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2007/01/20

『秋の徒歩旅行』

 4月から5月にかけて、一月ほどドイツに出かける予定である。友人の家に滞在する。ドイツ系アメリカ人のこの友人は、遺産相続でドイツに実家を持つが、ニューヨーク市郊外に住み、年に一二回帰郷するほか大半は空き家にしている。使ってくれと以前から誘われていた。私たち夫婦はよく外国旅行に出るが、主な都市や名所を見て歩く観光が普通だ。訪れた土地の人々の暮らしにすこし入り込んで日常生活を経験するのもいいだろう。彼女の家があるのは、ドイツの南西部、シュヴァーベンとも、黒い森(Scharzwald)ともいわれている地方だ。カールスルーエに近く、少し行けば温泉地バーデン・バーデンがあり、足を伸ばせばストゥットガルトやフライブルクにもいける。しかし何よりシュヴァーベンの野や山、森の中を歩き回ってみたい。ヘルマン・ヘッセが生まれ育ち、自己の進路を見いだすまで波乱・動揺の青春時代を送った地方だ。大学のドイツ語購読で読んだ「秋の徒歩旅行」を思い出す。

 手元にテキストに使った小冊子がある。読んだ日付が書き込んであって、大学1年の2学期に読んだことがわかる。私の学んだ大学は旧制高校の名残を残し、1年から2年の前半にかけて、ドイツ語かフランス語の第2外国語(ほかにロシア語、中国語もあったがごく少数)を徹底的にたたき込まれた。週3コマの授業があり、ほかに2コマの英書購読もあった。毎晩の予習がたいへんだった記憶がある。「秋の徒歩旅行」は関泰祐先生(ゲーテ、マン、ヘッセ、シュトルム等の多くのドイツ文学の翻訳者として知られていた。当時一橋大学教授、60を超した老先生だった)から習った。たぶん語学教師は自大学だけでは足りなかったのだろう。他大学からの応援の先生が多かった。おかげで高名なこの先生の謦咳にふれた。

 思い起こしてみると、理系の学生にとっては、教養課程での語学教育が、最善の人文(humanities)教育の場であったと思う。教養課程では人文科目の選択も必須で、哲学概論やその他を履修したが、ほとんど残っていない。知識として詰め込まれるよりも、他国の文学書を原語で読むことのほうが、よほど人文教育になったな、と実感する。

 その種のものとして、ヘルマン・ヘッセの「秋の徒歩旅行」は思い出に残るもののひとつだ。少し紹介しよう。事情あって異境に住み、ふるさとを離れていた男が、十年という時を隔てて、青春の甘く苦い思い出の地を、数日かけて徒歩で旅をする話である。夕暮れ時、湖を手こぎボートでわたり、宿屋に入り、婚礼の席に紛れ込むあたりから話は始まる。何人かは顔見知りで、一緒に悪さをしたものだが、誰も気がつかない。苦労を重ねてきた主人公はそれほど変わってみえたのだ。

 旅の目的地は、ある町である。そこに昔の恋人が住む。異境に行く前に結婚を約束した。しかし、異境での事業がうまくいかず、主人公は婚約者に、待たなくてもいいと、つらい別れを告げた。婚約者は、待つと返事をくれた。しかし、半年後に結婚することになったと便りが来る。その直後に事業が好転した。この破れた恋の痛手を胸に秘めて、異境でひたすら事業に集中したあと、ようやくしばしの休暇を得て、十年ぶりにふるさとを訪ねようとする旅である。森を抜け、野道を行き、湖を越えて、数日かけての元恋人の住む町まで歩いていく。

