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2006/12/02

科学と信仰、柳澤桂子のたどり着いた極点

 「文藝春秋」12月号の「般若心経・いのちの対話」を興味深く読んだ。柳澤桂子と玄侑宗久との往復書簡である。特に興味をひかれ、また疑問をもったのは、柳澤が苦悩の果てにたどり着いた世界観・宇宙観というか、宗教観というか、信仰の到達点を語りながら、それがいずれ科学によって明らかにされるはずだ、と強調することである。

 柳澤は、宗教と科学が同じひとつの目標を目指していると信じ、その方向へ思索を進めようとしている。これは無理なというか、まったく不要で、不毛に終わるに違いない。そう私はいってあげたい、と思った。柳澤ほどの極限状態での思考を経ていない私ごときが、大きなことをいえないのだが、柳澤があのような境遇の中で行き着いた極点で、なお大森荘蔵の指摘する「知の呪縛」(後述)に囚われているのが気の毒に思える。生命科学者であるだけに、すべてが科学の言葉で説明がつくはずという科学主義にこだわっている。科学でそんなにがんばらなくていい、もっと解放されたらいいのに、と願う。

 往復書簡で話題にされている柳澤の宗教観について理解を深めようと、柳澤の「生きて死ぬ智恵」「いのちの日記」を読んだ。玄侑宗久「現代語訳般若心経」も入手したが、こちらはまだ読んでいない。

 柳澤桂子は生命科学者。難病を患い、痛苦にあえぎ、死線をさまよう体験の中で、宗教にすがりつくしかない心境におちいったことを「いのちの日記」の中で明かし、その心の遍歴と、到達した宗教観を書いている。般若心経の自己流の現代語訳「生きて死ぬ智恵」にその理解を反映させている。玄侑宗久は禅僧・作家(芥川賞)であるが、最近般若心経の解説付き現代語訳を出版した。般若心経を仲立ちにして、この対談が企画されたのだろう。

 まずは柳澤の考えの問題部分をあげてみよう。「いのちの日記」の序言の最後のところで、こう書いている。

 科学と宗教は、ものごとの両極端にあるようにいわれるが、私はそうではないと思っている。けっして別のものではない。宗教も科学と同じように、人間の脳の中の営みである。いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう。

 往復書簡は、玄侑の方が最初に発信しているのだが、彼は上記引用の場所に引っかかり、「宗教も科学と同じように、人間の脳の中の営みである」については、「全く賛同いたします」といいながら、「『いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう』という一文に、私は些か疑問を感じるのです」と問いを発している。

 玄侑にいわせれば、科学の方法は分析的で、「いのち」の全体性は、科学の対象になりえない、というわけだ。柳澤も、同じ本の中で「自分があり、対象物がある」という二元的な(ものと、それを見る自分とに分裂した)見方を排し、本来一元的な「現実の世界(リアリティー)」が、自己と対象という二元的な考え方によって、感得できなくなっている。一元的なものの見方に戻ることによって、リアリティーを取り戻せる。それを説いているのが宗教だ、としている。それだのに、最後は科学がすべてを明らかにする、という見方にこだわってしまう。

 玄侑の問いかけに、柳澤は、科学がまだ到達すべき地点に至っていないからで、いずれ科学は分析から統合へと向かい、「全体性(wholeness)」に行き着く、といいきっている。玄侑が、いのちのリアリティーに触れる営み(それが「般若」)は、科学的・分析的な理性とは違うというのに対し、

 私は理性ということをあまり意識したことはありません。けれどもすべての事象はいずれ論理的に説明がつくと思っています。説明がつかないで神秘的に見えるのは、科学がまだそこまで進歩していないからだと思っています。

と書き、この50年の生命科学の進歩はすさまじく、その世界に身を置いたものとして、

 科学の力は信頼できるものです。時間はかかるでしょうが、脳の科学が進歩すれば、きっと多くのことが明らかにされるでしょう。

と断言している。科学はものを二元的に見ているのではない、科学の終極の目標はものの全体性を見ることだと、いうのだ。それは宗教的境地に至りながらも、科学の将来に期待を抱く柳澤の、願望表明にすぎないように思える。

 具体的に科学の全体性への道が示唆されているとはいえない。「悟り」などの宗教的な境地は、脳内物質や特定の神経回路で説明がつくようになっていると例をあげる。これはむしろ科学が対象を物質的にしか捉えられないことの例示にしかならない。宗教に関わる現象を脳のメカニズムが解き明かせば、宗教と科学がひとつになるとは思えない。

 科学の世界にいるものは、あらゆる現象を科学で解き明かそうとする。そして最終的には、科学がすべてを明らかにするだろうと信じている。さまざまな現象を説明する科学理論は、素粒子物理を根底にして、階層状に統合されたものとなると信じている。生命や脳が、その複雑さのゆえに解明される途次にあるが、やがてすべてが明らかになるとの信念に立っている。柳澤もそのように考えているようだ。科学者である以上当然だともいえる。

