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2007/06/07

思いがけず、聖書への回帰

 妙ないきさつからある聖書講義を聴講することになった。それだけならいい。さらに思いもよらぬ深みにはまりつつある。私には、言い過ぎ、書きすぎの傾向があるのを自覚する。この講義の講師、太田道子を、あるエントリ(「『聖書と現代社会』を紹介する」07/1/15)でつい筆が滑って「女親分」と書いてしまった。これが災いしたようだ。この連続講義は、ある女子大学の同窓会の主催である。それを企画した同窓会長さんが、女親分に私をぶつけてみると面白かろうと、ふと思ったのかもしれない。あるいはこの女親分に感化されて、私がまともな道に戻るかもしれないと淡い期待を抱いたのかもしれない。そのあたりの真相は確認していない。

 そのようなご配慮を尊重するのが私の性分である。とにかく私は神妙に講義に出た。旧約聖書の「出エジプト記」を読むという、毎週一度5回連続の講義であった。三十余年このかた、聖書など手にしたこともない。しかし、幼少年時代から刷り込まれたキリスト教の基本知識は、教会を離れた今も、持ち合わせている。本気で聖書や神学を勉強したこともある。講義内容には違和感はなかった。はじめて対面した太田道子さんは、私が読んだだけで女親分と見抜いたとおり、大迫力があり、カリスマ的といってもいいほどだった。他方、女子大卒のおばさまたちの席にいることの違和感は猛烈にあった。何で私がここにいるのだと。

 講義は最終的に何をめざしているのかと最初疑問を抱いたが、全体としてのメッセージではなく、聖書の部分部分に何を読み取るかを重視するという講義の趣旨を理解したあとは、一つ一つの話題を興味深く聞いて、楽しめた。講師は旧約聖書学の碩学である。ヴァチカン、あるいはエルサレムの研究所など一級の研究現場にあって研究を深めてきている。聖書にとどまらず、古代オリエント史にまで研究の範囲を拡げている。その学殖からする解説は並みではない。しかもこのひとは単なる学者にとどまらない。パレスチナ難民援助の活動家でもある。だから、古代の民族史物語を語りながら、現代の問題への洞察を語る。聖書講義だから、当然大部分の聴講者はクリスチャンだろう。しかし講師は、そんなことに頓着しない。神とか、教会とか、信仰とかは、聖書を読むのに関係ありませんと、折に触れて堂々とのたまう。なんの曖昧さも残さず、ズバリ言い切るのは小気味いいほどだ。さすが女親分。

 そこまではよかった。そのあと、予想外の場に引っ張り込まれることになった。どうやら講師は、私が女親分と書いたブログエントリのことを耳にしていたらしい。終講後「あなたでしょう。私のことを女親分と書いたのは」とにらまれた。きつい責め言葉かと思ったが、言い終わった顔は微笑んでいた。

 2回目が終わったときだったか。若い人たちと懇談会をしている。聖書の翻訳を出版する予定だが、その本に解説を添えるため、何度かの懇談をして、それをまとめようとしている。それに加わらないか。そう誘われた。私のような異色の人間を混ぜることで、何かが出てくるかもしれないと思ったのだろうか。わたしは、女親分から、子分になれと誘われたのだと受け止めた。在来のキリスト教と教会への批判的姿勢を同じくし、世の中に向けて強いメッセージを発しようとする女親分についていく。異存はない。

 懇談の初回があった。7時間、太田さんの自宅で、夕食(道子さんの手料理)を挟んで延々と話し合いが続いた。とくに太田さんは、熱っぽく語った。イエスが弟子を招き出すという聖書の箇所が主題だった。むずかしくいえば「召命」。女親分に「召命」されたばかりの私にはわかりやすかった。聖書に書かれた事柄から現代のわれわれの状況まで考えるというのが懇談の方向である。私もちょっとだけ口を挟んだつもりだったが、けっこうこちらもしゃべったのかもしれない。太田さんはたった3人を相手にしながら、百人の聴衆を前にしたかのように、言葉に力を入れ、手を振り、熱く語った。こんな調子で、こんな長時間語り続けて、あとで疲れが出ないか、心配だった。その後聞いたのだが、常連の若い連中も、そんなにエネルギーを込めて語る太田さんに目を見張ったらしい。私は素直に聞いていたつもりだったが、何か刺激的なことを口走ったのかもしれない。思い当たらないのだが。

