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2006/11/03

『海辺のカフカ』を読む

 いまさらであるが、旅の途上で村上春樹「海辺のカフカ」を読んだ。ふだん読めない長編を持参し、旅のつれづれに読む。スイスでは、トーマス・マンの「魔の山」(再読)、アイルランドでは、ロバート・ゴダードの「永遠(とわ)に去りぬ」と、旅先に多少関係したものを読むこともあるが、関係のないものを気分転換のために読むことが多い。今度もそれだった。

 小説は、わりとよく読むが、ベストセラーはさける。性分があまのじゃくだから、世間で騒がれているものには背を向けたくなる。ほとぼりが冷めたあと、じゃあ読んでみるかと手にする。村上春樹のものも、出版されてから時間をおいて、順不同に読んできた。「ノルウェイの森」は少し前に読んだばかりだ。タクラマカン砂漠を旅した時だったか。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、ずいぶん前に読んで、HP本館に感想を書いている。そこでも、それまで村上春樹を読む気がしなかったなどと書いてある。相変わらずだ。

 村上春樹を読んで、二つの点で気に入っている。ひとつは現代日本文学に稀な物語作家であること。もう一つは、著者の登場させる人物のキャラクターに、そして著者の語り口にとても共感できることだ。文学を広く読んでいるわけではないから、他の作家とくらべて、どうのといえる柄ではない。しかし、物語ならではの手段で、世界の重さ、深さを描き出こと、それが文学ということだと思うが、これだけの域に達している作家は、現代の日本にはいないように思う。

 私が物語り作家というときに思い浮かべるのは、トーマス・マンが「選ばれし人」(現代世界文学全集27、新潮社1953年刊、佐藤晃一訳)の序章「誰が鐘を鳴らすのか」で書いていることである。このように書き出されている。

 鐘の音、都の空に、全都の空に、響に溢れたなかぞらに、鳴り響く巨浪のような鐘の音。鐘、鐘、無数の鐘が振動し、揺れ動き、大浪のようにうねり、鐘樓のなか、釣鐘梁に吊られて大きく揺れ動き、バビロンの言語の混乱もさながらに、入り乱れては百千の声で鳴り響く。重々しく、しかも、敏捷に、響きつ鳴りつするのだが、・・・

と書きはじめ、ほぼ1頁にわたって、ローマのありとあらゆる鐘楼の鐘が、一斉に響き渡るさまを綿々と書き連ねたあと、こう矛先を転じる。

 誰が鐘を鳴らしているのか。鐘樓守ではない。彼らは、こうも法外に鐘が鳴るもので、皆人と同じく街上に走り出ている。納得してもらいたいものだが、鐘樓は空で誰もいないのである。綱はだらりと垂れている、それなのに鐘が大波のようにうねり、鐘舌が鳴りどよめいているのだ。誰も鐘を鳴らしている者はいない、という者があるだろうか。ーーいや、論理をわきまえぬ非文法的な頭の持主でなげれば、そういう申立てはできないであろう。「鐘が鳴る」ということは、どれほど鐘楼が空で誰もいないにしろ、鐘が鳴らされるという意味である。ーーそれでは誰がロオマの鐘を鳴らしているのか。ーー物語の精神である。

 このあとに物語の精神についての記述が5頁ほど続く。この書き出しが印象的で、若いころ読んだこの書のストーリーは忘れたが、序章だけは、いまだに折にふれて思い出す。小説を書くということは、こういうことなのだと、とても納得のいく表現だった。そしてトーマス・マンの小説を読むとき、「誰が鐘を鳴らしているのか、それは物語の精神である」ということの意味を感じ取れる。それと同程度に、物語の精神を感じ取れるのが、いまや村上春樹である。それは私にとっては希有なことだ。

 村上春樹が自作について語ることはめずらしい。どの本にも、文庫本にも「あとがき」はないし、マスコミなどにも登場しない。【06/11/1の朝日新聞の文化欄に、プラハで「フランツ・カフカ賞」を受けたあと、彼が人生ではじめての記者会見に臨み、記者の質問に答えたことが書かれていた】。その彼が、めずらしく自作「海辺のカフカ」についてのインタビューに応じたものが、ネット上にある(村上春樹「『海辺のカフカ』について、02/9)。

その中で、彼は、こんなことをいっている。

 たとえば『アンダーグラウンド』(地下鉄サリン事件被害者についてのノンフィクション、引用者注)の仕事をして、それが僕に与えたものの重みや意味を誰かに説明することって、事実上不可能なんです。もしやったとしたら、それはかなり偽善的なものになると思います。多かれ少なかれ言葉だけのものになってしまう。腹にたまらないというか、少なくとも人の心にはまっすぐ届かないんじゃないかと。新聞なんかのインタビューを受けていて、そういう質問をされるたびに僕の中に空しさみたいなものがこみ上げてくるんです。無力感というか。そういうのって僕のやるべきことじゃないなとつくづく思ってしまう。

