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2006/12/25

吉本隆明は「いま考え中」と

 吉本隆明と笠原芳光の対談「思想とは何か」(春秋社 2006/10) を読んだ。気楽に読め、面白かったが、対談だから、そう深くはない。内容も、悪くいうと、つまみ食い的だから、それをあれこれ紹介することもないだろう。一カ所だけ、自分がぼんやりと感じていることをうまく表現してくれているな、と思った部分があったので、書きとめておこう。思想の将来について、とくに科学の進歩と対比しての思想の将来について問われて、こうだとうまいことをいえない。いえないのが本当で、何かえらそうなことをいっているのにはウソがある、というのだ。

 対談の最終回で「思想の未来」をテーマにする中で、笠原がポストモダンの人が盛んに使う「知」という言い方にネガティブにふれたあと、未来に向かう思想はどうあるべきかを質問すると、吉本はこう答える。

 いや、それは難しいというか、ただいま考えています(笑)、という感じです。(・・・)

 「知」というものと「思想」というものがうまく整合した考え方でいいきらないと、その流れ方に沿っていくことがいえないのじゃないかな。だからいまは考え中というしかない。もともと進歩的とか科学的とかいわれているものと、そうではない芸術、文学、哲学のようなものの思想がちゃんと整合していないと、そういう問題についてなにもいえない。むしろ「そういうのはないですよ」といったほうがいいとおもいます。つまり、こうだ、といえたらウソだとおもう。これはぽくの個人的な偏りもあるかもしれないけれど、いいことをいえたらウソになる、ためになることがいえたらウソになるから、そういうことをいわなけれぱいけないときはうんと用心したらいいのです。いいことをいっているとか多くの人の役に立つことという外観、外見をとらないことが必須条件だとおもえるのです。

 いまいいことをいっている人は全部ダメとおもったほうがいい。それだけは確実だとおもいます。道徳的な善悪はもちろんですが、思想的に知的によいことをいわざる得ないはめに陥ったときには用心深くというか、いいことをいっているのではないよ、という形をとりながらいいことをいう以外にないとおもいます。それしか未来の可能性はないのではないか、とぽくはおもいます。

 科学の知と芸術・文学・哲学の思想と、整合的にものをいうのは難しいと、吉本は口ごもっている。誰しも人間の営みを、トータルに、根元的に考察し、そこからものが言える大きな思考の枠組みのようなものがあったら、と思う。それが哲学の役割だった。しかし、そのような諸学の根拠としての哲学は、どうやら無いものねだりだったことに多くの人が気づいている(そうでない人もいるが)。生涯、広く深い思考を続けてきた吉本ですら、「ただいま考え中です」という。さらには「『そういうものはないですよ』といった方がいい」とも。また「いいことをいえたらウソになる」ともいう。

 それらしくいいことを言っている人はいっぱいいるが、吉本は自分はそんなことを言わない。言えばウソになると考え、もし言わされるとすれば、用心深くいう以外にないとしている。それらしくいいことをいっている人々に対する控えめな批判だ。といって、考えることにペシミスティックであるわけではない。「考え中」なのだ。

 この根源問題、むしろ根源などないといったほうが本当なのかもしれない問題に、何もいえない、いわない、という態度が、世界と人間に対する正直で肯定的な姿勢なのではないか。私は、このところそう考えている。大思想などないのだ。根っこのないことに平然と耐え、少しでいいから良いことへと向かって考えていく。良いこととは、大きな善ではなく(そんなものはないから)、少しでも、自分と周辺に良いこと、世の中の悲惨を少しでいいから減らすこと。そんなささやかなことに、「とりあえず」、「ローカルに」対応していく。そんなことかなと。このようにいうこと自体が、いえばウソになる「いいこと」をいっていることになる。自己矛盾だが、それでも平然としている生き方しかないだろう。

 引用した箇所の少しあとで、笠原が、あれこれいうと、吉本は、

それでいいんじゃないでしょうか。
いいんですけど別にどうってことない。

と笑わせる。「それでいい、だけど別にどうということはない」という言い切りが吉本らしく面白い。

 ウィトゲンシュタインの『論考』の有名な最後の言葉、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」を、野矢茂樹は、著書の中で言い換えて「語りきれぬものは、語り続けなければならない」としている。吉本が「考え中」というのに通じるのだろう。根源もなく、終わりもなく、続けなければならない。

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コメント

アクさん、とてもタイムリーな記事のご紹介、思わず肩の力が抜けました。もっとも私の場合は、思考というよりも、殆ど妄想でして(笑)…それでも、やはり、根を詰めてあれこれと考えていくとガスが溜まります。

