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2007/03/14

武州石神井邑・油屋 勝右衛門

070314aburaya  妻の母方の先祖は練馬区石神井あたりに住まう豪農であった。その家族の物語を妻の妹夫婦が書き、私家本として出版した。この家族の繁栄と没落の物語のさわりと、長年の調査の末に本の出版にこぎつけた妹夫妻、特にその夫のことを書いてみよう。

 油屋を屋号とし、名字帯刀を許されて本橋勝右衛門を代々名乗ったこの家は、江戸西郊石神井にて油絞りその他の事業を営み、神田や新宿に店を持ち、明治になってからは北豊島郡の郡長を出した。その次の代が事業に失敗し、没落して石神井の地を離れた。妻の母は、この郡長だった人の曾孫に当たる。土門拳賞などを受けている写真家本橋成一が直系の当主である。

 妻の母方の先祖のことは、義母の二子(つぎこ)や親族などからときおり耳にはしていた。しかし長く続いた大家、そしてドラマティックな没落、という歴史を経たこの家族といえども、時とともに関心は薄れ、細部の記憶は失われつつあった。そこに登場したのが、歴史考証を趣味とする中尾英雄医師である。妻の妹(道子)の夫である。逗子市の開業医であったが、あとで書くように、中尾家のルーツを探索し、一冊の本にまとめた実績がある。江戸時代の考証と事跡探訪を得意としている。またその妻、道子も夫の感化によるのか、もともと好奇心旺盛なのか、夫婦してよくぞと思うほど、忙しい医院経営のかたわら、歴史探訪の旅を重ねている。うってつけの人を得て、本橋家のルーツ探しが進められた。はじめるに当たって、当主や親族のもとに、資料らしきものは何もなかった。没落・離村という過程でほとんどが失われたらしい。しかし長年にわたるねばり強い調査で、家族の歴史が次第に分かってきて、史料や事跡も出てきた。数年前に関係者向けに小冊子がまとめられた。そのころから当主の本橋成一が、人ごとではないと乗りだして、さらに調査が進み、この本の出版に至った。

 中尾英雄医師は、練達かつ軽妙な文章の達人である。ずいぶん昔、東海道五十三次を、歩き継いだ道中記を本にしたとき、その洒脱な書きぶりに感心したものだった。次いで、「江戸の疱瘡医・池田京水とその一族」をものした。森鴎外が史伝小説「渋江抽斉」、「伊澤蘭軒」の中で触れながら、調べ尽くせずに終わった池田京水という疱瘡の専門医が、じつは代々医者の家系であった中尾家の先祖(英雄の祖母の祖父)であるとの数奇な事実と、鴎外の知らなかったあれこれを探索していく次第を淡々と軽妙に書いている。その練達ぶりは今回の「油屋勝右衛門」にも存分に発揮されている。ただ、今回の書物は、中尾医師が書いたものを軸としながらも、成一その他の縁者(道子が書いたものも)が思い出として断片的に書いたもの、その他資料などが、総合的に編集されたもので、中尾医師の個性が薄められているようだ。かわりに写真家本橋成一の撮ったさすがの画像や、記録の写真などが添えられ、いい読みもの見ものになっている。

 さて、油屋のことだが、元禄のころが始祖らしい。油絞りを本業とし、穀物その他の取引、さらには金融業的なことまで多角的な農林商社のようなことをしていたらしい。繁栄したのは特に幕末で、年売り上げ1万両との記録があり、幕府の長州征伐へ寄付をしたり、世直しと称する暴徒らに金の無心をされたりしている。繁栄の様子をたぶんに誇張しているのだろうが、石神井から新宿まで、他人の土地を踏まずに行けたというような言い伝えがあるそうだ。まあ、その地域にそれだけの影響力を持っていたということだろう。

 その本橋家の没落は、義母・二子の曾祖父(寛成)と祖父(勝右衛門)との抗争に始まる。その次第は、現在放映されているテレビドラマ「華麗なる一族」を思わせる。江戸時代最後の当主・寛成と明治新時代の当主・勝右衛門の運命的対決のドラマのようだ。寛成は早々に家督を勝右衛門に譲り、区長、郡長などを歴任する。最後には今の荒川、北、豊島、板橋、練馬区をひとまとめにした北豊島郡の郡長であった。勝右衛門は、進取の気性に富んだ人だったらしく、本業のほか、郵便、学校、養蚕と手を広げた。製糸会社を石神井の自分の敷地内に設立したりもした。政治にも乗りだし、26才にして北豊島郡選出の府会議員になっている。しかし天災にあったり、不運が重なったりして事業はうまくいかなくなったようだ。明治初期に、時代にうまく乗った人、乗りそこなった人、うまく乗ったようでいて、結局うまくいかなかった人。維新後の激動期に多くあった悲喜劇のひとつだろう。寛成は温厚な人柄だったらしいが、このままでは本橋家の家運は傾くと、勝右衛門を廃嫡にする決意を固め、裁判を起こし、勝訴した。そのあと、紆余曲折をへて、勝右衛門の二女が婿を取り、跡を継いだ。これが妻の祖父・祖母である。この裁判で、寛成側の弁護士をしたのが鳩山和夫だったという。今の鳩山兄弟の曾祖父である。和夫が第1回留学生として渡米した際に、寛成が資金援助した縁があったらしい。鳩山和夫が一時期、寛成の書生だったとの言い伝えもあるが、この資金援助のことだろう。