 しかし、科学ができることは、事象の説明にすぎないことが、科学の世界に狭く閉じこもっている人にはわからない。ある現象はそれがどのように生起するか、理論的に、かくかくしかじかだと説明する。そして生起していることは、ただそれだけのことだとする。それは哲学の専門用語では「還元主義」と呼ばれる。現象のすべてを科学理論に還元できるとする主張だ。しかしそれがすべてなのか。

 例えば、先ほどの宗教的な経験。それは脳内のある特別な物質が特定の神経野を刺激したから起きるのだと説明されても、当の本人の経験の外的側面を説明しているに過ぎない。宗教的な体験の内実、自分と世界の境が消え失せ、ある全体性に直接的に出会っている、そこには自分もなければ世界もない、という自分にとってリアルさは、そんな科学的説明に還元されるとは思えない。脳の中で起きている現象が、どのように精細に脳科学的に説明されようと、本人の心が感じているものは、説明し尽くせていない。というか、全く別物だろう。

 同様に、喜びや悲しみ、恋愛感情、芸術的な創造行為、文学作品が生み出す感興、何であれ、私たちが「心」に感じていることそれ自体は、脳科学の与える説明に還元されえない。私はよくわからないが、クオリアと称されるものもそれだろう。

 この心と脳の問題は、哲学者、思想家、宗教家らを悩ましてきた。科学者だけはその点割り切りがよかった。この問題が彼らの眼中にないから当然である。

 大森荘蔵は、「重ね描き」(科学が死物言語で描写したものの上に、日常語での生きた描写を重ね描きすればいい)という考え方で、この問題を消去した。アメリカの哲学者リチャード・ローティは、「現象学的記述」(心に立ち現れるものごとの直接的記述、といったらいいか)と「物理的記述」(科学的説明)とは、同一の実在(これは何であるかを問わない、あるXといってもいい)についての、異なる、しかし等しく妥当で、相互に還元不可能な記述である、と考えた。

 ふつうの私たちの心に去来するものごとは、科学の言葉で説明し尽くせると考えることはない。宗教的な体験・思索の世界(もっとふつうに、いのちとか、心とかいうことばが出てくる世界)と、科学の世界記述とを、無理して統合することはない。それぞれが別のボキャブラリーを持ち、別の記述をする。しかしそれが同じ世界についてのそれぞれなりのとらえ方なのだ。科学と宗教(あるいは心)は同じ脳の中の営みであるといってもいいが、それが究極的には科学によって解明されるという必要はない。むしろ相互に異質な記述であり、相互に翻訳不可能と考えたほうがいいのだ。どっちが正しいかとか、リアリティに近いとかもいえない。別々の記述として、人々の生活に役に立っていればいい。

 交換書簡の第4信の最後で、柳澤は突然変身する。「科学というものに疑問を持っています」といいはじめる。今の科学はたしかに成功しているが、全く別の説明があるかも知れない。「私たちの視野は宇宙に比べれば本当に小さく限られたものです、私たちはある型にはまってしまっている可能性もあるのです」と書くのだ。それまでの科学への信頼、究極的には今の科学で全部説明がつくという確信はどこへ行ってしまったのだろう。

すみません。科学は正しい、正しいとさんざん言い張っておいて、科学は当てにならないとひっくり返してしまって、怒らないでください。ここまで知って、はじめて科学を正しく理解できるのだと思うのです。

 科学の正しさについては根拠がないということは、知る人ぞ知る。仮説と今のところわかっている観測事実に支えられて、しっかりした根っこなしに、いわば科学は宙に浮かんでいるに過ぎない。科学の確からしさを根拠づけようとしてきた哲学の営みはことごとく失敗した。科学はいわば、とりあえず成り立っているにすぎないといえる。これまでのところ、さまざまの予測に成功し、便利な科学技術の成果を生み出してきたことから、みな科学を信じているに過ぎない。将来大きな変革がないとはいえない。天動説がひっくり返り地動説に替わった、あのコペルニクス的転回のようなこと起きるかもしれない。そのことを柳澤は念頭において、上のようにいっているのだろう。

 科学と心の問題、そう簡単に片づかない。この往復書簡は、来月号に続くらしい。どんな話が続くか、興味津々である。

 大森荘蔵と、リチャード・ローティについて参考にした文献:
・大森荘蔵:「知の構築とその呪縛」(ちくま学芸文庫、1994)

・リチャード・ローティ:「哲学と自然の鏡」(野家啓一ほか訳、産業図書、1993)
・渡辺幹雄:「リチャード・ローティ・ポストモダンの魔術師」(春秋社、1999)

