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2007/02/18

仏教と量子力学

 今さらという気もするのだが、現代科学技術の基本理論である量子力学と、仏教の基本的考え方に親和性があるという言説が一部で行われている。私はこのような主張をすることに疑問を感じてきた。まず、科学は科学、宗教あるいは宗教思想はそれ、それぞれの目的も方法も違う。無理にこじつけない方がいい、と思う。また仏教者が重視する量子論の意味合いと、科学技術の現場での量子理論の使い方、それは意味を棚上げして道具として使うということだが、その間に大きなずれがあることを指摘したい。

 まず、仏教者が、どんなことを言っているか。一例を挙げると、玄侑宗久「現代語訳・般若心経」(筑摩新書、2006)では、しきりに量子力学の解釈が引用されている。一箇所を引いてみるとこうだ。

 量子力学では物質の、ミクロの様態を、「粒子であり、また波である」とします。測定の仕方でどちらの結果も得られるというわけですが、端的に、それが「色」と「空」なのだと考えても、基本的には間違いでないと思います。
 ただ問題なのは、「粒子であり、しかも波である」という事態は、通常の理性には理解が困難だということです。
 波が粒子で成り立っているということではありません。最小の単位が「粒子であり」しかも「波である」というのです。
 これは固定的実体か流動的事態か、ということですが、普通はこれが両立するとは考えられません。
 しかし私は、じつはこれと同じことをさっきから申し上げています。
「色即是空」でしかも「空即是色」だと。

 般若心経の「色即是空、空即是色」は、量子力学でいう「粒子と波動の二重性」と同じことだというのだ。

 「色即是空」というのは、深い宗教的洞察をズバリ言い切った表現であるが、その意味する含みは多様である。二つの和訳を引用してみる。中村元訳では

「この世においては、物質的現象(色)には実体がない(空)のであり、実体がないからこそ、[物質的現象が]物質的現象で[ありうるので]ある。」

玄侑宗久訳では

「あらゆる物質的現象には自性がないのであり、しかも自性がないという実相は、常に物質的現象という姿をとる。」

ここで、「自性がない」とは、「あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性の中で絶えず変化しながら発生する出来事」と説明されている。

 日本語訳してもらってもなかなか分かりづらい。この理解しにくいことを、説明しようとして、量子論で言われる、粒子・波動の二重性と同じこと、というわけだ。

 量子力学は、原子レベルの物質の振る舞いを記述する基礎理論として、1925年にハイゼンベルグとシュレディンガーによって提唱され、20世紀科学の革命をもたらした。元素の化学的性質を原子核の回りの電子の振る舞いとして説明し、化合物の化学的性質、金属や半導体などの物性の原理的な説明を与え、それは結果として、エレクトロニクスなどの大発展をもたらした。

 原子の大きさのレベルの現象を量子力学が扱うわけだが、原子レベルでは、もの(たとえば電子)は奇妙な振る舞いを示す。たとえばテレビのブラウン管のスクリーンを光らせているのは電子だが、それはこの場合粒子として振る舞う。一方、たとえば物質中の電子の振る舞いを説明するには、粒子と言うより波動としての取り扱いを必要とする。あるときは粒子、あるときは波動という、とらえどころのない性質を示すわけだ。それは原子レベルでのものの実体が、私たちの日常的な感覚で捉えられ難い代物だ、ということに由来する。それを量子力学は難なく記述し、どのような現象にも、いまのところ、正しい結論を与える。

 この量子的な振る舞いが、色即是空とどう対応するか。粒子と波動の二重性をもって、「物質的現象に実体がない」ということの類比とするのには無理がある。量子力学では、べつに実体がないわけではなく、ミクロな物質の振る舞いを日常感覚に置き換えて表す適切な言語を私たちが持っていないだけだといっていい。ミクロ世界の物理的対象としての実体があり、それを正確に記述できるわけである。

