『聖書と現代社会』を紹介する
これは、クリスチャンにとって、たいへんな本だ。とうとう教会の内部から、ほんものの声が出てきた。イエス自身(A)とキリスト教・教会(B)とを分けて考え、(B)の問題性、さらには虚構性を指摘するような発言が、キリスト教の内部、聖書学の専門家から出てきた、ということだから(『聖書と現代社会ー太田道子と佐藤研を囲んで』(NGO「地に平和」編、新教出版社、2006/12刊)。
私が面白がるにちがいない、おすすめと、クリスチャンの友人からこの本が送られてきた。この問題についてのふだんの私の主張を知り、よく話しもしている友人である。私は最初軽く考えていた。どうせ、何か少しラディカルなことを言って、最後は護教的になるに決まっている、と思っていた。読み始めたら、とても面白い。最後まで護教色を出さずに、すっぱりと言い切っている。これは画期的だ。イエス自身(A)と、イエスをキリスト(救い主)とするキリスト教(B)とは別もの、というのが、僕に限らず、キリスト教・教会から脱出し、キリスト教を外から批判する立場にいる人々の主張だ。この本は旧約聖書学者・太田道子と、新約聖書学者・佐藤研を囲んでの座談会の記録だが、この二人の聖書学者は、イエスとキリスト教を分けて考えることを明言している。違うとすれば、インサイドにい続けようとしていることである。
二人の新・旧聖書学者が座談の中心であるが、議論をリードしているのは圧倒的に太田道子(以下道子と略記)。おっかあ的、というか、女親分的というか、この人の存在感がこの本を貫いている。出生時から、骨の髄までキリスト教会の中におり、キリスト教関係の大学、研究機関などで旧約聖書、さらには古代オリエント史まで研究の手を伸ばし、ときにはカトリックに身を置き、また長年パレスチナ難民救済・平和運動を実践している人である。その人がこれまでのわだかまりをきっぱりと捨てて、言い切ってる。
私としては制度としてのキリスト教と聖書とを無理にも結びつけようと一生努力してきましたが、最近もう、無理することはないと思ってしまったんです。 |
ここでいう聖書とは、イエス出現の背景としての旧約聖書と、新約聖書の中の福音書に伝えられるイエスの言葉と生涯(A)のことをいっているようだ。
もともとは道子の周辺に集まったNGOの若者たちの、キリスト教に関する知的疑問にこたえるために、新進の新約聖書学者として注目されている佐藤研・立教大学教授(以下、研と略記)を道子が招き、研を囲む会をときどき開いている。そのある日の座談記録を本にしたのがこれである。研は上に引用した道子の発言に「それは、全く賛成ですね。」と応じているが、全体としては、道子ほど歯切れはよくない。
座談の参加者の中には、日本のプロテスタントキリスト教の代表的出版社・新教出版社(この本の出版社でもある)の社長もいて、彼はイエスの十字架上の死が人間の罪を負っての身代わりの死であったという「贖罪信仰」を、「イエスの強烈な生き様、イエスがやろうとしたことの意義を正確にとらえたもの」と、キリスト教の標準解釈を持ち出す。それに対して、研は贖罪論はその言葉遣いからして考え直す必要があるとし、イエスの死について信従者たちが申し訳ないという気持ちを持った、それが教義化された、そういう時代性を持った考え方に過ぎないとする。旧約聖書と当時のユダヤ世界を知る道子も、「その時代の宗教言語として」解るもので、現代の私たちが、罪とか贖罪とかいうのは、あえていえば趣味の問題、として解消し、「そんなことをとやかく私が言うことではないんだ、と思って吹っ切れた」と応じている。神の存在そのものについても、同様、趣味の問題、各人各様にとらえればいいという。その方向でいくつかの発言を拾うと
「イエスに従いたいなら、神様神様というのをやめてイエスを見たらどう? と私が言うと、だいたいの人は笑うんです。笑って終わりなんです」 「私はイエスの運動をしたい、キリスト教という制度はもういい、といっているだけです」 「今のキリスト教というのは何ですか」と問われて、 「宗教、神様、聖霊、お祈りとかその他もろもろの宗教用語は、非常に邪魔になるので私は使いたくないんです」 |
それでいて、なぜインサイドにいるのか。二重構造ということをいっている。本の帯にもある。
キリスト教・教会という「宗教制度に依存して自分の人生を追及し、その制度を守るというレベルと、更にその中でイエスという人を追い求めてついていこうという人たち。二重になっているその境目がぼやけていて、たぶん誰もそれを切り分けられないと言うでしょうし、たぶんその間でゆれているんでしょう。だから私も、教会に属することはやめない。 |
イエスに従うとは、イエスが生きたように生きるということ。人間が人間らしく生きられる世界を作る、ということ。その実践を身を挺してしてきた人の言葉だけに説得力がある。
私からすると、残った問題は、上に問題にしたようになぜインサイドにとどまるのか、ということのほか、イエスを絶対化することにならないか、ということだけである。イエスが、アッシジのフランチェスカとか、マルチン・ルーサー・キング牧師とか、そのほか無名の人々の系譜の中で、特別な人ではあっても、しょせんワン・オブ・ゼムといいきれるか。そのように言ってはいるのだが、神格化の傾向も感じられる。特に研のほうに。
またこの場では、ひとことで聖書といわれているが、その中の細部の問題については、あまり話題にしていない。問題の構造を、キリスト教という制度(B)、対、聖書(C)=イエス(A)、としているように見える。(A)と(C)の間にも、大きな乖離があることを、よく知る聖書学者の二人は、たぶん当然のこととして言及していないのだろう。私としては、イエス(A)から聖書(C)へ、そして聖書(C)からキリスト教(B)へと、二段階でずれて来ていることを、強調してほしかった。その意味で、本のタイトル「聖書と現代社会」は、内容をあいまいにしている気がする。
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コメント
いつもながらのするどい読みに、追って読むことを促されます。
先に紹介された-春秋社刊 思想とはなにか-で吉本隆明と対談した笠原先生は、芦屋市で森集会を主宰されていました。
1992年の冬に森集会が発行した-思想の森 1号-が手元にあります。
<ドクマなき宗教、イデオロギーなき思想、組織なき集団は可能か、 がわれわれの課題である。>
これが巻頭言です。
-聖書と現代社会-、-イエスという経験-と併せて読んでみます。
時節柄、ご自愛ください。
投稿: sollers | 2007/01/17 20:51
sollers さん、こんばんは。
笠原氏のほか、私の親しくしたいる高尾利数、ほかに田川建三などが同じ立場ですが、今回はインサイドにいる聖書学者にも同じように考えがあることがあらわになったことに注目しました。
制度としての宗教と、人間と、どちらを大事にするか、ということで、時代が少し変わりつつあるように感じます。
投稿: アク | 2007/01/17 21:40