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コメント

ご紹介の“往復の書簡”、そして、特に、生命科学者の柳澤桂子氏についてのご紹介興味深く拝見しました。柳澤氏が、どのような苦しみから、どのような心の悟りを開かれてきて、「…宗教観というか、信仰の到達点を語りながら、それがいずれ科学によって明らかにされるはずだ」という確信を持たれるに至ったのか、とても関心が湧いてきました。先ずは、ご紹介の本を読んでみたいですね。それから、“往復の書簡”の方も。
それにしても、交換書簡の第4信の最後での“変身”が、気になるところです。変身と見せかけて、実は、来月号で、“君子豹変す”ではありませんが、宗教的世界観を開かれた生命科学者としてのお立場から、いよいよ達観された独自の境地を見せて頂けるのか、私も興味が更に湧いてきました。

投稿: 梅吉 | 2006/12/03 00:00

梅吉さん、雑誌その他引用した本をお読みになってみてください。柳澤が歌人でもあることから、般若心経の意訳はとても美しいです。自分の信仰へ至る道を書いた「いのちの日記」、各章のはじめに置かれた歌は、心に沁みます。

投稿: アク | 2006/12/03 13:53

アクさん

読んでみました。
難しい理論はわかりませんが、私も全くアクさんと同じ感想を抱きました。

> 科学と心の問題、そう簡単に片づかないと思います。

もし、全部脳の働きを解明できたら、同じ物質を備えたロボットを作る事も考えられ
ませんか?

しかし、そのロボットが70年、80年も生きて、いろいろな運命に立ち向かえるでしょ
うか?

大分、脱線しましたが、実際、心と脳の働きが科学で解明できたとしても、それだか
らといって、人間の苦しみや、悲しみはなくなりません。

単細胞の私などがアクさんの書かれたものに、コメントなどとはおこがましいと思い
つつ、どうしても書きたかったのは、玄侑さんのお経の丸暗記の効能です。

これについては、柳沢さんも書いてますね。「南無阿弥陀仏」と唱えても、「達磨さ
ん転んだ」と唱えても、同じ効果だったと。
私も骨折した瞬間、フランス語の呪文「オノデュペール エ デュフィス エ デュ
サンテスプリット」を繰り返し唱えて、痛みを我慢しました。

ですから、般若心経だって覚えたらきっとご利益あるだろうと、思います。これは、
リズムのおかげでしょうか?

投稿: 美千代 | 2006/12/07 22:25

美千代さん、メンテナンスが続いていたらしく、せっかくのコメントが書き込めなくてすみませんでした。メールでいただいたものをこちらで書き込みました。
 呪文の効用、リズム的な音唱効果ということで、何でもいいとなると、信心の意味がありませんね。信じるということでプラス何かがあるのでしょう。
 文藝春秋の次の号が届きました。往復書簡の続編が出ています。読んで、何か書き足すことがあれば、書いてみます。

投稿: アク | 2006/12/07 22:36

「柳沢佳子氏のたどり着いた極点」について、柳澤氏と玄侑氏との往復書簡も、柳澤氏のご本も興味深く拝見しました。感想については、この往復書簡が、どのような結論に達せられるかということを見届けてからにしたいと思います。実は、釈尊の時代を含めた(正・像法時代)と今の日本の仏教界(末法時代)におけるの、その精神性を(無謀、命知らずにも…笑)比較してみたいという、甚だ不謹慎なスケベ心が出てきましたもので。また、ご紹介の大森荘蔵氏と、リチャード・ローティ氏についての文献も拝見してみたいと思います。
澤田氏の心経の意訳は、アクさまお奨めの通り、本当に美しく、心に響いてきました。科学と文学的要素が融合したお経の意訳とは、本当に贅沢で大変有難いものを拝見しましたという思いです。想像を絶する闘病体験と“大悟”の前後とでは、(ご本人にお会いした訳ではないので不確かですが、)私の印象では、寧ろ、益々科学に対する“信仰”が深まったのではないかと感じた次第です。その点の詳しい感想も含めまして、少々お時間を頂きまして、後日ということで、宜しくお願い致します。
PS
「科学は先駆する人によって進む」
>科学の前進のためには(いや、他のどんな事業でも同じかと思うが)、テーマと、人と、組織の3者をうまく噛み合わせる「時の運」のようなものが必要であり、それがとてもうまくいった、ということを経験として学びたいからである。
人は、「歴史」から何を学ぶかと言えば…このアクさんの仰られた一言に尽きるのではないかと感じました。

投稿: 梅吉 | 2006/12/17 15:38

梅吉さん、お読みになっての感想をいただきありがとうございます。この往復書簡の続編も読みました。感想を書こうとは思っているのですが、期待したほどの発展がなく、書きたい意欲がわいてこずにいます。柳澤さんは、むしろ科学で最終的にはすべて説明が付くとの信念の中に閉じこもってしまっているようです。あらためて見直したのは、むしろ玄侑さんの主張の方で、仏教、特に禅の見方の広さを感じました。

梅吉さんのブログ「木曜の女」、このところの旺盛な書きぶり、感心して読んでいます。

投稿: アク | 2006/12/18 16:28

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水墨画は無を描く。文芸春秋12月号の、柳澤桂子と玄侑宗久の悟り、空に関する対談が [続きを読む]

受信: 2006/12/27 17:09

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