>いいことをいっているとか多くの人の役に立つことという外観、外見をとらないことが必須条件だとおもえるのです。
なるほどと思いました。とても謙虚な在方ですね。

肯定しつつ、否定するという同時思考の中で、それでも否定しきれないものを語りつつ、また、その逆の場合も語りつつ…最後はそれを読む人、各人の考えに委ねる。基本的な姿勢は、そう在りたいと願っていますが、これがなかなか難しく、日々苦労しております(溜息)。

でも、ブログのお陰で、以前から比べたら、文章にすることで、少しは考えるようになりました(笑)。考えることは比較的好きですので、マイペースでブログを続けていこうと思っております。

投稿: 梅吉 | 2006/12/26 18:10

梅吉さん

たまたま書いたものに、このような反応をいただけるのはありがたいことです。ご紹介した言葉・考えをどう受け止めるか、各人各様でしょう。

「ブログのお陰で」とありましたが、それは私も同感です。
いま読んでいる梅田・平野「ウェブ人間論」(新潮新書2006/12)にこうありました。

「ブログの本当の意味は、何かを語る、何かを伝える、ということ以外に、もう一つあるのではないかと感じています。ブログを書くことで、知の創出がなされること以上に、自分が人間として成長できたという実感があるんです」(梅田)

投稿: アク | 2006/12/27 20:02

「いいこと」を言って、その「いいこと」を固定した標識にして、その前に立ち止まってしまったらダメなんでしょうね。
「いいこと」の標識を立てるくらいなら、その半歩前に身を乗り出すように考えを更新し続けること。考えを更新し続けるためには、この瞬間、自分が何を考えているかを絶えず認識しなければならない。でも、書いてみなければ、自分が今この瞬間何かをどう考えているか認識できないまま、この世界を漂流していくのも事実でしょう。
 書いてはじめて、自分はそういうことを考えていたんだとわかることが多いと思います。それがいいことか悪いことかという分別はどうでもよく、自分が今何を考えているか自分で知り続けるために書き続け、それを更新し続けるという運動段階に、もしかしたら人類のステージは移行しつつあるのかもしれないと思ったりします。それは、インターネット世界において初めて可能なことでしょう。
 印刷時代の「言葉」は、どうしても標識化されやすかった。でも、インターネット時代において、「言葉」は標識化の呪縛から解き放たれて新たな生命を獲得する可能性があると私は思っています。
 もちろん、かつて工場が廃液を海に平気で流しこんでいたように、初期段階においては同じようなことが繰り返されるでしょうが、海の水が公害問題で大きく揺れた時に比べて少しずつきれいになってきたように、ネット世界もそうなっていくのではないでしょうか。
 楽観的すぎるかもしれませんが、私はそう思っています。
 インターネットは、情報化時代の単なる発展型ではなく、メディアや広告会社からの一方的な情報強要の時代を脱し、モノゴトの選択の主導権を人間側に取り戻すことに寄与するのだと思います。
 メディアや広告と違い、インターネットの「情報」は、こちらが動かなければ「無」に等しいものですから。 

投稿: 佐伯剛 | 2006/12/28 20:01

佐伯さん、コメントをありがとうございます。

 書いてくださった、

> 書いてはじめて、自分はそういうことを考えていたんだとわかることが多いと思います。それがいいことか悪いことかという分別はどうでもよく、自分が今何を考えているか自分で知り続けるために書き続け、それを更新し続けるという運動段階に、もしかしたら人類のステージは移行しつつあるのかもしれないと思ったりします。それは、インターネット世界において初めて可能なことでしょう。

ということは、私も、こうしてつたないブログを書き続けて感じていることです。

 吉本隆明が、「考え中」といい、口ごもったのは、科学のもたらす知を、思想の言葉でどう捉えるか、「整合して」何か言えるか、という課題に直面してのことでした。これはかつて佐伯さんが、問題とされ、私もいささかものをいったときの話題にも通じているようです。私もあれ以来、ずっと考えています。私についていえば、だいぶ考えは変わりました。あのとき、佐伯さんの異論に対して私がいったほど、そんなに割り切っていえることでないと、私も分かってきています。その問題については、吉本隆明ですら、考え中だし、そのことに関して、分かったようにいっている人はダメだといっていると理解しました。いろいろな切り口があるでしょうが。心と脳、といいますか。命と身体といいますか。あるいは思想と知といいますか。いろいろな切り口はあるのでしょうが、いずれにせよ、考え続け、書き続けなければならないことがらがあるようです。

 それを分かったような枠組みの中でものをいう、「言葉の標識化」と佐伯さんがおっしゃるのもそういう傾向性をおっしゃっているのだと思いますが、それを疑ってかかる、ときには口ごもる、あるいは「そういう問題についてはなにもいえない」というのが、分かったようにものを言う人、簡単に言葉を標識化してしまう人に対する態度なのではないか、そう、私は受け止めたのでした。