 たしかに量子理論には奇妙なところがある。およそ原子レベルのすべての現象を正しく説明する。今後、未知の現象が出ても、それは必ず量子力学により説明されことは間違いないと、ほとんどの科学者は信じている。ところが量子力学の解釈となると、意見が分かれる。いわゆる「観測問題」と呼ばれるものだ。大部分の科学者は、そういういわば半ば哲学的な問題にかまっている必要はない、と考えている。現象を説明でき、予測できれば、それでいいのだとしている。量子力学の解釈問題がどうであれ、彼らが道具として使っているこの理論への信頼性は揺るがない。それが宗教の議論の場に引っ張り出され、「色即是空」などと関連するかのように述べられると、「え?、それ、自分が使いこなしている量子力学のこと?」と、きょとんとしてしまう。

 もう一つ、科学の探究や適用と、科学が何を意味するかを語ることとは、別のことだということ。往々にして著名な科学者が、自分の発見の意味するものを一般の人向けに普通の言葉で語ろうとする。その時、その科学者は科学の閾を越えて語っている。それを人々は真に受けてしまう。そこに誤解がしばしば生じているようだ。例えば、玄侑宗久は先にあげた本の中で、何度もハイゼンベルクやボーアの書いた言葉を引用している。

 「原子物理学と人間の認識」というボーアの論文のなかには、「われわれは仏陀や老子がすでに直面した認識論的問題に向かうべきである」と書かれています。自らの思想がいかに東洋に傾斜しているか、またそこを目指すべきだ、という自覚も彼には明確にあったのでしょう。

 ハイぜンベルクは講義録『物理学と哲学』(1955〜56)のなかで、「第二次世界大戦以降における物理学への日本の大きな貢献は、おそらく、極東の伝統的哲学思想と理論の哲学的本質との間に、ある種の近縁性があることを示唆している」と述べています。

 一時期、ニュー・サイエンスと呼ばれた運動があった。これは1960年代のカウンター・カルチャーの潮流の中で出てきたもので、西欧合理主義が生み出した近代科学が、自然を分析的にとらえることを反省し、もっとトータルにとらえるべきだ、それには東洋思想に学ぶべきだ、というようなことをいっていた。その中で量子力学とタオ(老子)思想の近親性が強調されたりした。しかしその潮流から何かが生み出されたとは寡聞にしてきかない。どちらかというと神秘主義とかオカルトの方向へ流れていったのではないか。

 確かに量子力学の解釈問題、観測問題は、最終的な結論に至っていないようだ。しかし、ほとんどの科学者たちは、そんなことはお構いなしに、量子力学を道具として使いこなし、科学を進めてきている。プラグマティックに過ぎるともいえるが、科学を超えた妙なものを、そこに読み込まない方が無難だ。科学と思想(これは文学や宗教も含めていっているのだが)とは、同じ人間の活動として、ひとつのまとまり、というか、つじつま合わせが必要だとは、感じている。しかし、当面、科学は科学、どちらかというとそれは道具のひとつ、人が生きることは別、と考えることにしている。

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コメント

 初めてコメント致します。仏教と量子力学については(本稿で語られているような関係性抜きに)独立して興味を持っていたため、今回のエントリは大変面白く読ませて頂きました。
 科学はその科学性ゆえに道具としての面を色濃く持ちますが、私は宗教はそうではない、と思います。勿論、何らかの説明体系や精神支援(というと変ですが)として扱うことは可能ですが、やはり『これはこれ、それはそれ』ではなかろうか、と。
 宗教には数多くの比喩が用いられます。しかしそれはあくまでも便宜的なもので、実際はそうではない、かというと、それもまた正確ではない。ただ、それらの比喩が道具としての科学と混同、あるいは同一視され易いことは認めなければなりません。
 以上のことから、物凄くつまらないオチですが、この問題に関する私なりの結論は『適材適所』という言葉に象徴されてしまいます。