 ともかく、かくして本橋家は衰退の一途をたどり、祖母が婿を迎えたころには、家運はすっかり傾いていた。親子裁判から15年もたっていた。婿にきた祖父は、茨城県牛久出身の医師と伝えられが、何となく影の薄い人で多くが語り伝えられていないように思える。朝鮮に渡り医業に従事したりしたらしい。この代が家督を継いで間もなく、大正の初期だが、もはや大家を維持できなくなり、石神井の家屋敷を閉じ、中野に移った。その後、祖母が中心になって本屋を開業している。祖母は、非常ながんばり屋のようで、新しい家業を進める中で、十人の子を産み、6人が育った。没落した家を必死で支えた。この人と、その個性的な子どもたちは、また別に物語になりそうな話題である。祖母は素手ではじめた本屋を、やがて育ってきた長男(成一の父)とともに盛り立て、戦時を乗り切り、東中野に根を下ろした。東中野の駅近くにあった青林堂書店を覚えておられる方もあろう。現在は山手通りの拡張にともない店を閉じ、当主本橋成一が、社会派の写真家として活躍する一方、ポレポレ東中野、ポレポレタイムス社などを経営している。彼は「アレクセイと泉」などの映画制作もして、一部では大いに評価されているが、資金的には楽でないだろう。

 祖母は、しっかり者で長生きだった。その祖母の血を、義母が、そして妻が、もっとも色濃く受け継いているというのが、親戚中の評判である。特に妻は小柄な体格でありながら極めてはたらき者という体質・気質をいちばん受け継いでいるらしい。いろんな意味で、おそろしい。これはいささか妙な落ちになってしまった。

 本橋家のルーツ探しと没落物語に似たものは、私の家についてもありうる。私の場合、父方は、本橋家ほどの大家ではなかったが同じように没落して離村している。その後の祖父についてはかつて書いたことがあった(『祖父の著書を見つける』03/3/9)。また私の母方の祖先については別に書いたこともあった(『旗本深町家の屋敷跡を訪ねる』00/9/22)。中尾英雄医師のように、根気よく家族の歴史を探索すれば、それなりの物語はあるのだろうが、私にはその資質や根気がないし、今や時期遅れである。

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コメント

アクさんと奥さまのご先祖さまのお話興味深く拝見致しました。お祖父様のお写真を拝見して、アクさんのお顔が似ていらっしゃるのに驚きました。縁とは不可思議なもので、たった一つの手がかりでも、たった一人の人との出会いにより、何百年たっても、ヒモの結び目が解けるが如く、さまざまな事実が分かったという体験をよく耳に致します。

投稿: 梅吉 | 2007/03/18 08:43

梅吉さん

お読みいただいて、ありがとうございました。私の方の祖父について、以前書いたものまで、お読みいただいたようで恐縮です。あの祖父と、私(たぶんプロフィールや年賀新聞に出した私の写真をご覧になったのでしょう)が似ているかどうか、私には分かりませんが、梅吉さんのように感性に優れた方からいわれると、そうかな、と思います。親などからいわれていたのは、私は母親似で、母系の血を多く受け継いでいるようだということですが、当然父方の血もひいているのでしょう。コメントありがとうございました。

投稿: アク | 2007/03/19 19:49

はじめまして。
本橋家のルーツを探していたらこのページに当たりました。
北豊島郡の本橋家のルーツを紐解く鍵になればと思います。
私は、北豊島郡字北荒井に現在も住んでおります。
現在の豊島区要町1丁目です。
冨士塚や富士講の講元『月三講』の先達家系です。
私の祖祖祖父あたりまでは資料や暦があり解るのですが
その前が、どうにも解らずに困っておりました。
このページのおかげで、諸説ある中の1つの鍵が見つかりそうです。
御礼申し上げます。^^)

投稿: 本橋 | 2007/07/04 18:02

私は本橋勝正と申します。大阪府河内市に生を受けました。
祖父は本橋新五朗といい、河内市随一の実力者で、戦前は河内市より、唯一、皇居警護の近衛師団に選ばれ、かなりのえらい方でした。この祖父の代までは羽振りがよかったところ、父の代から急速に没落し、いまでは、一家離散の憂き目にあいました。私の祖先は東京から来たと聞いたことがあります。ここで紹介されている本橋家の没落と共通するところがあるように思い、不思議な因縁めいたものを感じます。同じ出目かもしれません。
人は生まれた家の影響(因縁)を色濃く受け継いで、生まれてくる(世渡りをする)ことを痛切に感じます。
私の人生は、自分の力では、どうすることもできない因縁めいた、困難の人生でした。
が、生まれた生を大切にし、誠実に生きていこうと思います。

投稿: 本橋勝正 | 2008/11/02 20:06

はじめまして。
秋の夜長、何か自分のルーツに繋がるような事が出ていないかとネットサーフィンしていましたところ、このブログに辿り着きました。私の母方の祖父も、本橋姓で石神井の出身です。「本橋の家は昔、家から他人の土地を踏まずに駅まで行けるような土地持ちだったけれど、ほとんどを失ってしまったそうよ。」と子供の頃、母から聞いたことを覚えています。おそらく祖父は本橋家の直系ではないと思いますが、本橋家のルーツに関する本を出版されてた方がいると知り、ぜひ、入手して、母と一緒に読んでみようと思います。

投稿: うき | 2008/11/04 05:59

本橋勝正さま

 妻は、母が話していたことを記憶していて、本橋家の親戚が大阪にいて、若い頃訪問したことがあるそうです。ひよっとするとご縁があるかもしれません。

 この本の著者である中尾氏に連絡を取ったところ、一冊送りましょうと言うことでした。

 私のホームページ(このブログの右コラムの一番上に「アクエリアンのHP本館」とある行をクリックすると、いけます)のトップページの目次の最後にある、「アクへの感想メール」をクリックして出てくる枠の中に住所氏名を書いて送信してくれませんか。