 この懇談は続くようだ。こんな話し合いで、聖書の翻訳本に付加する解説がまとまるのか、疑問に思うのだが、懇談に加わることは楽しい。だが、えらい深みにはまってしまったものだ、とも思う。すっかり縁を切ったつもりの聖書の世界に、私が回帰することになるとは。

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コメント

アクさん、ドイツ旅行からお帰りに成られて、なにやら運命の歯車(仏教では因縁)が本格的に廻り始められたのではないでしょうか。私もアクさんのレポートの愉しみがまた一つ増えました。
おかげさまで、私もアクさんがお帰り後、頓(とみ)に心境の変化が訪れまして、思わぬ方向に行きそうです。掲示板の方も時々興味深く拝見しております。無意識下で何か影響を頂いているのかもしれませんね。

投稿: 梅吉 | 2007/06/08 08:04

梅吉さん

まあ、私は運命の歯車とはいいませんが、いろいろな偶然の出会いが、その後の生活を少なからず変えていくということは、しばしばあることでしょう。それは自然なことだと考えます。

忙しくしていて、このところ梅吉さんのブログ(右コラムにある「木曜日の女」)をゆっくり読みにいけずにいますが、ルックスはだいぶさま変わりしているようですね。そしてあいかわらず、いや、ますますのハイテンションで走っておられるように見受けました。そのうちにじっくり拝見します。

先日も「断片的に」のほうにコメントいただきながら、返信できず、ごめんなさい。

投稿: アク | 2007/06/08 10:22

いえいえ、いつも温かいお心遣いありがとうございます!
おかげさまでアクセル全開です(笑)。時々アクさん始め皆さまのブログにお邪魔してクールダウンさせて貰っています。

時間に対する認識。時間の流れ方。必然と偶然。人それぞれ様々な捉え方が有りまして本当に面白いと思います。宗派による違い、「空」を主体として「無」を最上の悟りとする側の捉え方、「中道」の悟が最上とする側の捉え方、またその中でも、空仮中の三諦観によるそれぞれの捉え方の違い、比較してみるのも面白いかもしれませんね。

投稿: 梅吉 | 2007/06/10 00:03

「本田哲郎神父訳の聖書」
 9.11後、数十年の付き合いを含むアメリカ人の友人達との激しく、重い議論と決別を経てキリスト教会から離れ、5年以上になります。戻る気持ちはありませんが、表題に惹かれて、ご紹介する聖書の翻訳があります。大阪で活動する本田哲郎神父(1942年生まれ)の翻訳した聖書をご存知ですか?最初の四福音書と使徒言行録「小さくされた人々のための福音」の出版(新世社)は2001年1月、ローマ書とガラテヤ書簡が9月で、その後どこまで出版が進んだのか検索してみましたが、判りませんでした。
僧侶との対談記事は
http://www.asahi.com/kansai/kokoro/taidan/OSK200609050010.html
にあります。

例えば、マタイ伝の冒頭の表題は「貧しさと「けがれ」を担うイエスの生い立ち」となっています。

キリスト教も文化の一つで、それを超えるものではないと考えるに到り、生存を脅かされている者の側に立つためにも、半世紀近い教会生活を終わりにしました。全てのキリスト教徒がアフガニスタン侵攻とイラク戦争は誤りであったと謝罪し、復興を支援しない限り、「キリスト教会」は無意味と思います。一部の「良心的キリスト教徒」を認めるだけなら、世界宗教としてのキリスト教に意味を認められないからです。家族を失い家を失ったパレスチナ、イラク、アフガンの民衆の嘆きの続く限り、クリスマスを祝い、毎日曜日に教会で説教を聞き、日々祈りをささげるキリスト教徒はすべて偽善者であると思っています。

投稿: Miekli | 2007/06/22 09:44

アク様: 数日前に、最後のコードも入力して送信したコメントが掲載されないのは、このシステムの設定でしょうか?私が誤って送信に失敗したのでしょうか?本田神父訳「小さくされた人々の福音書」に関するものです。あるいは、私の記憶違いで別の場所に書き込んだのでしょうか?