投稿: chino | 2007/02/18 20:01

chino さん

早速のコメントありがとうございます。はじめまして。今後ともコメント歓迎です。よろしく。

今回のエントリでは、それはそれ、という面を強調しました。もとはといえば、科学も宗教も、世界理解という共通の出発点はあった、そして今は、かく分離している、そして、再びの統合を希求している、という面はあるのでしょう。しかしそれは、なかなかやってこない。いや永遠に無理かもしれない。それを性急に結びつけようとしない方がいい。そんな考えです。

投稿: アク | 2007/02/18 20:56

こんにちは、アクさん。
いつもexcitingなエントリー、今回もまた勉強になりました。
とくに、アクさんの“科学を超えた妙なもの”のphraseには痺れました。
もし、宗教が科学について何かを語れるとしたら、おそらく、それは、“科学の心”だと思います。仏教の本筋は、心に始まり心に終わると考えるからです。後は、“ほっとけ(笑)と、仏さまは、無記を決め込んでいらっしゃるようですし。私のような凡人がご仏智の全てを知ることは不可能ですが、仏のご慈悲はおそらく、全てを語り尽くされていらっしゃると思いますので、もし語らずに置かれたものがありましたら、仏さまと云えども、慳貪の科になられます(笑)。よって、ご紹介のお二方の解釈は、肝心の“心”を説いた“仏の心”から、離れているように思われます。(私のような小娘が、生意気かしら??)私の物理学の知識は怪しいので、例えば、一個の林檎から、「万有引力の法則を直感で感じ取った科学の心とは何ぞや!」という問いはOKだと思うのです。つきつめて考えると、1個の林檎はもはや現象を象徴するものだけには止まらない、何かを教えてくれそうな気がします。(先日の日曜美術館)岸田劉生が、1個の林檎を描くことに拘った、拘らざるを得なかった何か、その奥のモノと自分が共鳴しているものとは何かという、その心を絵の中で表現されたそうですが、1個の林檎を取っても、科学の心と、芸術の心とでは、当然ベクトルも出力も異ります。しかし、何かに強く向わしめる心を動かしているもとは?という共通の問いが生まれてくると思うのです。心、いまだかつて誰もその形や色や存在を観たこともない、しかし、こやって心が存在するから、今私はキーボーに向って字を打ち込んでいる事実もある。心が無ければ、科学も芸術も哲学も生まれない。この一点に絞って、仏教徒は真理の探求すべきではあるまいかと、またまた生意気な物言いの止らない梅吉でした。

投稿: 梅吉 | 2007/02/20 13:09

梅吉さん、コメントありがとうございました。

私が、科学は科学、宗教は宗教、ということを強調して書いたものを、「科学をする心」という方向で、両者の結びつきを考えたらと、展開していただいたようです。私も、その方向は分かるので、エントリの最後あたりに、「同じ人間の活動として、ひとつのまとまり」というようなことを書いたのでした。

ただ、芸術、文学、思想などの分野と違って、科学の活動が生み出すものと、その活動を行う人の心との間に、科学の場合には大きな開きがあるのですね。梅吉さんがお書きになった、科学に「強く向かわしめる心」というのが、これを考えるキーになりそうです。それは、知りたい、という心でしょう。それをどの方向に向けるかで、さまざまな知的活動の違いが出てきます。違いがある、それを分ける、という方向に科学は向かいますが、宗教や哲学は、大きくまとめるという方向へ向かうのでしょう。

投稿: アク | 2007/02/20 17:59

興味深く読まさせていただきました。ご指摘の内容は、現代物理学を実務として経験された方のみ言い得る、体感に由来しているのだと受け取りました。ブログならでの生の見識は、説得力があります。
一方、禅僧としての玄侑さんの文脈は、説くためのレトリックとしてのアナロジーなのか、ご本人の考えを伺いたいものです。
なお、晩酌とはとんと縁がない、父親ゆずりの下戸な私は、食をつくる方にささやかな貢献をしているところです。