 あるいは、このブログの右コラム最上行の「プロフィール」に「メールによるコンタクト」の方法が書いてあります。

投稿: アク | 2008/11/04 15:15

うき様

 本を読んでいただければ、関係がわかるかもしれません。
 油屋4代目の子が分家「新屋」を興し、現在6代目、昭和3年生まれの孝次郎さんが当主と、その本にあります。
 そのほか石神井あたりには、多くの本橋分家がいらっしゃるようです。うきさんもつながりがあるかもしれません。
 著者の中尾さんから本を送ってもらいますので、一つ前のコメントへの返信で書いた方法で、住所をご連絡をください。

投稿: アク | 2008/11/04 15:27

本橋様
本橋家のルーツをたどってここにきました。
祖父の実家が石神井で本橋姓でした。
光○小学校に土地を提供したと聞いたことがありますが、関係者と死別してしまったため、詳細は全くわかりません。
本橋の実家から伝わる名前の一部を受け継いでいます。
豪農だったという話も聞きました。
ルーツをたどるのは面白いですね。

投稿: まり | 2008/12/03 20:23

まり様

石神井から中野にかけて、「本橋」の名で古くからお住まいの方は多いようです。たぶんルーツを共有したり、同じ姓を名乗ったりしているのでしょう。調べてみると、いろんなつながりが見つけられることでしょう。それを記録しておいて子々孫々に伝えるということに意味があります。

なお、私は本橋姓ではありません。妻の母が本橋家の出です。

投稿: アク | 2008/12/03 22:10

初めまして。並木と申します。
私の母は旧姓本橋幸子です。今年90才になります。本に出てくる孝次郎さんの叔母にあたります。母は10人兄弟で、一番上から榮助、常吉、敬三、米太郎、光子、まつ、房子、静子、喜八、幸子の10人です。母と静子さん以外は亡くなっています。ちなみに父は旧姓関口倉造で、実家は石神井公園の北側、現在の清掃工場の近くです。父も9人兄弟の一番下でした。私が小学校低学年の頃には本橋家も茅葺き屋根で、母と行くと、祖母のてるが寝ていました。茅葺き屋根の家は冬寒く、夏は涼しかったのを覚えています。

投稿: 並木 正 | 2009/01/03 21:33

並 木 正さま
孝次郎さんの従弟さんからの直接のコメントをいただきありがとうございます。出版された本をすでに読まれた上でのコメントのようです。この本に書かれた本橋家の歴史は、本家の歴史でした。文化15年(1818)に分家し、本家側は「新屋」と呼んでい家系の方は、本家のような没落・離村ということもなく、今も石神井に居住しておられるのでしょう。新屋・当主の孝次郎さんの一代前の栄助さんの妹さんが幸子さんで、コメントをくださった並木さんのお母上ということになるわけですね。私の妻とは遠縁とはいえ、血のつながりのある方からのお便りをいただいたのは嬉しいことです。埋もれていた繋がりを、あの本とそれをネット上で紹介したこのエントリが見つけてくれたわけです。

投稿: アク | 2009/01/04 09:31

はじめまして、本橋家のルーツを検索してこちらに
たどり着きました。
私の旧姓も本橋で、実家のルーツは石神井にあります。
生まれ育ったのは他区でしたが、お墓参りは石神井公園
隣のお寺でした。分家の出だとは思いますが
裕福な家系で、豪農というのにリンクしますが他区に
越した実家の本橋家の長男は八百屋をしておりました。
また他の兄弟たち、私の父を含めてみな事業を起こし
成功しておりました。
実家の父は本橋という名を誇りに思い、常々ルーツの
話を聞かせてくれました。
父の申していたところによると、豊島氏のご家来の家系
であったとか。不思議な縁で、こちらには多数の本橋さん
が集われて、懐かしいような嬉しい気持ちが致します。

投稿: 福寿草 | 2009/01/11 02:54

それとたびたびすみません。
実家も石神井から中野に移っておりますが
祖父の母の時代でしょうから大正あたりかと
思われます。浅からぬご縁があるのでしょうか・・
まことに不思議です。

投稿: 福寿草 | 2009/01/11 03:03

福寿草さん

石神井に興り、繁栄し、没落した「油屋本橋家」の歴史を書いたこの本を紹介したことから、多くの本橋家の人々の目にとまり、コメントを書き込んでくださる方が続いています。

福寿草さんが『不思議な縁で、こちらには多数の本橋さんが集われて、懐かしいような嬉しい気持ちが致します』と書かれていますが、まことにその通りです。

元禄時代(1688-1704年)のころ「油屋本橋家」が石神井の地に興り、本家は現当主、本橋成一まで12代、油屋を名乗ることを認められて文化15年(1818)に分家した「新屋」が現当主、本橋孝次郎まで6代。この2つの家系については、この本を書くにあたり、関係者が資料を持ち寄って、系図が明確にされたのでした。当然両家とも各世代ごとに分家が数え切れないほど発生し、そのまた分家、・・・と、始祖油屋勝右衛門につながる本橋さんは多数いらっしゃり、かなりの方が石神井から中野あたりにお住まいのようです。ほかにも明治初年の平民苗字許可令、平民苗字必称義務令により、名字を決めることになったとき、縁続きでない人々が本橋の名字を名乗ることもあったようで(私の家族史にその例があります)、このあたりにさらに多くの本橋さんがおられるようです。

それぞれの方が、自分の家族のルーツ探しをされ、この本に書かれた家系図のどこかに結びついて、家族史を完成されることになると、もっと大規模な「本橋家の歴史」が次々に語られることになるかもしれません。

この本は自費出版として、数百か、千部か程度刷られ、関係者に配布されました。まだ著者のところには残部があるようですから、ご縁を明らかにしたお求めがあれば取り次ぎます(連絡の方法は前に書きました)。また、自費出版の図書館があり、そこには中尾英雄さんの私家本(このエントリ内に言及あり)が寄贈されて、閲覧できるようになっていますので、そちらで読んでいただくのもいいでしょう。以下です。

