解と尊敬のもとに、エルサレムにほんとうの平和がくればとおもう。そのためには千年スパンの時が必要かもしれない。そのスパンで争ってきたのだから。

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