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2006/12/31

言い過ぎだよ、桜井淳

 技術評論家・桜井淳が、自分を星野芳郎と対比して書いたエントリにコメントを書きたい。周知のごとく、彼のブログはコメントを実質拒否しているから、こちらに書く。エントリ全体については、私なりの感想はあるが、それは置いておこう。コメントするのは、彼が原子力の世界の表も裏も知り尽くした無比の立ち位置で原子力について技術評論ができると書いている部分の事実関係についてである。少なくとも私の知っている彼のキャリアからして、それは言い過ぎだろうといいたい。

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2006/12/25

吉本隆明は「いま考え中」と

 吉本隆明と笠原芳光の対談「思想とは何か」(春秋社 2006/10) を読んだ。気楽に読め、面白かったが、対談だから、そう深くはない。内容も、悪くいうと、つまみ食い的だから、それをあれこれ紹介することもないだろう。一カ所だけ、自分がぼんやりと感じていることをうまく表現してくれているな、と思った部分があったので、書きとめておこう。思想の将来について、とくに科学の進歩と対比しての思想の将来について問われて、こうだとうまいことをいえない。いえないのが本当で、何かえらそうなことをいっているのにはウソがある、というのだ。

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2006/12/19

もう一度、桜井淳へ

 技術評論家・桜井淳が、ポロニウムをめぐるやりとりは、自分の素朴な他意のない疑問を述べたまでで、お互い知り合い同士なのだから穏やかに終結しようよと、というようなことを私宛のメールのかたちで、自分のブログに載せている(ここ)。技術的な問題点をめぐる黒白の問題だったのに、それを最終的につけないまま、「誤解」だの、「物理学者の品格」だのということばで、終結を図ろうというのはだらしがない。

 私が、彼の名を明示して、彼の書いていることの間違いをブログに書く気になった動機はこうである。「ポロニウム再論」で書いたように、彼宛に送った直接メールの内容を取り込んで(悪いことばで言えばパクって)、彼が書いたエントリの内容やタイトルを修正して、論旨を微妙にずらすという、技術評論家としていかがかと思う行動をとったことだ。「ポロニウム再論」で、詳しく論じたことにまともに答えず、いまだにラジウム説に固執し、ポロニウムは半減期が短くてダメとか、ラジウムにはベリリウムから中性子をたたき出せるガンマ線がないことなどをその後も書いている。

 このやりとりで、技術評論家として数々の場で発言している彼が、物理の知識や判断能力に、かなり危ういところがあることを知った。彼に自宅に来てもらって話すとか(これまで何度かそうしている)、メールを送るとかしてもいいのだが、またパクられて、生半可な知識をひけらかすのに使われる。やはり公然と彼の間違いを指摘するしかあるまい。なお、桜井と敬称抜きで書いているのは、けんかを売るつもりでいっているのではない。第3者的に書く場合の慣習に従っているだけだ。

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2006/12/17

科学は、先駆する人によって進む

 うれしいメールを受け取った。今年度の仁科賞を受賞したT先生からのものである。受賞をお祝いする会が研究所であった、そこでこんな挨拶をしましたと、メールで書き送ってくれたのだった。うれしかったのは、この人をアメリカから呼び戻し、活躍の場を創った私とのなれそめのことを思い起こし、ことさらの謝意を表してくれたことだ。この人のように次期の問題領域を非凡な発想で見抜き、ねばり強く追究していく特別な人によって、科学は進む。科学はなんといっても人である。それに付随して、そういう人を見つけ出して、大いに働いてもらうよう仕組む「黒幕」が必要だ。馬喰(ばくろう)あるいは伯楽(はくらく)といおうか。T先生と私との関係は、そのようなものだった。そのような役割を多少なりと担ったことをうれしく思った。

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2006/12/13

弘前印象

 11月中旬に青森県の弘前に出かけたことは、すでに書いた(ここ)。パートナーの担当している用務があって出かけたのだが、ついでに初めての弘前を1日半ほど見て歩いた。その時に撮った画像から選んで、アルバム『弘前印象』を、所属しているニッコールクラブ東京デジタル支部の会員リレーギャラリーに投稿した。写真にご興味をお持ちの方にはご覧になっていただきたい。ここにある。このページは、じつは私のフォトギャラリー(このブログの右コラムの上の部分、「アクエリアンのフォトギャラリー」からリンクされている)の一部である。そこには、同時に今年の9月に「安孫子卓郎・写真道場」に投稿した「カラッシュ族」をテーマとする組写真も掲載した。おひまなときに、過去分とともにご覧いただきたい。