 僕がやるべきことはたぶん、それを言葉で説明することではなく、物語という新しい土地に移しかえることなんだよね。というか、物語的にそれを俯瞰すること。そこにあるビジョンを、フィクション総体にぱっと焼きつけてしまう。たとえはちょっと変だけど、レインマンが床に散らばったおはじきを数えるとき、まずそこにある光景を静止したビジョンとして自分の頭にぱっと焼きつけてしまうんですね。いちいち数を数えたりはしない。小説家というのはそれとだいたい同じようなことをやるわけです。要するにものごとを別の回路に放り込んでしまう。そしてその回路の持つ特定の生理を通して物事を理解する。簡単に言えばそれがフィクション化ということです。

 これは、トーマス・マンの「鐘を鳴らすもの=物語の精神」の考え方に見事に一致する。世界から受け取ったものの重みや意味を、どれだけ思想の言葉で説明しようとしても、彼にとって、それは空しい。彼はそれを物語をもって語る。思想家は、難解な言葉で、世界と人間について語る。あるいは世界を言葉で表現することの根源とか、言葉の意味について語る。しかし小説家は、物語によって世界を語る。物語るということと、思想の言葉で何かを述べることとは、別のことだが、物語は思想の言葉以上に、深く、綜合的に世界を捉え、読むものへの訴える力が強い。そのような物語を、思想の言葉で語り直すことは、あまり意味がない。

 村上の小説を読むと、いったいこの物語の意味は何だろうという疑問に捉えられる。いや、そもそも物語に意味があるのだろうか、とすら思える。たぶん、あるとしても、それはストレートではなく、多面的なのだろう。世界から受け取った重みや意味を、言葉で説明することは不可能で、「物語的にそれを俯瞰する」と村上自身がいっているものごとを、また言葉でああだ、こうだといっても仕方がないだろう。

 なんだかとても長い前置きになってしまった。当の「海辺のカフカ」について書くのだった。小説の細部は、謎に満ちている。どういうことなんだろうと、考え込まずにはおれない。しかし、その細部を分析することは無駄というものだ。分析するのではなく、感じるのである。自分が15歳の少年カフカになって、物語空間には入り込み、彼がどのように考え、行動していくのかを、共感していくのである。知的障害者のナカタさんの心をともにすることもできる。ナカタさんの旅の同伴者となったトラック運転手星野さんの身になって、物語に入り込むこともできる。問題の石をどうするのか、どうやって「入り口」をふさぐのか。そもそも「入り口」とは何か。それに関わる使命をナカタさんは、どうして感得したのか。謎は満ちている。解けない。それでいい。共感しながら、物語の展開に身を委ねる。そうすることで、「物語の精神」が紡ぎ出す世界記述の、他の手段によっては感得し得ない、何かを感じ取るのである。

 「海辺のカフカ」は、これまでの村上作品の中では、もっとも複雑な構造を持っている。カフカ少年が主人公、ナカタさん、星野青年がサブのロールプレーヤであるが、その周辺に多くの人々が絡んでいる。図書館長の佐伯さんの物語が伏線としてある。それぞれの物語が絡み合いつつ進行する。ミステリー小説に劣らぬ複雑な謎かけがなされ、それが興味をつないで、一部は息もつかせぬストーリー展開で読者をぐいぐいと引きずっていく。ミステリー小説なら、個々のストーリーは、最後はひとつにまとまって、すべての謎が解き明かされる。パズルのピースが徐々に組み合わされ、最後のピースが収まるところに収まって、大団円を迎える。だが、村上の物語は、そのようではない。個々のストーリーは、読者に安易な納得をさせぬまま、放置される。あるいは突然の終わり(死)をもって、ふたをされる。読者としてはなんだか不審のまま取り残された気持ちになる。

 ナカタさんと星野青年は、いったい何のために高松までやってきて、何をやったことになるのだろう。佐伯さんの生涯を綴った3冊のファイルを完全に燃やしてしまうために? 入り口のふた開け、ナカタさんの死後、星野青年が時を待って閉めるという象徴的行為の意味は何だろう。大きな謎は、投げかけられっぱなしで、読者に残される。細部には、もっと多くの暗喩がちりばめられている。物語の細部と全体は、村上の、村上にしかできない「世界」の記述である。それを物語として受け止め、どこかに感じ取るものがあればいい。あるいは細部のアフォリズムを気にとめながら、読めばいい。「意味」を言葉で記述し直すことは、無駄というか、歪曲なのだと思う。

 それでも読むものは、それを腑に落ちるように理解したいと思う。文芸評論家は、細かく分析し、人によっては村上を論難する(小森陽一『村上春樹論』「海辺のカフカ」を精読する、平凡社新書06/5。これはたちの悪い誤読だと、私は思うが)。さきに書いたように、物語を思想の言葉に還元することは、無駄な努力のように思う。一枚の絵なり、写真を思い浮かべてみればいい。それらが描き出すイメージを、言葉で表そうとしたり、さらにはその意味を汲み取ろうとすることは、絵画や写真を、言葉という別のものに置き換えて理解しよう(還元しよう)とすることだ。それはどんなに無意味なことか。たとえばボッスの「快楽の園」、あるいはブリューゲルの寓話的な絵画を前にして、いったいこれは何だ、と考え、その細部の、そして全体の「意味」を読み取ろう、とするのに等しい。絵画はそれ自体として、ひとつの世界記述なのであって、言葉や意味では汲み取れない。物語もそれと同じなのだ。

