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2007/05/26

本橋成一の写真

 写真家本橋成一のこれまでの写真を集大成した回顧展が開かれている(ここ、07/6/1まで)。会場でトークショーも開かれた。みずからの写真を回顧して語る本橋成一の言葉には、人柄の誠実さが滲んでいて好ましかった。この写真展のために作られた小冊子『本橋成一「写真と映画と」』は、ロングインタビューを編纂したもので、この人の生い立ちから写真歴が詳しくまとめられている。この人を理解するのに好適な書誌である。

回顧展の意義 この写真展は、リクルートが銀座に持つ二つのギャラリー(「ガーディアン・ガーデン」と「クリエーションギャラリーG8」)を使って行われてきた「タイムトンネルシリーズ」の第24回分にあたる。第1線の写真作家のデビュー当時の写真に光を当てる、という趣旨だそうだ。本橋成一の場合は、最近作まで含めた回顧展となっている。ひとりの写真作家がどのように出発し、どのような道を歩いてきたかが一覧でき、作家の写真への考え方、さらには生き方までが浮かび上がってくる。

報道写真家ではなく 本橋成一は、写真家の分類の上では、ドキュメンタリー作家とか、社会派と見なされているが、その分類に入れられる他の作家とは、かなり違うのではないか。彼自身が、トークショー(07/5/23夜)で語っていたが、若いころ報道写真家をめざし、岡村昭彦のアシスタントを務めた。サイゴン陥落の前後らしい。その間、報道写真家たちの裏側を見て、自分のめざす写真ではないと思ったという。スクープをねらい、ライフの巻頭を飾る写真をものにし、ピュリッツァー賞を得ることをめぐっての激烈な競争、悲惨でショッキングであればあるほど売れる写真、などの現実をみていやになったらしい。

本人のいやがる写真は撮らない 彼は写真学校の卒業制作に、筑豊に出かけた。土門拳の『筑豊の子どもたち』がでて、注目を浴び、多くの写真家が筑豊へ押しかけていた。現地の人たちはすっかりカメラ嫌いになっていた。上野英信(みずから坑夫となり、炭坑をテーマにした記録文学を書いた。『追われゆく坑夫たち』1960、岩波新書、など)と出会い、決定的な影響を受ける。そこから写真が変わった。「本人のいやがるような写真は撮りたくない」と。悲惨さを暴かれて、うれしがる人はいない。むしろそこでたくましく生き、ささやかながら喜びのある暮らしに目を向けていく。土門拳は半年で撮り終わったが、本橋成一は、何年も筑豊に通い続け、人々と共に生活しながら、こつこつと、心の通じあう写真を撮った。それがあの『炭坑(やま)』となり、太陽賞を受賞する。

人間が好きなんです トークショーの相手は、写真評論家の竹内万里子であった。若いゆえポストモダン的な表現を好むらしいこの人は、「写真は、もともと暴力的である」と話を切り出した。暴力性の対極から写真を撮ろうとしてきたのが本橋、というストーリーを作りたかったようだ。本橋は、そのような表現にはなじめず、「ぼくは人が好きなんですよ。人への関心の方が、カメラより先にあるのです。カメラがあってこそ会える人がいます。写真を撮ることでたくさんの人と会ってきました。それで何か写真を残せればいい、と思っているんです」と、訥々と語る。そんな考えでとり続け、サーカス、上野駅、魚河岸などのシリーズを次々にものにした。

チェルノブイリへの取り組みかた 本橋成一といえば、チェルノブイリ原子炉事故に関連した写真や映画がよく知られている。彼はチェルノブイリに入ったときには、何を撮るか、はっきりした目的は持てなかった、という(「ぼくは最初はいつもいいかげんなんです」と)。事故現場や被害状況は、すでに報道されていた。病院にも行き、被害にあった子どもたちと会ったが、撮ろうという気持になれなかった。悲惨さをそのまま伝えるだけで何になるだろうと。悲惨さを伝えるだけの写真が、メディアで歓迎され、消費されていく。そんな商売はやりたくないと思った。ベラルーシの被災地区で、人々が退去命令にもかかわらず、逃げもせず暮らし続けている村に行き当たった。命と暮らしから、この問題を見ていけばいいのだと気づいて、やっと写真が撮れるようになった。

押しつけでない写真を 最後に、今後どんな写真を撮っていきたいと考えるかを問われて、分かる写真ではなく、見る人のイマジネーションを喚起する写真を撮りたいと、きっぱり言っていた。言いかえれば、メッセージを押しつけるのではなく、見る人に立ち止まらせ、何かを考えてもらう写真を撮りたいということのようだ。彼の写真はたしかに問題を直視し、それを荒っぽく伝えようとするのではなく、柔らかく周辺から見ていこうとする。問題の深さをそれとなく気づかせる。だからまなざしは優しいが、込められた思いは深い。

 なお、本橋成一は、妻の従弟である。本橋成一が当主である本橋家の歴史を、妻の妹とその夫が協力して調べて書いた。そのことについては、このブログに書いたことがある(『武州石神井邑・油屋勝右衛門』07/3/14)。

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コメント

もう40年も前のこと、創刊以来購読していた雑誌「太陽」で拝見したのを思い出しました。先年、占領軍関係の車両と間違えて殺害された橋田さんの夫人が、日本人であるから殺されたのではないことの証明のために必死の努力を重ねられたことも思い出しました。伝えなければならないことのための報道写真家のご苦労により、歴史の真実が伝えられることも、意図的な虚偽の報道に使われることもありますね。全体を見て正しく判断する力を、見る者は養わねばなりませんね。

投稿: Miekli | 2007/05/27 10:58

雑誌「太陽」(懐かしいですね)に出していたのは「ユーラシア大陸思索行」のシリーズでしょうか。

報道写真について書いたことは、いささか誤解を招きかねないですね。生死をかけて、戦場におもむき、現場を伝えてくれる報道写真家の存在は貴重です。しかし本橋成一は、それは自分向きの写真ではないと考えたということです。

写真にしても、ほかの芸術部門にしても、それを専門職とするのは大変なことです。売れなければ生きていけない。そこで芸術家は悩むわけで、コマーシャリズムに乗って売れることを選ぶか、自分の道を行くか、など。私たちも安易にマスコミなどに乗せられることなく、自分の判断のできる力を養うことが大事です。Miekliさんのおっしゃるとおりです。

投稿: アク | 2007/05/27 11:52

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