投稿: sollers | 2007/02/21 21:20

sollers さん

読んでいただいて、ありがとうございました。玄侑さんの書いたものについて、おっしゃるような見方もあるでしょう。レトリックにとどまればいいのですが、往々にして、科学者の側にも、宗教家の間にも、どちらの探求も到達する真理は同一というような、私としては浅はかに思われる論をする人が見受けられるので、敢えて書いてみました。

投稿: アク | 2007/02/22 21:41

興味を持って記事を拝見しました。
真理へのアプローチの違いだけで、最終的には科学も宗教も行き着く所は同じだと考えています。
ですから、宗教者が科学を例にして信仰を説明するのも当然ありえると思います。アクエリアンさんがお話のように過度な踏み込みは誤解を与えますが…。
守備範囲の違いだけで、受け取るのは「真理」というボールだと思います。科学も象牙の塔に引きこもりするのではなく、仏教や他の思想科学に学ぶ姿勢も大切だと考えています。その中から新しい科学の発見のヒントが見つかるかもしれません。私自身は「観測者の問題」について非常に興味を持っています。

投稿: 佐藤雅美 | 2008/03/15 16:20

佐藤雅美さん

コメントありがとうございます。おかげで久しぶりに自分の書いたものを読んでみました。そのときから一年余り。私の考えも少しは進んでいる、というか、変わっているかもしれません。最近、物理学の究めてきたものと、究めきれないものとを、これを書いたときより、もっと深刻な問題として、学び、考えようとしています。これからもその点について、なにか書くべきことが分かったら書いてみます。「真理」という言葉とか、とらえ方には、私はダウトとそっぽを向きますが、なにかを探求し続けることは、人間の宿命だとは思います。

投稿: アク | 2008/03/15 22:38

量子力学の解釈を抜本的に見直すときが訪れています。ハイゼンベルグの不確定性原理には誤りが有るという最近のニュースばかりではありません。
 そもそも「波動であり粒子である」というステートメントに誤りがあります。電子に代表されるフェルミオンは常に粒子であり波動では有りません。逆に光子は常に波動であり粒子では有りません。
 波動性は単に現象です。電子は干渉する実体です。干渉現象が波動のように見せています。電子の動きが波紋の様だからといって波だと言ってはいけません。波紋は水表面の集団運動です。電子が波のように見えるのも集団運動です。一個の電子や水分子が波ではないのです。
 何故干渉性があるのかこそが重要な問題です。人間同士が干渉するように、電子同士も干渉します。何故か?電子には意志と呼べる実体が有るからです。
 詳しくは、拙著「量子力学が明らかにする存在、意志、生命の意味」をお読み下さい。立命館大学生協077-561-3921)で販売しています。或いは、光子発生技術研究所(077-566-6362)で販売しています。
 本書は、立命館大学の学生が量子力学の教科書として使用していますが、現在、(drhironariyamada)のブログにて学生の書いたこの本の感想文を載せていますが、学生達はこの本で、初めて量子力学の意味が理解できたと口々に述べています。この本により、量子力学は、高校生にも分かるようになりました。量子力学は日常の常識で理解できるようになったのです。物理学者が何故量子力学の解釈にこれほど遠回りをしたのかその理由も明らかにしています。
是非ご一読下さい。