自費出版図書館
http://library.main.jp/

投稿: アク | 2009/01/11 10:46

アク様

ご丁寧なお返事を頂戴いたしまして嬉しく存じます。
どうもありがとうございました。
詳しいお話を更に伺えて、非常に面白かったです。

私の実家は石神井に由来する本橋家で、石神井公園の
隣にあるお寺に代々先祖の墓地があります。
祖父は次男で、中野に移りましたが祖父の兄はそのまま
石神井に居を構えていました。私は法事などで幼い時
何度か行った覚えがありますが、それも祖父や祖父の兄が
死去してからは疎遠になっております。
おぼろげながらの記憶では、祖父の兄のお宅は古くて
大きな屋敷であったと思います。

私本人は生まれも育ちも中野です。
実家の父も連なる、父の兄弟たちもそれぞれ多様な
商売をして成功し中野でも裕福に暮らしておりました。

成人し、偶然に石神井出身の本橋さんの一人にお会いした
ことがありますが、この方も非常に本橋に誇りを持って
生きてこられたそうです。

話は長くなりましたが、こうして旧姓のご縁で輪が
広がる場に訪ねてこられるのは幸せです。

ご著書は是非購入させていただきたいと思います。
後ほどご連絡いたします。
そのときはどうぞ、宜しくお願い致します。

投稿: 福寿草 | 2009/01/12 11:45

初めまして。母方が本橋で私も非常に母方の血の方を強く受け次いでいるようで明治20年生まれの亡き祖母から聞いていた昔話を辿りながらルーツ探しをしておりました。先日も祖先の菩提寺の石神井三宝寺にお参りに行って参りましたが母が8人兄弟の末子で今では83歳の叔父を残すのみとなってしまい、言い伝えのみが、頼りだったところ、こちらのコラムに辿り着き、目から鱗の思いです。祖母から聞いていた話と全く同じで、大叔父が並木家へ入婿していること、石神井から新宿まで人の土地を通らずに行けた事、豊島権守の話、等々あまりにも一致する事に驚愕を隠せません。そして茨城との地縁もしくは血縁。関東大震災時及び戦時下の避難 疎開先が牛久から一寸行った所だった様です。祖父母共に本橋姓ですが、家格は、祖母方の方が上だった様です。因みに祖父がスエサブロウ、祖母がタケ、叔父、及び叔母に、シゲル、ヒサコ、シヅエ、アヤオ、現在たった1人健在な叔父キヨミそして亡き母 小夜子、一番上の山形へ入婿した叔父、若くして亡くなった叔母が往時巣鴨に居を構えていたとの事。祖父は若い時分は青梅街道荻窪辺りの運送人足の親方をやり後の東京電力の下請けで群馬から東京までの電線工事人足の総元締めをやったとの事。首から踵まで見事な刺青が入った写真が残っております。祖母方の実家には並木家から里子に入ったトクジロウという母の従兄弟がおりました。突然ではありますが、お心当たりの事がありましたら御教示戴ければ幸いです。末長くこのご縁を大切にさせて頂きたいと願って止みません。何卒、宜しくお願い申し上げます。

投稿: 後藤健夫 | 2009/08/04 23:15

後藤健夫さま

 このブログ記事を書いたのはもう2年以上前ですが、次々に本橋の縁に繋がる方の目にとまって、書き込んでくださっています。もともとの調査をして本にまとめられた中尾夫妻、その仕事を応援された本橋家本家の当主である本橋誠一さん(写真家として知られている)、協力された縁者の方々らは、この記事が数々の出会いをもたらしくれたことを喜んでくださっていることでしょう。

 中尾夫妻の書かれた本は、本家の家系を明らかにすること、特に明治以降の本家没落の歴史を書くこと、没落後の本橋家を東中野の地で本屋として再興したとしお祖母さん(私ら現世代に繋がるものにとって祖母)とその子供ら(私らの親の世代)の物語を中心にしています。

 ずっと以前に新家として分家した家系があり、明治以後も、代ごとに分家があったと思います。本の中に収録されている家系図は本家代々のものだけになっていますので、書いてくださったスエサブロウさんは、そこには見あたりません。

 この家系図を正確なものにまとめあげるだけでも、中尾夫妻は菩提寺に赴き、過去帳に記載されている人名を聞き出すのに苦労したと聞きます。没落時に代々の資料が四散したり、さまざまな事情があったようで、本橋家としての生の資料が失せているらしいのです。

 後藤さんの書き込みには、このコメント欄の履歴の中にもある並木さんの名前もありますし、調べればきっとどうのようなつながりかが分かってくるのではないかと思います。

 中尾英雄さん、道子さんに、このコメントのことは連絡してみます。もしよろしければ、このコメント欄に書いてある方法(08/11/04のコメントに書いてあります)で私宛にメールをいただければ、この本の入手と,中尾さんとの連絡法についてお知らせします。

 このコメント欄は,迷惑書き込みを避けるために,私が目を通してから,公開の手続きを取ることになっています。書き込んでいただいて、すぐに反映しなかったせいで,何度も書いていただいたようで,申し訳ありませんでした。

 再度のご連絡をお待ちします。

投稿: アク | 2009/08/05 20:28

先日は突然のコメント、失礼致しました。又 書籍、御手配方 早速 誠に有難うございました。一族代々の宝物とさせて頂きます。本家皆様の写真を拝見させて戴いたところ、今は亡き祖母、母、叔父達に、そっくりな本橋特有な御顔立ちの方がたが居られる事に改めて、感無量の念を抱かさせて頂いています。重ね重ね有難うございました。まずは御礼までに、、、残暑の候、一族みなさま御自愛下さいませ。