投稿: Miekli | 2007/06/24 09:51

アク様: Miekiです。
最近2度この記事にコメントを投稿したのですが、掲載されなかったのは「この情報を登録する」をクリックしなかったからでしょうか?
試しに、上記の項目にチェックをして見ます。
以前は、簡単に投稿できたと思うのですが...

投稿: Miekli | 2007/06/26 08:37

Miekli さん

いまはじめて、Miekli さんのコメントがあるのに気づきました。申し訳ありませんでした。

コメントやトラックバックがあると、自動的に私にメールが届くように設定してあるのですが、それが設定変更されていたようです。コメント一覧を見に行けばよかったのですが、メールの有無の方を信頼していました。

迷惑コメントが日にたくさん来るので、一覧を見てから公開、非公開を決めています。

ということで、とりあえず、ご返事しておいて、コメント内容への返信はあとでいたします。

投稿: アク | 2007/06/27 16:02

Miekli さん

 コメント放置で、申し訳ありませんでした。メールがあるように設定してありましたが、じっさいにはメールが来ないことが分かりました。たぶんニフティのシステムに問題があるのでしょう。これからは気をつけてみることにします。
 
 本田神父のことは「釜ヶ崎と福音」(岩波書店)で、知っていました。新約聖書の翻訳もしておられるようですね。キリスト教化される以前の、生前のイエスがもし現在の世界にいるとすれば、現在のキリスト教会には背を向けて、本田さんのように釜ヶ崎に、あるいはパレスチナやアフリカの難民キャンプに、現れるに違いない、と思います。

 現在の教会のあり方を批判しつつも、その圏内で活動や発言を続けている人もいるし、まったく離れしまっている人もいます。私は後者ですが、前者の方たちとも付き合っています。今回の聖書翻訳への関与は、福音書の中に、宗教的ベールに覆われながらも、見ようとするものには見えてくるイエス像に、私が関心を持ち続けているからです。

 Miekliさんの教会への決然とした離別宣言は立派です。私は、ずっと「なまくら」でやっています。

投稿: アク | 2007/06/27 16:57

ブログ読みました。
太田道子さんとの語りの場を持たれたとのこと。
アク先生が太田さんに魅せられたのか、太田さんがアク先生の知を必要としたのか。
いずれにしても、種が蒔かれたことがうれしく、収穫がまちどうしいほどです。
太田さんの著書、聖書と現代社会では、人を行動にかりたてる信仰に裏づけされた思いを、スピリテュアリティと呼んでいます。
義憤なき今の日本社会、人が人を抑圧しない社会の実現のために、
お二人が紡ぎだす言葉が、やがてテキストとなり、我われにとって
大いなる示唆となることを期待しています。

投稿: sollers | 2007/07/08 15:22

sollers さん、お久しぶりです。

その後のことを、今日は「ある食事会」に書きました。

さて、太田道子さんは、私に何の期待もないと思います。しかし、私は、道子さんとその周辺の人々のあり方に興味を持って、つきあっています。

「スピリチュアリティ」は、私にはわけの分からない言葉です。宗教の最後の砦でしょうか。ローティと同様、私は"religiously unmusical"ですから。

「人が人を抑圧しない社会の実現」には、私は深く絶望しています。ヒトというこの生きもののあり方が、おおきく変わると思えないからです。

少しだけでも現状よりよくするにはどうするか、だけを考えたいです。何より幻想を持たないで、現実を直視することでしょうか。

投稿: アク | 2007/07/08 19:40

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