投稿: DrHironariYamada | 2012/02/06 14:21

(続)
仏教と科学の違いが何処にあるかは難しい問題では有りません。仏教は心の問題を扱っています。科学では心は扱いません。哲学で言えば仏教は唯心論です。科学は唯物論です。唯物論と唯心論はお互いに心を閉ざし、対話する言葉を持ちません。何故なら実在を異なる言葉で定義しているからです。これに対して、拙著では、唯心論と唯物論を統合する考えを示しています。それが本のタイトルであり、存在の意味を量子力学が説き明かすとき、二つの実在が統合されます。唯心論に言う「我思う故に我有り」では心が繋がりません。他者の我を私の我は理解できないのです。貴方の存在は己が決めているのではありません。他者が決めています。そのことはお釈迦様も良くご存じです。一方、従来の唯物論では量子力学を理解できません。従来の唯物論は機械的唯物論であり、所謂ニュートン力学的自然観に基づいています。量子力学の出す答えは自然を実によく反映していて正しい答えを出します。私達は量子力学的自然観で物事を考えなくてはならないのですが、量子力学的自然観が思想にまで高めれれなかったことが今日の悲劇です。力学的自然観で量子力学を理解しようとすると違和感が有るのです。ところが量子力学の真理は私達の日常性にむしろ非常に近いのです。にもかかわらず物理学者がニュートン力学的自然観で物を考えたところが誤りです。アインシュタインはその典型です。
 シュレディンガー方程式が記述しているのは、電子同士の対話です。対話が波動的に起こり、電子はそれぞれが置くべき位相空間を自ら決めていると言う状態を記述しているのが波動関数です。波動関数は、電子が波動であることを表しているのでは有りません。波動関数が示しているのは、電子の存在確率です。即ち波動関数は、存在の意味を明らかにしているのです。或る電子の存在は他の電子が決めています。ここに至り人間の存在も電子の存在も他者が決定していることに思いを馳せて下さい。そおすると唯物論と唯心論が融合するのです。私はこれを量子力学的唯物論と呼びます。ですから、仏教者にも量子力学は身近に感じられますが、どうか科学者も仏教者もここのところをよくご理解下さい。
詳しくは、拙著「量子力学が明らかにする存在、意志、生命の意味」をお読み下さい。(077-566-6362)

投稿: DrHironariYamada | 2012/02/06 15:08

山 田 廣 成 先 生

長文のコメントご寄稿、ありがとうございました。

電子の干渉現象(例えば2スリット実験)は電子相互の干渉であるとしておられるようですが、電子が一度に1個ずつ2スリットを通り、スクリーンで検出され、観測が完結する実験の繰り返しで、干渉現象が観測されている事実をどう説明されるのでしょう。

また、電子が意志を持つということをおっしゃっていますが、物理の世界に意志という概念を持ち込むことはいかがかと考えます。そのことによって、何か新しい物理現象なり、法則性が現れるとすれば、それは実験で確かめられなければなりません。シュレディンガー方程式のまま、その解釈としておっしゃっているとすれば、これまでの量子力学解釈問題の中で、その是非を物理学界での議論に委ねるべきでしょう。

先生が書物を書かれた。それが学生に受けが良い、というだけでは、学説としては不十分です。査読付きの論文誌での公表を待ちたいです。

投稿: アク | 2012/02/06 17:24

コメントを含め、記事を拝読しました。

至極真っ当で健全なご意見で、私も本文にはほぼ同意見です。

権威付けの為だけに他分野の「専門家」が量子力学を引き合いに出すような行為や、量子力学を正しく理解しないまま失笑ものの「独自解釈」を初学者に説くような行為は、全く唾棄すべきものであると思います。

しかしながら、コメント中の

>物理の世界に意志という概念を持ち込むことはいかがかと考えます

これは言い過ぎかと思います。というのも最近の量子力学の基礎に関連した展開で、「自由意志定理」と呼ばれる興味深い定理が示されています(真っ当な査読付き論文誌に掲載されています)。

投稿: けい | 2012/02/08 14:20

けいさん

「自由意志」は筒井泉「量子力学の反常識と素粒子の自由意志」(岩波科学ライブラリー)に書かれた意味では、理解しています。それは人間的意味での「自由意志」とは違い、物理現象の発現が非決定論的(言いかえれば確率論的)というほどのことでしょう。

 確率的である物理現象を論じるさいに、人間の「心」を思わせるような「意志」とか「自由意志」という用語が用いられ、その意味が関係者に了解されている限りはいいと思うのですが、その域を超えて他の分野にストレートに用いられ、独り歩きし、誤解を生むことをおそれます。