投稿: 後藤健夫 | 2009/08/17 00:06

後藤健夫さま

こちらでは連絡のやりとりなどに手間取り、すぐにお送りできない事情がありました。中尾医師は静養中のところ、このためにわざわざ自宅に戻って、送本してくれたのでした。

後藤さんからは何度かメールをいただいたのでしたが、返信不能のメールで、この間連絡を取れなかったのが残念でした。

メールをいただくとしたら、少なくとも、送信アドレスを返信可能にしていただきたかったです。

投稿: アク | 2009/08/18 22:13

アク様
弟が大変お世話になっております。
私も弟の「本橋」に対する熱い思いに触発され、三宝寺を探訪して参りましたが、非常に多くの本橋家の墓標に出会い、「家」の歴史の奥深さと、厳然として存在する血縁の重さに、身が引き締まる想いが致しました。
本家「油屋」は故あって石神井より東中野に進展しましたが、著名な写真家である本橋成一氏を輩出するとともに、お家の女子が中尾氏に嫁がれたご縁により、非常に意義深い先祖探求と私家本の御刊行を達成されたことを知り、さすがは本橋本家筋と、敬服の思いを禁じえません。
そして何よりも本来外戚である中尾先生とアク様が、本橋本家行き越しの考証にご尽力下さったことに、心より感謝申し上げます。
私共の母方の祖父、祖母ともに石神井本橋出自の者ですが、両家の家紋が「丸に剣片喰」であることからみて、新屋の分かれに属する家系であるのかもしれません。
しかし、由緒ある石神井に根をおろした本橋に連なる子孫として、今後ともアク様のサイトを通じて縁者の皆様と何らかの交流と、歴史の共有をしていければ幸いに存じますので、何卒よろしくお願い申し上げます。
ところで予断になりますが、現在新屋筋の本橋家が石神井中心に旧家・地主として繁栄しております。
その中でも本橋成夫(しげお)さんという方が大身でいらっしゃり、三宝寺の観音堂建立の際にも本橋一族で一番の寄進をされているようです。
「成」の字には何か本橋家における伝承のようなものがあるのでしょうか。
はじめての投稿なのに長文で失礼致しました。

投稿: 後藤健夫の兄 | 2009/08/23 04:00

後藤健夫の兄さま

コメントありがとうございました。

2年以上前に書いたこのブログ記事が、インターネット検索のおかげで、あちこちにおられる本橋家の縁者のつながりを掘り起こしてくれていることを、記事の筆者としてうれしく思っています。私がやりましたのは、この紹介記事を書くことで、この欄にコメントを書き込む機会を提供したことだけです。

本の著者、中尾英雄医師にも電話連絡を取り、兄上様のコメントをパソコン上で読んでもらうよう連絡を取りました。

中尾家では、東京荻窪にて医院を継いだ次男の方にも、3日前に孫(男の子)が生まれ(長男の方には女の子の孫ひとり)、喜んでいる時期でした。

投稿: アク | 2009/08/23 15:45

以前から本橋家のルーツを知りたかったのですが驚きです。

私の父の実家も三宝寺が菩提寺です。

しかし、父と兄弟たちは他のお寺に移ってしまいました。

父は、上石神井から保谷に分家しました。

保谷にも本橋も多く、よく地元ですかと聞かれます。

我が家の家紋は、「丸に剣かたばみ」です。

本家の本家は、「丸にかたばみ」と聞いています。

しかし、保谷の本橋家は「下がり藤」です。

つかえた武将の違いでしょうか・・・

保谷では、上保谷は真言宗智山派で田無から上石神井、三宝寺と同じです。

しかし、下保谷の「」下がり藤」の本橋家は日蓮宗で、大泉学園北側の妙福寺も日蓮宗です。

なにかお知りでしたら教えてください。

私の祖父は本橋家から婿に本橋に来ました。

栄吉の名は、祖父からそのまま父がいただきました。

これからも本橋の苗字に誇りを持っていきたいと思います。

投稿: 本橋栄吉 | 2009/09/23 16:48

 私は千葉県南房総市白浜町字塩浦という海沿いの約120戸の集落出身です。この集落のうち半数60戸が本橋姓を名乗り、また杖珠院という里見家の曹洞宗菩提寺の檀家という点も同一です。

 橋本姓は全国に点在するようですが、我が本橋姓は或る特定地区限定のようです。私の知る限りでは埼玉県にも本橋姓はいると聞いています。 また、世田谷区の医王寺の墓地に本橋姓の墓石が数基存在するのを見ております。

 石神井本橋と千葉白浜本橋との繋がりがあるのか、ないのかを知りたいと思っています。

投稿: 本橋一雄 | 2010/04/04 14:49

こんばんは。
はじめまして。
本橋姓のルーツを探していたら貴ホームページにたどりつきました。
私の母方が本橋姓で、井草のほうに本家があるそうです。
家紋は揚羽蝶です。
何か御縁がと思い書きこまさせて頂きました。

投稿: ぽっぷ | 2010/04/10 23:56

ちょっと古いデータですが、全国の電話帳ソフト(2001年)で本橋姓の分布を調べてみました。
電話帳に登録してる本橋姓が全国で5137件。
1位は東京都1744件、2位は埼玉県1149件、3位茨城県630件、4位千葉県401件、5位神奈川県373件、6位栃木県242件、7位静岡県114件・・となっており多くの「本橋さん」は関東に集中している事が分かりました。
私は東京在住ですが、意外に埼玉にも多いのに驚きました。

投稿: ぽっぷ | 2010/04/16 02:13

「日本の名字7000傑」というHPによると・・・
本橋姓は 「848位 人口約22,500 武蔵の唐竹白髭社、下赤工村神明八幡社神職家、加賀藩士など。東日本に多し。」
だそうです。