 といって、沈黙するのではなく、考え続け、書き続けなければならないというのには同意です。しかし、饒舌に分かったように書いている人も、吉本の「考え中」にはたじろぐのではないか、と思います。

 吉本隆明は、脳科学者・茂木健一郎と何度か対談したようですね。そのとき茂木が吉本から問われたことを、茂木もいろんなところに書いていますが、それこそが深刻な問題なんだということを彼がどれだけ分かっているか、そんなことも考えています。

 佐伯さんが、かつてカトリックの僧侶たちが権威をもって人々の考えを支配していたのと同じ役割を、現代の科学者は今の時代に果たしているのではないか、とおっしゃいました。私は、そのとき科学のコミュニティの開放性をいって、そんなことはないと主張した覚えがあるのですが、今は佐伯さんの主張にかなり傾いています。科学とか、西洋合理主義の考えとかも、人間の歴史の中で、いずれ考え直されるであろう時代性を帯びている、一時のものの考え方なのかもしれません。次の時代に向かって、おっしゃるように考え、書き続けなければならないし、このインターネットの時代は、書き手の権威を相対化するという点で、次の変革をもたらすのかもしれません。

追記 コメントをくださった佐伯剛さんは、雑誌「風の旅人」編集者で、そのブログへのリンクは、右コラムの「おすすめBLOG」にあります。

投稿: アク | 2006/12/28 22:11

吉本さんの言っていることというかニュアンスはよくわかりますが、それは、いわゆるインテリの人たちに対する牽制とか歯止め?くらいにはなりますが、これからの若い人たちにとっては、どうでもいいことで、吉本さんが笠原さんに言っていることがそのまま吉本さんにも当てはまりますね。
「それでいいんじゃないでしょうか。
いいんですけど別にどうってことない。」という感じで。

 私は、わかったように言うつもりはないですが、大きな思考の枠組みとして古代から変わらない真理は一つあると思います。
 それは、「真理は一巡して初めてわかる」ということです。
 モノゴトには、やはりサイクルというのがあるのではないかと思うんです。
 肌は28日で細胞が入れかわる。新しい細胞も、やがて角質になって肌から落ちる。古い角質が肌にたまると、新陳代謝機能が損なわれ、新しい細胞が育ちにくく、たちまち生気のない状態になってしまいます。それが老化ということでしょう。
 カトリックも、ゲルマンやノルマンが進出して混沌の極みにあったヨーロッパ世界に神の秩序をもたらしたことは確かでしょう。紀元1000年頃の聖地巡礼の盛んな頃は治安もよく、人々は無防備に長旅ができたそうです。それ以前も、それ以降の長い間も、ヨーロッパにはそういう時期はなかった。
 しかし、やがて十字軍に失敗し、ペストで多くの人が死に、神の権威が損なわれ始めてからは、宗教がどんどん堕落していき、教会関係者たちは自らの権威維持に躍起になり、あげくの果てに宗教戦争になる。
 そのようにいかがわしくなった宗教世界に終止符を打ったのが科学の登場でしょう。科学は、魔女裁判を止めさせ、多くの病から人々を救いだし、混沌の宗教世界に秩序をもたらした。
 しかし、やがて科学もまた角質化する。宗教戦争と同じように、科学(技術)戦争が始まる。科学関係者は、その権威の維持に躍起になる。中世に教育を宗教が牛耳っていたように、今日の教育は科学的なスタンスが牛耳っている。中世において宗教関係者が世界を救うのは宗教であると信じ込もうとしていたように、科学関係者もまた同じでしょう。
 ただコペルニクスが聖職者であったように、科学を超えていくものを創出するのは、科学の矛盾を知り尽くしている人である可能性も大です。でも、その方法は、コペルニクスが宗教的な方法を用いなかったように、科学的な方法ではないのでしょう。
 科学が生き生きとした若い細胞として世界を活性化した時期があったことは確かです。今もそうなのか、それとも角質化しているのか、サイクルに逆らって肌にこびりついているかどうか、という問題なのだと私は思っています。
 科学が、まだまだ若い細胞なら、これからも科学に期待できるのでしょう。でもそうでないのなら、固く分厚い角質のように若い細胞に対する阻害要因にならないようにしなければならない。
 アクエリアンさんのように科学者の一部がそのように冷静に考え判断する時期にさしかかっていることが、時代の移行期の証だと思います。ただ、10年単位で変わるのではなく、100年単位を要するのかも知れませんが。

投稿: 佐伯剛 | 2006/12/29 00:54

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