投稿: アク | 2012/02/08 22:03

ご存じでしたのなら、釈迦に説法のような行為をしてしまい恥ずかしいばかりです。

やや話が逸れますが、決定論・非決定論の問題は「人間的な意味での自由意志」の存在にも多分に影響を与えるかと思います。なぜなら決定論的世界観の中で「人間的な意味での自由意志」を思い描くのは困難であるからです。したがって、「人間的な意味での自由意志」の存在は必然的に非決定論的世界の中でのみ実現可能だと思います。

また、現実の世界が決定論的か非決定論的かの問題は完全に決着がついたとは言い難い問題です。標準的な量子力学の解釈は非決定論的ですが、たとえば、最近ではアハラノフに始まる「弱い測定」の理論などは決定論的ですし、エヴェレット解釈などもそうかと思います。

以上の意味で、「人間的な意味での自由意志」であったとしても、物理学上の議論たり得る要素は残されていると思います。

しかし、物理学の専門家(?)でさえフェルミオンの状態が反対称波動関数で表わされることを知らない現状を鑑みるに、アクさんの危惧はごもっともであると思います。

投稿: けい | 2012/02/08 23:46

私は、紹介した本で、量子力学は多神教の文化でなければ理解できないと述べています。一神教の文化では、意思を持つのは神のみであり、人間にも意思は有りません。電子にも意志が有るあるという思想は、多神教に属し、仏教も多神教です。
さて、学会で承認をえてから本を出せという思想は如何なものでしょうか?ニュートンは学会の承認を得てニュートン力学を発表しましたか?学会とは何ですか?権威とは何ですか?
私の思想が承認されるには少し時間がかかりますが、発表しなければ進みません。そのような努力は行いますので、春の物理学会で発表しますし、3月にKEKで量子論の会議があり、そこでも発表いたします。
しかし貴殿のご意見は思考を停止した状態に思われます。新しいものの考えは、次世代を担う若者に託すことであり、お年寄りに託すことではないと思いました。若者は、量子力学がわかったといっています。若者を馬鹿にしてはいけません。貴方が真摯な方でしたら、
まず本を読むことでしょう。
私は原子核物理や放射光物理が専門です。正当なシュレディンガー方程式を教えています。波動関数の対称性非対称性も教えています。ダブルスリットの問題は、本の中で説明してますのでよろしく。
波動性は現象であり、干渉性が本質であると言うステートメントを聞いて、大抵の物理学
者は目から鱗が取れるのですが、貴方はとれ
ませんでしたか?

投稿: DrHironariYamada | 2012/02/25 15:32

アクさん
波動方程式の波動は、電子が波動なのではなく電子が作る量子力学的な場が波動的であり、電子そのものが波動である必要は有りません。私の解釈は、15年前にハイゼンベルグの不確定性原理に誤りがある事を見ぬいています。
量子力学の不確定性は本質的であり、確立密度に示される統計性にありますが、ハイゼンベルグの思考実験では、運動量と位置が確定します。そのことも本ではのべております。
最近Amazonから購入できます。

投稿: DrHironariYamada | 2012/02/25 15:55

山田廣成先生

重ねてのコメントありがとうございました。

1)量子力学のもたした物理的世界の姿を、宗教と絡めて論じることは,私は避けたいです。まして一神教か多神教かなどという問題は論外です。

2)先生のお考えをご著書で学んでみたいですが、現在この関連で読みたい本をたくさん抱えて、私なりの読書計画を持っていますので、そのうちに読んでみます。アインシュタインが量子力学の「統計的解釈」を疑問視し続けたことに、是非は別として、学ぶべきことがあるのではないか。現在そのあたりを中心に読んでいます。