投稿: ぽっぷ | 2010/07/09 05:34

ぽっぷさん

お調べいただいてありがとうございます。

姓と家族のルーツ探しには、それぞれ尽きない興味を掻きたてられます。

ご紹介いただいたHPは、行ってみましたが、うまく使えませんでした。

投稿: アク | 2010/07/09 09:00

こんにちは。
アクさま。
いつもHP拝見させて頂いています。
ご紹介致しましたHP正しくは日本の「苗」字7000傑でした。
使い方ですが、左側の「目次」と言うところに「苗字順位検索」という欄がありここで検索できます。
その苗字で使われることが多い家紋も検索できますが、残念ながら本橋姓は載っていません。
さらに調べたところ「唐竹白髭神社」「神明八幡神社」とも埼玉県飯能市のようです。
何か本橋姓と関係があるのでしょうか。
東京の本橋姓とも関連があるのか・・・興味は尽きませんね。

投稿: ぽっぷ | 2010/07/09 15:32

はじめまして。

うちは実家が杉並区(旧井荻村)なのですが、その周辺に本橋さんという人がすごく多く、
その本橋さんは町内会や防犯連絡所などをやっているので、何か武蔵の地に昔から住んでいるのかと気になって調べていました。

やはり石神井周辺は多いのですね。すごく参考になりました。

投稿: ユウスケ | 2010/09/29 20:43

はじめまして
 ぽっぷさん アクさん 
 お調べになられた、その飯能市の唐竹地区に
生まれたものです。
 唐竹白髭神社も近くです。
うちの周りも本橋で、確かにここの唐竹地区では昔からの家は4軒に1軒は、本橋です。
 家紋は 丸に上がり藤 です。
この地区はその昔、林業が盛んで(所謂、西川材です)名栗川・入間川・荒川を筏を使って東京(江戸)へ杉、檜を運びました。
筏がトラックや鉄道に替わってからも、良質な材木を都内へ搬出してました。その道路沿いや鉄道沿線に分家がでて行き、飯能から都内への本橋姓が拡散したものもあります。その昔、150年以前と思われますが祖先が四国、西国巡りをした記録の石碑が以前の敷地にありました。
 東京の本橋姓は材木屋、家具屋、その他の関係の仕事で、唐竹から分家した方がいらっしゃいます。(東京の本橋姓のどの程度の割合か分かりませぬが)
 以上、ご参考までに 

投稿: 本橋 | 2010/10/18 00:02

こんばんは。
本橋様。
貴重なお話ありがとうございます。
私は仕事で東京の西東京市に良く行くのですが、こちらの下保谷や東町という町に本橋姓の方が多く住んでいます。
町内には古い共同墓地がありますが、本橋姓のお墓を見ると「丸に上がり藤」の家紋が多いですね。
ひょっとしたら埼玉の本橋様とも何らかの関係があるのかもしれませんね。

投稿: ぽっぷ | 2010/11/16 01:03

管理人様へ(・▽・)


突然のメールで失礼いたします。
並びに、これからの乱文ご容赦下さい。

私は、現在32歳女性、神奈川在住の本橋です。
家紋は、五三桐です。曽祖父は、戦時中は近衛兵でした。

父が、私の曽祖父以前の本橋家のルーツを探しています。

曽祖父以前の先祖では、私の曽祖父の父が、安政生まれで戸籍のほうでは昔の住所は、わかります。

武家のときは、風林火山の家来の関係だそうです。


私の情報はこのくらいですが、全国の本橋さんがわかったら嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします。


メアドは、悪戯メールが多い場合は変えます(><)

投稿: 白虎姫 | 2011/05/01 01:26

各位

飯能 唐竹で生まれた 本橋です。
家紋ですが 丸に上がり藤
更に
古い墓石には藤原名が刻まれています。
藤原と何らかの関係があったのでしょうか。

投稿: 本橋 | 2011/05/15 18:41

管理人様へ(・▽・)>スペースお借りいたします。

全国の本橋様へ。
以前、一度投稿させて頂きました神奈川の本橋ですが、今月末頃、父が、石神井に行きたいようです。
私は毎晩徹夜で色々調べておりますが、直接、石神井の親戚はいないし、私の大叔父さんは、うちの本橋は四国の出身だとか、言います。
私のひいひいお祖父さんは、調布町上石原から神奈川に移ったようです。
まったく情報がなく石神井に行くのは、プチ旅行として楽しそうですが、出来たら、石神井近くの本橋様にお会いしたいと思っております。
父は、市役所を定年退職して、庭の木を庭師さながらに切っています。
石神井以外でも、全国の本橋様と知り合いになりたいです。
もしかして、親戚!?と思われた方、苗字が本橋でルーツをお探しの方は、ご連絡下さると嬉しいです。

potawash@ezweb.ne.jp

他方から悪戯メールがあった場合、メアドは変更いたします


投稿: 白虎姫 | 2011/05/20 04:34

本橋様

おそろくお墓に「藤原」とあるのは本橋様の本姓のことでは無いでしょうか。
日本人の多くが「源平藤橘」の本姓を持っていると聞いたことがあります。

投稿: ぽっぷ | 2011/05/20 21:17

本橋のルーツについて埼玉苗字辞典が見つかりました。
武蔵7党の丹党の本名が本橋。もとはしの「はし」は土師氏の「はじ」から。
本橋の出自
丹(水銀等)採掘の丹生氏→土師氏として埴輪古墳造り→埼玉県飯能に土着丹党
本橋が飯能周辺から東京(練馬杉並世田谷等)に拡散したのは鎌倉時代前
参考
埼玉苗字辞典 ご著者の方は埼玉県内の寺社名家等ほとんどご訪問されたそうです。
http://homepage1.nifty.com/joichi/
丹生氏
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_nyuu.html
丹党の中山氏の活躍(八王子城)
http://www.rekishi.sagami.in/hachi.html