 道は谷間を上のほうに通じ、しばらく小川に沿ってから、森の頂きに向かつて登りになっていた。ひとりで足を運んでいるうち、自分は結局自分の道をすべてこのように孤独にしてしまったのだ、散歩ばかりでなく、人生の歩みをすぺて孤独にしているのだ、と思いあたった。友人や親類や良い知人や愛人はいつもいたのだが、ついぞ彼らは私を抱いてくれず、満たしてくれず、私自身のとった軌道よりほかの軌道には引き入れてくれなかった。恐らく、どんな人間であろうと、凡そ人間には、投げられた球のように、ころがって行く軌道がきまっているのだ。運命を強制したり、からかったりしているつもりでも、とっくに定められた線に従っているのだ。いずれにしても、「運命」は私たちの内にあり、外にあるのではない。従って、人生の表面、つまり目に見えるでき事は、ある程度重要さを持たなくなってくる。それで、普通重大だと考えられ、悲劇的だとさえ呼ばれることも、しぱしば下らないことになる。悲劇の外観にがっくりひざをつくような人も、実は彼らがついぞ眼中におかなかったことのために苦しみ滅ぶのである。

 私は考えた。何が今、私という自由な人間をイルゲンベルクという小さい町に駆りたてるのか、と。そこの家々も人々ももはや私にはなんの関係もなく、幻滅と、恐らくは悩み以外には何も見いだすあてがなさそうなのに。
(高橋健二・訳)

 夕暮れ時、暗い森で道に迷い、何時間もさまよったあと、やっと抜け出して村の灯火を見る。宿屋を探し当て、食事にありつくが、泊まる部屋には先客があって、しかたなく暖炉の脇に毛布にくるまって寝る。翌日はいよいよ目的の町に向かう。先客だった男から、同じ町に向かうから、馬車に一緒に乗りませんかと誘われるが、断って歩き始める。昼、途中の町で馬車の男と一緒になり、今度は目的の町まで乗せてもらう。町に入り、馬車を降りるとき名を聞いて、その男がかつての婚約者の夫になっている人だと分かる。宿をとったあと、男の家に向かう。戸口に迎えた男は、あなたが誰であるか、妻から聞いたと、請じ入れ、夕食に誘う。十数年ぶりに再会した恋人は、硬い表情のままだ。かつてあこがれた青春の輝きも失われている。二人だけになったおりに「あのころの美しくうれしかった色々のことを考えてください。あれは私たちの青春時代だったのです」と迫ってみたが、「昔話はそっとしておきましょう」と、冷たく断られる。

 翌朝早く目をさまし、ただちにこの町を離れ、旅を続けることにする。あたり一面霧に包まれている。その霧の世界に入り込んでいく。この短編は、有名な「霧の中」の詩で終わる。

不思議だ、霧の中を歩くのは!
どの茂みも石も孤独だ。
どの木にも他の木は見えない。
みんなひとりぼっちだ

私の生活がまだ明かるかったころ、
私にとって世界は友だちに溢れていた。
いま、霧がおりると、
だれももう見えない。

ほんとうに、自分をすぺてのものから
逆らいようもなく、そっと距てる
暗さを知らないものは、
賢くはないのだ。

不思議だ、霧の中を歩くのは!
人生とは孤独であることだ。
だれも他の人を知らない。
みんなひとりぽつちだ。
(高橋健二・訳)

 今度の旅で、もし可能なら、ヘッセが辿ったのに似た野山を徒歩旅行をしてみたいと思っている。当時と同じようなガストホーフ(ドイツの田舎町によくあるレストランと宿を兼ねる旅館)があるのだろうか。村の人たちと話をするのに備えて、ドイツ語会話の勉強をはじめている。アメリカの友人にそれを伝えると、今ではドイツはどこでも英語ですませますよとメールをくれた。ヘルマン・ヘッセが、「秋の徒歩旅行」を含む中短編集「この岸」を出版したのは、1903年、彼が30歳の時であった。日本でいえば、明治40年。ドイツの田舎町といえども、当時と同じようであるはずはないか。『秋の徒歩旅行』は、現在出版されているヘッセのどの著書に入っているか、定かではない。図書館でヘッセ全集をあたれば「青春は美わし」とか「郷愁(ペーター・カーメンチント)」などとともに収録されているはずだ。

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