3)ハイゼンベルクの思考実験が不確定性の本質からすると不完全だったことは、最近小澤の式の実験的検証などで話題になりました。本質を外しているとの指摘はハイゼンベルクの思考実験論文直後からあり、最近の量子論の本(例えば清水明)では、本来の不確定性と「別物」と注意を促しています。

投稿: アク | 2012/02/26 09:54

アクさん
ご返事どうも有難うございます。
私は一神教の文化と言っています。私は科学者ですから宗教を信じる必要はありません。しかし人間は文化から離れて生きることはできません。アインシュタインもボーアもしかりです。思考基盤を形成しています。言語にも影響を与えます。「神はサイコロを振らない」という思想は、キリスト教ならではのものの考えです。

投稿: DRHironariYamada | 2012/02/26 10:40

科学者にとって科学とは道具のひとつかもしれませんが、それ以外のいわゆる一般の者であれば知的好奇心からの娯楽や教養となります。我々は自身の記憶によって今現在を認識し自己や世界を形成しているわけですが、科学者ではない私のような者(理系の学生ではありますが)にとっては量子力学の世界観は1つの思想であり、これから先の未来を築いていく認識の為の記憶として機能し、それと同時に仏教思想も同じ記憶として機能していきます。私にとって仏教と量子力学の共通性は非常に興味深いものであり、それらをまとまった1つの理解としてもち、現在を構築していくための道具としています。物理学的観点と仏教的観点での共通する事柄のギャップに懸念を示されているようですが、どちらも私にとっては思考するための同じ道具となり相容れて世界を認識・理解していくことには疑問を持ちません。思想を裏付けるために強引に科学的見解を用いて勘違いを招こうとするのは間違いだと思いますが、両者を相容れて世界を認識していくことは大切だと思います。

投稿: United_Bohemian | 2012/03/13 19:24

United Bohemian さん

コメント、ありがとうございました。

道具と思想という観点からのコメントと受け取ります。

道具としては、量子力学は、ミクロ世界でのさまざまな物理現象の説明と予測の道具(理論)として,疑いようのないほど正確・精密な道具です。他の道具(理論)の可能性は排除しませんが、これ以上の道具はないと,大多数の物理科学研究者は受け止めています。

しかし、その道具の成功が意味する世界観(実在世界のイメージ)ということになると、彼らは統一した見解を持ちません。ほとんどの研究者は,意味とか,解釈の問題は外に置いて、未知の物理現象の解明と理論形成に専念しています。思想の問題については、お好きにどうぞと外部の方に、あるいは仲間内でもそのような問題に関心を持つ人に、お任せしてきたと言えましょう。その結果、さまざまな見解・意見が乱立していて、とくに有力というほどのものはありません。本文に引用したボーアやハイゼンベルクらが一般人向けに書いたものは,物理研究者の共通認識ではありません。

最近、その風潮は多少変わってきています。量子力学が実在を記述する意味合いを実験的に検証できるようになり(例えば、最近発表された「小澤の不等式」の中性子干渉計による検証など)、量子力学特有の現象(量子もつれ、entanglement)を量子情報処理(量子コンピューターなど)に応用する分野が開けつつあります。

「解釈」という、いわば趣味の問題として扱われてきた、量子力学解釈問題が,物理のフロンティアとして前面に出てきた,という感じです。新しい展開があるかもしれません。

それ次第では,曖昧なまま、類比として、思想界、宗教界でさまざまに言われてきたことが当たっているかどうか、もう少しはっきりしてくるかもしれません。その結果はまだ誰も予測できません。

投稿: アク | 2012/03/13 21:19

こんにちは
不確定性原理 と 色即是空
は私にとって 衝撃的な問題でした
読んで字のごとく ってレベルを超えた
まさに そのものって 感じでした
アラアラって 感じでエリートたちはうっかり本音をもらしてしまうことが時々・・ あるようです
この見解は 宗教的 社会的 呪縛から
人間を解き放ちます
この大変な重大性はただならぬことでしょう

投稿: とはく | 2015/01/16 00:28

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