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2006/12/11

間違いの上塗りだな、桜井淳

 原爆の起爆装置(イニシエーター)にラジウムが使われたはずだとの、技術評論家桜井淳の説に、私が、いくら何でもそれはないでしょうと書いた(ここ)。桜井は、自説を補強すべく、核物理屋さんなどに訊ねて回ったらしい。やっと彼に有利な根拠が見つかったと、鬼の首でも取ったかのような調子で、新しいエントリを書いている。土・日と留守をしていたので、先ほどはじめて目にした。私が名指しで攻撃されているようなので、受けて立とう。彼のブログでの話題だが、前にも書いたように、彼のブログはコメントを(実質)受け付けていない。仕方がないので、こちらに書くことにする。この特殊な問題に関心のない読者にはおゆるし願いたい。

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小澤征爾、水戸来演、新曲初演も

 小澤征爾のコンサートが3日間(06/12/7-9日)、水戸で開催されていた。8日の分を聴いた。体調不良でしばらく休むと昨年末耳にしていたので、水戸室内管弦楽団の定期演奏会で小沢の姿を見るのはしばらく駄目かなと思っていた。今は徐々に復帰しつつあるようで、水戸の場合、例年2回だった来演を一回休んだあと、今年最後のコンサートに来てくれた。今年はモーツアルト年。その最後を交響曲ジュビターのメリハリのきいた指揮でしめくくり、小澤健在を見せてくれたのはうれしいことだった。今回は日本人作曲家の新曲を、ヨーロッパで活躍中の日本人女性ピアニストを招いて、本邦初演するというイベントつきでもあった。

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2006/12/07

早熟・天才児の Aaron Swartz に注目する

 若いときから異常な才能を発揮し、学校や大学をドロップアウト、起業して成功を収める。そんなキャリアをたどる異才の人がハイテク業界には何人かいる。とくにアメリカ。マイクロソフトの Bill Gates、アップルの Steve Jobs などの名が、すぐに頭に浮かぶだろう。本エントリで話題にする Aaron Swartz (以下、アーロン君、と書く)もそれだ。この人は、つい先ほど20歳になったばかりである。ローティーンのころからコンピューター・プログラミングの分野で頭角を現し、上昇気流に乗っている。次の世代の Bill か Steve になるかもしれない。いや、Bill や Steve はハイテクと企業経営の異才だが、アーロン君は、もっと多才だ。インターネット上の発言者として、既成のジャンルにはまらない存在になるのではないか。それが私の注目点だ。彼のブログを2年半ほど追っかけてきて、その多才ぶりと、広汎にわたる思考と、旺盛な文筆活動に感心してきた。日本でも一部の人には知られているようだが、私の観点から紹介してみよう。

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長かった、ココログ・メンテナンス

 昨日(12/6)エントリをアップしようとして気がついた。このブログを書いているニフティの「ココログ」が、長時間メンテナンスをやっていた。なんと12/5の午前10時から今日(12/7)の午後3時まで、丸二日を超えて、53時間。この間、閲覧だけはできるが、エントリの書き込みだけでなく、読者からのコメント、トラックバックを受け付けない状態が続いた。書き込めないと、メールでコメントを送ってくださった方もいる。申し訳ない。

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2006/12/02

科学と信仰、柳澤桂子のたどり着いた極点

 「文藝春秋」12月号の「般若心経・いのちの対話」を興味深く読んだ。柳澤桂子と玄侑宗久との往復書簡である。特に興味をひかれ、また疑問をもったのは、柳澤が苦悩の果てにたどり着いた世界観・宇宙観というか、宗教観というか、信仰の到達点を語りながら、それがいずれ科学によって明らかにされるはずだ、と強調することである。

 柳澤は、宗教と科学が同じひとつの目標を目指していると信じ、その方向へ思索を進めようとしている。これは無理なというか、まったく不要で、不毛に終わるに違いない。そう私はいってあげたい、と思った。柳澤ほどの極限状態での思考を経ていない私ごときが、大きなことをいえないのだが、柳澤があのような境遇の中で行き着いた極点で、なお大森荘蔵の指摘する「知の呪縛」(後述)に囚われているのが気の毒に思える。生命科学者であるだけに、すべてが科学の言葉で説明がつくはずという科学主義にこだわっている。科学でそんなにがんばらなくていい、もっと解放されたらいいのに、と願う。

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