投稿: 本橋生市郎 | 2012/09/24 01:21

本橋生市郎さま

ほう。

「本橋」姓のルーツが古墳時代にありましたか。

書き込みありがとうございました。

このブログエントリーは、「本橋」姓の方々に読まれ、情報交換の場となっています。今後もまだまだ続くことでしょう。

ついでながら、「武州石神井邑・油屋 勝右衛門」の著者の一人、中尾英雄医師は、過る平成24年5月29日逝去いたしました。享年82歳でした。

生前、本著の残部(10部)の配布を私が引き受けています(道子さんのところにも残部が多少あるそうです)。本橋姓のルーツ探索に真摯な興味をお持ちの方は、ご自身の関わり、お調べになった結果などを本欄に書き込んでお申し出ください。贈呈します。

投稿: アク | 2012/09/24 09:06

本橋の出自
以下4項目の仮定を正しいとします
1 埼玉苗字辞典 本橋もとはしの「はし」は「土師氏」のはしの佳字の橋
2 埼玉苗字辞典 丹党の本名は「本橋」
3 子ノ権現縁起 丹党は「天野祝氏」系列、辰砂(水銀)丹の採鉱等をした「丹生氏」
4 日本書紀 垂仁天皇が、埴輪の功績により「土師氏」の姓を与えた


 日本でも,縄文時代から死者に施朱をおこなって埋葬する風習があり,赤鉄鉱・褐鉄鉱と共に辰砂も用いられています.この時期の朱の使用は,まったく呪術的なものと思われます. この風習は,その後,弥生~古墳時代まで続いています.魏志倭人伝の中には「日本(倭国)には丹を体(顔)に塗る風習と,丹を産する山がある」ことが記されていました.
 丹生氏と呼ばれる一族は,“辰砂を見つけて採掘する”技術集団の一族で,最も活躍したのは2世紀から5世紀の頃であろうと推測されます.当時は呪術や占いが日常的に行われていたため,丹生氏の地位はかなり高く,強い権力を持っていたものと考えられます.
 一族の守神は“丹生都比売(姫)”で,彼らの活躍した場所には“丹生神社”が建てられました.こうした丹生氏の活躍の場は辰砂の産する広い地域におよび,現在でもこれらの地域には丹生神社が多数残っています.恐らく現在残っているものだけでも,全国に点在する丹生神社の数は 100近くになるものとおもわれます.不思議なことに,多数の丹生神社があり,過去の丹生氏の大きな存在にもかかわらず,古事記や日本書紀には全く丹生氏は登場してきません.もっとも,古事記や日本書紀は伝説や神話を元に,都合のいいことだけを綴っただけのものですから,丹生氏のことは書く必然性が無かったものと思われます.
古代の関東の古墳の所在地として、群馬(県内点在約1000基)埼玉(埼玉古墳群)千葉(房総風土記の丘群・房総半島点在)茨城(点在)東京(多摩川沿い)と存在しています.
これらの古墳の近くには、ほとんどの場所に、丹生神社があります.
丹生氏・丹氏は「鉱山技師」「土木技師」集団として「古墳の築造」に関与していたのではと思われます.
特に藤岡周辺には、丹生神社や埴輪の窯跡があり、また神流川沿いには鉱山と丹生神社が多数分布しています.藤岡の本郷埴輪窯跡や生出塚埴輪窯跡群で作られた埴輪が関東一円の古墳に分布しています.埴輪の土の発見と採掘、そして制作により「丹生氏」に天皇から「土師氏」の姓が与えられたのではないかと思われます.丹生氏・丹氏は本業として鉱山師、副業として天皇勅命の埴輪造り、しかし埴輪造りは古墳の終了とともになくなります.そこで天皇から与えられた名「土師」、誇りを持って「本は土師」・「本橋」と名乗ったのではと思慮されます.漢字の「本」は、木の根本に印をつけて「本」木の先端に印して「末」、今「元」字で「元祖」等言っていますが「もと」を示す字は「本」が本字です。まだ本業の仕事は続きます.和同開珎のための銅採掘、大仏鍍金の水銀のための辰砂採掘、そして金鉱と秩父から飯能にかけてはいろいろな鉱脈が多数あります.特に飯能には辰砂の鉱脈があります.このような状況から丹生氏は飯能に土着したのではと思います.この時代の本橋は古墳の広がりとともに拡散(茨城利根川沿い・茨城北部散在)(群馬桐生近辺)(千葉房総南部)
丹生氏は定住をした、本名は本橋ですが、本家筋だけ飯能の地名「中山」を名乗ります.分家筋は本橋のままだったり、分家した時に本橋に戻ったりしています。他の地にわかれた本橋(丹生氏)はそれぞれの地名「高麗」「勅使河原」「横瀬」「秩父」等を名乗ります。鎌倉時代には鎌倉武士武蔵7党のうち丹党として活躍します.たぶんこの前後ころと思いますが、勢力拡大のために次々分家し、入間・所沢・川越・和光・青梅・西東京・練馬・杉並・世田谷と鎌倉に向かう道沿いに土地(本橋)を増やしていきます.甲州街道上北沢に「鎌倉街道入り口」があります。南には二子玉川の兵庫島、この2地点をつなぐ環八に沿って、鎌倉街道があったと思われます。これは鎌倉街道中道に連なります。北に行けば川越街道、それに沿って本橋が分布しています。また飯能から南に拡散すれば鎌倉街道いわゆる上道につながります。
鎌倉幕府が滅びると飯能の中山(本橋)家は北条の家臣となります。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、6月23日に八王子城の攻防戦が激しく展開されました。前田利家勢1万8千と上杉景勝勢1万を主力とし、八王子城は3千人で、城主北条氏照の留守を預かる横地監物をはじめ中山勘解由家範、狩野一庵、近藤綱秀らが死守しました。中でも中山勘解由の活躍は寄せ手からも注目を浴び、前田利家は中山の助命を伝えたが、中山は自刃したといわれています。中山勘解由には嫡男照守と次男の信吉がいました。八王子城落城のとき22歳であった照守は、落城後、郷里中山村(飯能市)にいたが、中山勘解由の活躍を知る家康の恩恵で、弟信吉とともに徳川家に仕えることになり、照守は旗本として初めて平山村に知行地を与えられた。慶長5年(1600)9月、関が原の合戦のとき、照守は徳川秀忠に仕えていたが、秀忠が信濃上田城を攻めたとき、照守は「上田の七本槍」の一人として活躍しました。照守は3千500石を知行し、御旗奉行を勤め、八条流の馬術をよくしたという。父の名を継ぎ、勘解由を名乗った。
次男の信吉15歳も徳川家康の小姓となり、後水戸徳川家の家老となり(下妻に6500石)、徳川家光に、徳川光圀を副将軍にと推挙した。筆頭家老(最後には松岡藩2万6000石)として仕えた。この時、武士や職人の本橋姓の者を引き連れて行ったと思われます。
この時代の本橋 茨城県下妻周辺・高萩周辺

