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2007/01/03

本を買う

 本をよく買うほうだ。しかし年とともに、本を買うとき考えるようになった。この本を買って、死ぬまでに読むだろうかと。(A) 買ったらすぐ読む本と、(B) いずれ読むとか、資料として使うために買う本とがある。(A) はいい。問題は(B)で、これについてはかなり迷うようになった。それでも買ってしまうことが多い。

 父はよく本を買う人だった。キリスト教の牧師だった。だからといって大量の蔵書が必要とはいえないが、聖書や神学の専門書のほかに、広く文学や教 養書の類を所蔵し、生涯増やし続けた。引退後何度か転居するたびに蔵書を半分、さらに半分と減らしていき、最後に老人ホームへ入るとき、私の家に蔵書の半 分を置いていった。しかし、そのあと92歳で亡くなる直前まで、本を買い続けた。老人ホームの部屋が蔵書で埋まっている人など、あまりないのではないか。 ときおり訪ねると新たに買った本がテーブルの上に積まれていた。母は「本を買う癖は、読めなくなっても衰えず、困ったものだよ」とぼやいていた。確かに、 テレビすら見続ける集中力や好奇心がなくなっても、本を買い続けるのだった。

 亡くなったあと、部屋を片づけたとき、父が最後まで愛した蔵書の一部は兄弟で分けて引き取ったが、大部分はゴミ回収車のローラーの彼方にばりばり という音とともに消えた。それについてはどこかに書いたことがあった(年賀新聞「てとら」1999年号)。その時感じた蔵書についての無常感とか、知的蓄積の喪失感は、ある種のトラウマとして残った。あんなことを自分の場合にやってほしくない。そのためには本は増やすまい、むしろ始末して からこの世におさらばしようと心に決めたのだった。それだのに、まだ買い続けている。まだまだしばらくは、いやいつまでも、生きていけるかのように。

 週に一度は近くの本屋へ行く。行けば手ぶらで帰ることはない。東京滞在中に新宿の紀伊国屋かジュンク堂へ行く。沢山買えば、送料無料で水戸自宅まで宅配してくれる。半日もいれば、備え付けの買いもの籠いっぱい買ってしまう。地元では手に入らない専門書や大型本をこの機会にと買うからだ。

 アマゾンは魔物である。便利すぎる。何か調べたいとき、アマゾンで検索すると、必要な本はすぐ分かる。それ以外に関連して気を惹く本が目に付く。おすすめ本も表示される。ついショッピングカートに入れてしまう。外国の本、いわゆる洋書を買うのも便利になった。紀伊国屋や丸善に行く必要がない。それに安い。

 古書を買うのがとても便利になった。アマゾンは新刊書と同列に古書の販売を仲介している。絶版本も、中古で手に入る。ネット上の「日本の古本屋」はとても便利だ。加盟している全国の古書店の在庫を検索でき、絶版の本や、新刊販売中の割安本を入手できる。いわゆる「ロングテイル」効果だろう。遠隔地の古書店から、待つ間もなく本が届く。古書店と本好きを結ぶビジネス・スタイルが、インターネットで革命的に変わった。だがこれがいけない。つい買い過ぎてしまう。

 読書家にはいろんなタイプがある。脇見をせずに、ひとつの本をとことん丹念に読む人がいる。一カ所にぐいぐいと深い穴を掘っていくタイプだ。対極のタイプはこうだ。ひとつのテーマなり作家に注目すると、まず広く見渡して、できるだけ多くの著書や関連文献に当たろうとする。本をたくさん手元に集めて、それからということになる。この二つのタイプの間に、程度の違いでいろいろな本との関わり方があるだろう。私は第2のタイプに近い。研究者としてそうだったし、趣味の読書についてもそうだ。手を広げて全体像をつかみながら、自分好みのアタック・ルートを見つけるまで、試行錯誤をする。無駄が多くなるが、そのようにしかできない。

 ひとつのテーマなり作家だけなら、まだいい。われながら始末が悪いと自覚するのだが、あれこれのテーマ、作家に同時進行で興味を持ったり、次々に新しいテーマなり作家に目移りする。新しい問題群にぶつかると知的好奇心をそそられて、ワクワクして探索を始める。これがいちばん楽しいときだ。こうして、次々に本を買う癖は直らない。

 対策がある。図書館を使うことだ。読みたい本は、外国語の本を除けば、たいてい図書館にある。今では図書館の蔵書検索を自宅からできる。さっそく行って何冊か借り出してくる。そこで、読み始めると、何冊かにひとつはやはりこれは手元にほしいということになる。結局アマゾンか古書ネットに注文する。図書館は、購入に値するかどうか、見分けるために使っているだけだ。古書でも入手できない本がある。借出し期間を何度か更新をしても読みきれないとなると、コピーをとる。

 こんな具合に、父死去時の教訓はいっこうに役立たず、本は増え続けてきた。しかし、このところさすがにブレーキがかかってきた。いずれ読むだろう、の限界が見えてきたからだ。山登りにたとえれば、もう高い山には登れない。あれを読み、これを読み、何年も積み上げなければ、あるレベルの理解にすら達することができないようなテーマや思想家がある。それはもう無理だ。そこに未踏の高嶺があることを仰ぎ見るだけにしておこう。自分が登りたい山はここ、とある程度見定めている。

 しかし、ちょこっとした山には、まだ登れるような気がして、あれこれ手を出す。これが病気である。冷ややかにみていた父の書籍購買癖は、自分に遺伝していたことを、年とともに自覚する。母に替わって今度はワイフがぼやく番である。本を買うたびに「そんなに買って、読むの?」とワイフがいう。「死ぬまでに」とまではいわないが、暗にそういう意味が込められているのはわかる。さてこの先どうなることか。

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