村上は自作について語っている中で、あらかじめ、全体のプロットがあって、それに沿って細部を書いていくのではないと、語っている(先の引用と同じインタビュー)。

ーーこの小説ではいくつかの話がばらばらに始まって、それぞれに物語が進んで、絡み合っていくわけですが、設計図みたいなものは最初からあったのですか?

 いや、そういうものは何もないです。ただいくつかの話を同時的に書き始めて、それがそれぞれ勝手に進んでいくだけ。なんにも考えてない。最後がどうなるかとか、いくつかの話がどう結びつくかというのは、自分でもぜんぜんわかりません。物語的に言えば、先のことなんて予測もつかない。ただ、書き始めるときに「森のことは書きたいな」と思っていました。それは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のイメージの続きとしてね。だから先になって森の中の世界が出てくるということはだいたいわかっていた。わかっていたのはそれくらいかな。あとはもう、行き先は馬に聞いてくれみたいな・・・。

 小島信夫(先日訃報を聞いた)が、自作について同じようなことを語っていた。そのことについては、かつて書いたことがある(90歳、小島信夫の『残光』)。物語は、作者が書きはじめると、登場人物が勝手に動きはじめ、物語が進行すると。

 数々の未解決のままの世界をあとに、カフカ少年が、現実へと戻っていく、というラストに、希望が暗示される。父に反抗し家出をしてきたカフカ少年は、図書館での読書を通して、佐伯さんの過去ストーリーに巻き込まれることを通して、森へと入っていき戻ってきたことを通して、人の出会う不条理を、現実と幻想の狭間で経験した。それは男と女の関係、親子の関係、暴力、戦争、セックス、さまざまなことにあらわれている。佐伯さんの言葉「いろんなものをあるべきかたちからずらしてしまった」「それがまだ尾を引いて、今でもあちこちに歪みのようなものを作り出している」。佐伯さんは、入り口の石を閉ざし、すべての記憶を書きとめたファイルを消滅させ、自然死することで、蓋をする。同じ時にナカタさんも死を迎える。佐伯さんとナカタさんの物語は、それで終わる。しかしカフカ少年にとって、それは解決でも何でもなく、その物語の終わったところから、現実の世界へ帰っていく。読み終えたとき、何か世界が私たちにとって変わって見える。それが「海辺のカフカ」を読んだということだろう。

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コメント

>絵画や写真を、言葉という別のものに置き換えて理解しよう(還元しよう)とすることだ。それはどんなに無意味なことか。
 小説というのは普段我々が使っている言語で表現しているので、どうしても理屈を考えてしまうのかもしれませんね。でもアクさんの仰る通り【物語】として捉えれば、もっとスッと胸に入ってくるのかもしれません。
 思えば、子供は童話を論理的にではなく、もっとヴィジュアルに近いもので捉えているように思います。色んな経験や情報を見聞きした大人であっても、俯瞰的にと言うか、論理だけが先走らない【物語】の楽しみ方や感じ方があっても良いですよね。
 もっともその【物語】に読者を引き込むだけの筆力、並びにイマジネーションを持っている村上春樹は希有な作家だと思います。

投稿: keizo | 2006/11/05 00:43

ジロちゃん、はじめまして(笑)。よろしく。

 私の書くものは、時には、こむずかしく、「みやこさーん」にも読んでもらえません。面白いものもときには書きますから、そういうものにおつきあいいただいて,たいがいは読み飛ばしてください。

 来福、気に入っていただいたようで、推薦のしがいがありました。少量だけ醸造している小さな蔵ですから、ときどき味が変わるのですが、雄町ベゴニア花酵母が、私の常用のものです。私の主観かと思うのですが、生酒のせいか舌の上で発泡して、何かシュワッとするような感じがします。高知の「純米吟醸・酔鯨」も同じようなところがあります。また、日本酒談義をしましょう。

 私もNの日を続けています。ただし、私のNはノーマルのN。毎日変わらず、ふつうに飲んでいます。

投稿: アク | 2006/11/05 16:09

keizo さん、コメントをありがとうございました。

きのう、「風の旅人」22号の連載で、保坂和志が『「わかる」とは、どういうことか?』というタイトルで書いているのを読みました。小説や絵画は、なかなかわかってもらえない、「わかる」ということは、ふつう「言葉や既成の概念に置き換えられる」ということととられられているが、絵画や小説を、そのようなわかり方でわかってほしくない、ということを書いていました。私が村上の物語について書いたのもそういうことでした。

投稿: アク | 2006/11/05 16:20

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