以上で現代の「本橋の姓の分布」の説明ができそうですが、「本橋」の皆様いかがでしょうか。

丹生氏(鉱山師・土木・建築)丹党(鎌倉武士)中山(北条家臣)旗本・水戸黄門光国家臣

これらを調べる前は「本橋なんて、そこいらの橋のたもとのどん百姓」かなくらいに思っていましたら、本橋ってもしかしたら自信を持っていいのかなと淡い期待です。
本橋生市郎

投稿: 本橋生市郎 | 2012/09/25 15:21

本橋生市郎様

本橋家のルーツについて、詳しいお話をありがとうございました。

「埼玉苗字辞典」著者の茂木様用に、例の本を一冊、本橋様の住所宛に送ります。発送は明日か明後日になると思います。しばらくお待ちください。

投稿: アク | 2012/09/25 16:08

こんばんは
本橋生市郎様

やはり本橋氏の発祥は飯能でしたか。
とても興味深く拝読いたしました。

アク様
中尾英雄さまお亡くなりでしたか・・
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

投稿: ぽっぷ | 2012/10/14 22:33

本橋の出自(第2稿)
社家の姓氏  大丹生・丹生氏
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_nyuu.html
この系図に依ると
神皇産霊尊
天道根尊(紀伊國造)
途中略
大名草比古命(国前・国懸両神宮奉斎)
途中略
神奴小牟久(丹生都比売大神奉仕)
途中略
稲村(丹生祝・丹生川上神社)
途中略
家蔭(桓武朝・大和の国在住)
家義
次に2家に分かれます。
家武(天野祝・高野山の麓・天野の里)
家信(武蔵介)
そしてこの家信が
峰信(丹二)
峰時(丹貫主)
と続き
武蔵丹党(本名・本橋)に成ります。

本橋のご先祖は
天道根尊(紀伊國造)
本橋の氏神様は古い方から
神皇産霊尊
国前・国懸両神宮
丹生都比売神社
と成ります。

投稿: 本橋生市郎 | 2012/10/22 12:59

私は生まれは石神井のお隣の大泉ですが、父親は埼玉の唐竹の近くです

家紋は丸に抱き澤瀉ですね

幼稚園は石神井のほうでしたが、クラスに3人本橋がいました

この名字のおかげで、田無の不動産屋さんにて練馬の本橋ということで、今のマンションに審査がすんなり通り、入居することができました

練馬の本橋ということで、ああ、「練馬の大地主さんね」と言われることもままありましたが、私の父親は唐竹に近いところの出身なので、宮崎事件のほうの出身だとよく訂正してました

私の父親は、名栗川の橋のたもとにあるから本橋というのでは?といってましたが、このような武蔵七党に関するルーツがあるのですね(確かに父の実家にも刀はあるそうです)

先ほど、某オークションのやり取りで、橋本さまと何度も間違えられていたので、本橋家のルーツをたどっていて、このページにたどり着けたのは幸いです

投稿: 小平の狸 | 2012/12/14 02:04

全国の本橋の皆さま

飯能の本橋です。
飯能と言ってもかなり山奥の出で
昔は筏で名栗川・入間川・荒川と
材木を東京へ運んでいたのが先祖です。
(勿論、鉄道、トラック便のない時代です)
そのルートに徐々に本橋の分家が住み着いて
拡散したと思われます。
鉄道の時代になってからは
その沿線に沿って、やり分家が拡散して
いきました。

元は材木屋から不動産屋、米屋、家具屋などに
なり西武沿線に拡散していったと思われます。

私の実家の親戚や近くの分家が
南千住の荒川沿いや品川などに出ています。
清瀬、田無、練馬にも出ています。

勿論、他の飯能からの本橋家出身の方も
西武沿線沿いから拡散していると思います。

投稿: 奥武蔵 | 2014/03/12 00:33

奥武蔵さま

このコメント欄は、期せずして、各地の本橋姓の方々が名乗りを上げ、ルーツについての情報交換する場になっています。飯能の本橋家の由来については、このコメント欄で、本橋生市郎さんが詳しく書いておられます。

投稿: アク | 2014/03/12 09:24

今度ぶらりと飯能市に小旅行に行こうかと思っています

投稿: ぽっぷ | 2014/05/03 02:10

本橋の皆様
お久しぶりです。

先日、「家紋の真実」等の著者である。
高澤 等氏( 日本家紋研究会会長)の話を聞く機会がありました。

当方の家紋は
丸に上がり藤です。
藤の家紋の元は「下がり藤」だったらしいですね。
それが下がりよりは上がりの方が縁起が良いということで
下がり藤から分家などが「上がり藤」にした
そして更にその分家が本家と違いをつけるいみで
藤をまるで囲った これが「丸に上がり藤」なった
らしい
そういうお話を伺いました。 ご参考までに


投稿: 奥武蔵 | 2017/02/12 20:36

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